厳しい師匠や親方や上司は絶滅危惧種?
今日は映画『セッション』を見に行かなければならない。
敬愛するかつての鬼上司のFさんが、「かならず見に行け」とおっしゃったからである。Fさんに「かならず見に行け」と言われたら、見に行かないとか、「忙しくて見に行く暇がありませんでした」とか、「DVDになってから見ようと思ってました」とか、「ふたりめの孫が生まれそうで・・・」とか、ともかく、どんな言い訳も通用しない。
僕は今日、見に行かなければならない。
どうやら、『セッション』の内容は、世界で最高のドラマーになろうとする野心満々のワカモノと、最高のアーティストを育てようという狂気に満ちた教師の話らしい。
予告編を見た限りでは、その教師のスパルタぶりは、鬼上司Fさんを彷彿させるものがある。
いつもとんでもなく高い頂を目指す。
最高の難所は先頭に立って進む。
チームのメンバーにも、いつも最高のものを、ぎりぎりのタイミングまで求める。
ついてこれないものには激しい叱責が待っている。
なんとかついていったものには、一瞬とろけるような笑顔を見せて、また次の頂きを指さす。
おそらく、かつては、そういう人は、今よりたくさんいたのではないかと思う。
親方と呼ばれる人たち、師匠と呼ばれる人たちは、厳しく、いまからは想像できないほどのものを弟子たちに求め、彼らを鍛え上げた。
立派な師匠たちがそれをする時、いくら厳しくても、それは普段は見えない両輪の片方、つまり深い愛情に根ざしていた。
Fさんも、とくにクリエィティブの人間に対して、それが激しかったが、その心の底には、「クリエィティブ(広告デザイン・コピー)で食っていくつもりなら、自分を納得させるレベルの仕事を見せよ。それができないのなら、早くクリエィティブを諦めて、ほかに生きる道をみつけよ。それが一番本人のためだ」という思いがあったのだと思う。
もちろん、師匠や親方と呼ばれる人の中にも、だめな人は多くいる。そもそも、愛情が欠けているために、単に、厳しく理不尽なだけ、要求レベルが高いだけという人もいるだろう。
そんな人も多いため、Fさんのような師匠あるいは上司も、十把一絡げに、若いひとたちの心情に寄り添えない、時代遅れの上司とみなされるような風潮にあるように思う。
僕もよく考える。
上司として、経営者として、どこまで厳しく結果を求めるべきか。
誰に対してはどこまでを求め、誰に対しては多くを求めないでいるべきか。
とことんやってみますという人がいたら、その人の「とことん」とはどんなレベルなのか。どこまでの要求は、本人が自分のためと納得して受け入れることができるのだろうか。
もし僕が、いつもその要求が低い目だとしたら、僕に足りないのは、失敗やちょっとした反発を恐れない勇気なのか、愛情なのか。
おそらく、Fさんが「見に行け」と命令されるぐらいだから、そういうことに関して、とても示唆に富んだ映画なのだと思う。
ともかく、見に行ってきます!