91才でIDEOのデザインアドバイザーとして働く女性の話
僕らの業界には、高齢になっても引退せずに死ぬまで働くような人が多い。
僕の師匠のひとり(Kさん)は、ひとりは弘法さんの店をしまい家に帰って寝て翌朝冷たくなっていた。もうひとりは、ガンがみつかって、それでも仕事をしていたが、入院されたあと、何か月も持たずに亡くなった。
今朝、この記事を読んで、そんな先輩たちを思い出した。(以下、記事の要約)
この記事の女性は91才で、有名なIDEOというデザインコンサルタント会社で働いている。
高齢者や低視力の方々のためのプロダクトデザインのアドバイザーなのである。
彼女は89才の時、IDEOの創業者を紹介した1時間番組を見て、彼と彼の会社に惚れ込んでしまった。黄斑変性症の彼女はパソコンを使えないので、タイプライターで手紙を書いて郵便で送った。自分なら彼らの力になれると。そうして、彼女は採用されたのである。
そもそも、彼女は、10才の頃から発明家になりたいと思っていた。
だが、工業高校などが、女性を受け入れる時代ではなかった。彼女は家庭用品関連の発明でもと思い、家政学を学んだ。
学校を卒業したのは1945年、第二次世界大戦が終わった年である。
彼女は軍の作業療法士として採用された。
負傷して戦争から帰ってきた多くの兵士たちのために、さまざまな装置を考案した。また、当時多かったポリオの患者さんも、同じように救った。
42才の時、軍を退役して、アメリカで最初の、個人営業の作業療法士となる。
子供たちのために働き、バランス遊具を発明したりした。
52才で結婚し、事業は繁栄、心理療法士の夫とふたつの建物を建てた(ひとつは心理療法のため、ひとつは自分の作業療法のため)。
彼女は5回もリタイアしようとしたけど、結局仕事に舞い戻り、1997年にはアーティストになるために学校に行った。それは、発明のデザインを描くために大いに役に立っている。
僕の師匠たちは、『古着屋』であり、『古裂ディーラー』であった。
彼らにとって引退はなく、生きることはまさに『古着屋』であり、『古裂ディーラー』であることであった。
彼女、バーバラさん(Barbara Knickerbocker-Beskind)さんは、『発明家』であった。10才の時から『発明家』であり、91才の今も『発明家』である。
自分がなにものか、それを一言で表現できる人は幸せだ。そして、それを職業にできている人は、もちろん、本人の努力の賜物だけど、それでも最高の幸運に恵まれていると思う。
そういう人は長い人生を、最後まで働きながら、生きることができる。
できることなら、そういう人生を歩みたいと誰でも思う。
だけど、話はここで終わらない。
僕の尊敬する会社の大先輩、大いに出世された方で、やっと仕事から開放されて、ご近所に住んでおられる。
その大先輩は、会社を去られたあとも、まったく、マイペースである。
もう、頼まれても仕事はされないし、会社にも行かれない。
でも、仲間と麻雀をしたり、僕を含めた昔の仲間と集まって、大いに語り飲み、いきいきとしているところは、仕事場でご一緒した時となんら変わりがない。
ある人は、「会社で何十年も好きでもない仕事をしてきた。早く引退して、仕事を辞めたい」と言った。
そういう人は、会社を去ったあと、次になにをするか、『会社員』をやめて、何になるかみつけるのが大変だなと思ったことがある。
でも、その大先輩の場合は、違うんじゃないかと気づいた。
その方は、いつも飄々とされていた。たとえば、1000人以上を率いるある部署のトップになったときの就任の挨拶も、まったく飄々と平然としておられたそうだし、さまざまな困難にも、いつも飄々と対処されていた。
最近、感じている。
その方は、『会社員』だったのではなく、仲間と酒を飲み語ることが大好きだった『◯◯◯サン』そのものだったのだなと。
だから、『会社員』をやめた今でも、かつてもまったくかわらない『◯◯◯サン』で、あいかわらず、飄々と、いきいきとしておられるのだ。
大先輩は、『会社員』であるときも、まず第一に、『◯◯◯サン』であったのだ。
バーバラさんの記事の最後にこんな言葉が紹介されている。
私はみんなが私のように仕事を楽しんで欲しいと思っているわけではありません。だけど、もしあなたがポジティブな光の中で自分がなにものかを決めるものを持っていないとしたらー 編み物がとてもうまいとか、いまだにピアノがとても上手に弾けるとかでも良いと思うのですが ーあなたは自分がなにものか(アイデンティティ)を見失ってしまうでしょう。これがわたしのアイデンティティなのです。働き続けるということが。
そう、きっと、自分がなにものかというのは、『古着屋』である必要も、『作家』である必要も、『発明家』である必要も、なにか一言で説明できるような普通名詞や、職業名である必要はないのだ。
ただ、自分が、ありのままの自分が、もっとも輝ける状態、もっともいきいきと周囲の人たちと交わっていれる状態、そういう自分であり続けること、それがその人の等身大のアイデンティティなのだ。
僕も56才だが、人生は長そうだ。 まだまだ楽しんでやるぞ!
photo by Rama V