多くの経験を重ねて自分の可能性を試す vs 平穏無事に暮らしたい
サカタミツさんの「Business Medea 誠」さんの記事で知ったのだが、統計数理研究所というところが『日本人の国民性調査』というのを継続的におこなっていて、日本人の意識とその変化についての調査結果をまとめておられる。
そこには面白い調査結果が満載なのだが、ふだんなんとなく思っていることが、数値になって示されていて面白かった。
たとえば、この質問
つぎの2つのうち、どちらがあなたの気持に近いですか?
1. 仕事や遊びなどで自分の可能性をためすために、できるだけ多くの経験をしたい
2. わずらわしいことはなるべく避けて、平穏無事に暮らしたい
に対する答えの割合は、全体(1579人)では、約6割が「多くの経験を」と答え、残りの3割が「平穏無事に」と答えている。
上の円グラフは20代に限定したものだ(161人)。全体よりやや「多くの経験を」と答えた人が多い。
この数値は2013年のものだが、1983年のものもあって、その時の20代(410人)の「多くの経験を」と答えた人は80%にのぼっており、ちょうど僕が大学を卒業したころより、その割合がかなり減っていることがわかる。
さて、人をそうやって二分することがどれほど妥当かは少し疑問は残る。
ひとりの人間でも、「多くの経験を」と思うモードの時もあれば、「平穏無事に」と思うモードの時もあるので、質問された時によって、答えが異なるということもあるだろう。
だけど、おおむね、そういう割合だと思っていれば、何かを考えるときの材料のひとつにはなりそうだ。
ところで、そのふたつの価値観は、どちらかが良くて、どちらかが悪いということではない。
人それぞれだろう。
そういえば、大学時代の友人にKという男がいる。
彼は経済学部で、アイスホッケー部の主将を務めた。
彼の哲学は、20代のころから、まさに、「平穏無事に」であった。
たとえば、白樺湖での合宿。リンクをぐるぐると走る辛いスケーティングから練習が始まる。スケーティングでは、風圧の関係でトップを走るのが一番つらい。
Kはたいてい誰かの後ろについて最大限に体力を温存して走る。
シュートの練習をすれば、フェンスのない屋外リンクなので、いくつかのパックはリンク外の雪をどけていないところまで飛んでいく。
それを取りに行かないとパックが減って練習にならないので、積もった雪を踏み分けて取りにいかないければならない。
パックを集めているとき、リンク外の遠くにパックが見える。
Kと目が合う。
Kはくるりと向きを変えて、リンク内のほかのパックに向かう。仕方なく、僕が雪をかきわけていく。
たとえば、Kのスティックは驚くほど長持ちする。
スティックは消耗品で、磨り減ったり折れたりする。
いつも省エネ運転の彼は、スティックの使い方もうまく、なかなか折れない。下級生のときはスティック1本で試合に臨んでいるときもあり、どうやら彼は、自分のステッィクは折れないと思っているか、折れても誰かのを借りればいいと考えているらしかった。
まあ、いま上に書いた話は、彼の結婚式の披露宴でした内容だから、かなり脚色している。
彼の名誉のために念のために書いておくと、彼は主将に選ばれてチームの核であったことは間違いのないことだったので、自分勝手だったわけではない。
そんな目に合わされても、僕はやっぱりKが好きだったし、チームのみんながそうだったと思う。
だが、できることなら「平穏無事に」と考えるのがKであったことも、また間違いのないことなのだ。
Kは、京大経済学部で、体育会の主将だったし、浪人も留年もしなかったから、就職先は、いわば選び放題であった。
クラブの先輩たちも凄い人ばかりで、その就職先のリストには、煌めくばかりの社名が並んでいた。
商社や銀行や一流メーカー、選び放題だった。
選んだ企業名は書かないでおくが、Kが選んだ就職先は、とても安定した、競争とは無縁と思われる一流企業であった。
彼にたしかめると、やはり選定の基準は、「安定」であった。
僕らがまじかに見た先輩たち、みんなが自分がやると言って譲らず主将を決めるのに長い話し合いが必要だった先輩たち、みんなギラギラして、死ぬほど働いても、欲しい物を手に入れて、世界を変えてやるんだと、野心をみなぎらせていた先輩たち。
「とてもじゃないが、それはかなわん」と言って、Kは「平穏無事に過ごせそうな」会社を選んだのである。
ところで、数年前、Kと僕が40才半ばになったころ、久しぶりにOB会で顔を合わせた。
もらった名刺の肩書を見ながら、僕は訊ねた。
「どうやねん、まだまだ出世しそうか?」
「ははは、あかんわ、頭打ちや」
Kは苦笑して、そう答えた。その表情に屈託はなく、若いころのKのままの清々しい笑顔である。
そうなのか、Kの効率の良さを極めた安全運転も、あの会社では通用しなかったのか。彼の性格はその会社に向いていると思ったけど、やはり、会社というところは一筋縄ではいかないんだなと思った。
しかし、Kは、地域の活動に情熱を燃やしていると言う。
自治会の会長かなにかをずっとやっていて、地域の子どもたちを集めて、祭りなどいろいろなことをやったり、彼らが道を間違えないように気を配って指導してやっているのだという。
それが楽しくて仕方がないのだと。
彼の笑顔に屈託がないのは、自分にふさわしい、自分が快適だと思える場所に、ちゃんと行き着いているからなのだと理解した。
さて、僕は、もちろん、「多くの経験を」と考えるタイプだ。
スケールはたいしたことがないことは認めるが、そうでなければ、40才で会社を飛び出したりしないだろう。
で、そういう人たちは、いや、少なくとも僕は、ついつい、「多くの経験を」タイプがベストで、「平穏無事に」タイプは望ましくないと思ってしまいがちだ。
たとえば、自分の子供が「平穏無事に」タイプだったら、頭から湯気を出して怒りかねない。あるいは、部下が「平穏無事に」タイプだったら、思いっきり説教しかねない。
だけど、Kという素晴らしい実例を思い出すたびに、痛感するのだ。
幸せのカタチは、人それぞれなのだと。
やつ、いまごろ、どうしてるかなあ。