photo by Jukka Hernetkoski
妻の純子が天体望遠鏡を買った。
「藍子の勉強のためにもなるし」
純子は言うが、ビクセン・ポルタII とかいうその天体望遠鏡は、れっきとした大人の天文観測入門機らしく、子どもが簡単に扱えるものではない。
結婚して10年、2年目に生まれた長女、藍子は、まだ小学校の2年生である。
僕は憤慨した。いや、それ以上に、真っ暗な底なしの穴に吸い込まれたような不思議な気分になった。
第一に、数万円ものお金を夫婦どちらかの趣味に使うのなら、僕の了解があってしかるべきだ。だって、僕にしてもそんな金額を趣味に黙ってかけたことはないし、そういう場合はいつも、ボーナスを見据えて半年近い根回しをしたうえに、幸運にも説得が成功した場合にのみ、許されてきたのである。
第二に、いったい、いつから純子は星や宇宙に興味を持つようになったのか。彼女の一番の趣味と言えば、結婚前から続いているアンティーク着物である。結婚前、デートにはときどき、着物で現れた。彼女がよく着ていたのは銘仙と呼ばれるカラフルな織りの着物で、大正時代や昭和初期のおしゃれな女性たちがファッションセンスを競ったものであるという。結婚式では、着物はレンタルを使わず、自分でみつけてきた黒の振袖を着た。孔雀や雀とともに、薔薇やタンポポなどの洋花が染められた艶やかなもので、ところどころに精緻な刺繍が施された、そういうことには詳しくない僕をも驚かせる、たしかに豪華極まるものであった。
子どもができて、仕事を辞めてからは、育児に忙しく、また、金銭的にも余裕がないことから、彼女のアンティーク着物趣味は下火になっているようであった。藍子が小学校へあがってからは、また、徐々に着物を買うようになっていたが、再開した仕事も近所の専門商社のパートの事務職で、小遣いに回すほどの余裕があるほどではない。しかし、そこは母になり年を取ったことで鍛えた顔の皮膚(ツラノカワ)の厚みを武器に、値切ったり、ヤフオクで掘り出しものを探したり、自分で手直ししたりして、安価に楽しむ術を身に着けているように見えた。
が、そこへ突然の天体望遠鏡である。
なぜ、急に、天体観測なのか、という僕のごく当然の問に、純子の答えは明確ではない。
「月のクレーターとか、土星の輪とか、木星の模様とか、見てみたくなったの」
「だから、なぜ、急に、そうなんだよ」
「理由なんかないわ。ただ、見たいと思っただけ」
「突然にか?」
「そうなのよ。自分でも不思議なんだけど」
テーブルの向かい座った純子の表情に、不思議と陰がない。自分でも、突然、身内から湧き上がって、天体望遠鏡を注文させた自らの欲望を、持て余しているようでもある。
「ごめんなさい。もう、無駄遣いしないから」
だが・・
――― 男ができたのか。
ついに疑念がアタマの中ではっきりとした言葉になった。一般的に、結婚して10年目の夫婦がどんなものであるか、僕にはわからない。すくなくとも会社の先輩たちの話を聞いていると、色褪せない桃源郷でないことはわかる。が、純子のこころが、僕に向いておらず、どこかほかの方向にふらふらと漂っているような気がするのである。
「昔とは違うよね」
「それはお互い様よ」
そんな会話をしたこともある。
――― お互いさまなのか。
そう思って自分の純子に対する気持ちを、あらためてみつめなおしてみる。そうなのかもしれない。純子から僕を見ると、僕のこころも純子から離れて漂っているように見えるのかもしれない。
わからない。ほんとうに、それだけのことなのか。
誰に導かれることもなく、たんなる倦怠が、純子を宇宙に導いたのか。いや、やはり、いくらなんでも、唐突に過ぎる。彼女は根っからの文系の人間で、小説やファッションや身近の人間に深い興味を示すけれど、宇宙がどうなっているのかとか、相対性理論っていったいどういうこととか、そんなことに好奇心を燃やすタイプではけっしてないのだ。
「ねえ、来て!」純子がベランダから僕を呼んだ。「月のクレーターが、はっきりと見えるわよ!
「見たくないよ」
僕はそう吐き捨てて、ビールを煽った。
ベランダでは、僕を呼ぶのを諦めた純子が望遠鏡を覗き込んでいた。
そして、大きな満月がちょうど僕からも見える角度に上がって、燃えていた。
望遠鏡の巨大なダンボールを折りたたんで大型ゴミに出し、その不穏な望遠鏡が家のうちにともかくも居場所をすえた頃。
深夜、目覚めた僕は、妻のベッドが空であることに気づいた。
スマホを確かめると、午前2時前である。
――― また、望遠鏡を覗いているのか。
いったんはそう思ったものの、その夜は雨で、厚い雲におおわれているはずであることに気がついた。しばらく、ベッドの上で息をひそめていたが、妻が帰ってくる気配はない。
僕はそっと起き上がってベッドから出た。
寝室からキッチンに出る。キッチンはライトが消されたままである。そっと歩いて誰もいないリビングを横切り、廊下に出る。トイレのライトもついていない。子ども部屋のドアをそっと押し開ける。藍子は暗闇を怖がるので、オレンジ色の小さな常夜灯が点けられている。薄い布団が藍の身体の形に盛り上がっている。純子はいない。家にいるなら、残るは和室だけである。そっとドアを締めて和室に向かった。
和室と廊下を隔てる引き戸の中央の隙間から、うっすらと明かりが漏れていた。
和室も常夜灯が点いているようだ。
忍び足で近づいて、隙間に目を近づけた。
和ダンスの前に、純子の姿が常夜灯の灯りにぼんやりと浮かび上がっていた。
黄色っぽい花柄のパジャマ姿で、足をきちんと揃えて背を向けて座っていた。
純子の表情は見えない。身体の前に着物でも広げているのか、ゆっくりとそのものを撫でているような動作をする左手が見えていた。
異様。
はじめて見る純子の違和感を感じさせる行動と姿であった。
たまらず、僕は力を込めて引き戸を引き開いた。柱にあたった引き戸は、ぱあんという乾いた音を立てた。
妻が振り向いた。
その顔は・・・
いつもの純子の顔であった。そこには、驚きも、後ろめたさも、なにも特別なものはなかった。
「ゆっくり開けてよ、びっくりするじゃない」
「こんな夜中に、なにしてんだよ。こっちこそ、びっくりするじゃないか」
「眠れないから、好きな着物、出して、見てただけよ」
「こっちは、若年性認知症にでもなったのかと思って、肝を冷やしたよ、まったく」
純子は笑顔を見せると立ち上がり、蛍光灯の紐を二度引いて明かりを点けた。
部屋には白い明かりが溢れかえり、僕は眩しくて目を細めた。そして、明かりに慣れたころ、純子は足元に広げていた着物の肩あたりを取ると、裾を投げ出して大きく拡げた。
着物には素人の僕にも、その素晴らしさはわかった。
それは黒地の振袖で、ホンモノのアートや美術品、工芸品にだけ宿るオーラを発していて、それが僕の心臓を射抜いたのだ。
漆黒の地に描かれているのは、星々であった。大きく細密に描かれた月のクレーター、土星の輪や木星の模様も華やかに再現されている。星雲や流れ星がその間を埋めている。そして、アールデコ調の「さそり」や「うお」や「かに」や「ひしゃく」模様に加えて、ロケットや飛行船、複葉機など、空を飛ぶものがレトロなタッチで色とりどりに描かれている。さまざまな技法による刺繍も全面に施されていて、その意匠に華やかさと立体感を与えていた。
純子が言った。
「古いのよ。ほら、飛行機とかロケットの絵でわかるでしょう。大正頃につくられたもの」
―――そうなのか。大正期にも、こんな突飛なデザインを好む女性がいたのか。
純子の説明に僕は驚嘆をさらに深くした。
「私もこんなアンティーク振袖、見たことない。博物館級よ」
「有名な人の作品なのか?」
「落款はないわ。それに、当時の染織会の有名な天才たち、たとえば、皆川月華とか野口真造とかの作風とは、ちょっと違うの。誰の作だかわからないけど、とんでもない作品であることは間違いないわ」
「買ったのか?」
純子は頷いた。
「いくらだよ?」
「10万円」
「10万円?」
――― どれほどの逸品だろうが関係ない。望遠鏡だけでなく、こんな振袖まで、僕に相談することもなく、買っていたとは、いったいどういうことだ。
「この前、もう無駄遣いはしないって約束したばかりじゃないか。なんの相談もなく、いったい、どういうことなんだ? 」
「ごめんなさい。でも、この振袖は望遠鏡の前、先月に買っていたのよ」
激しい怒りがこみ上げて来た。
「たまたま、持ち主と縁があって譲ってもらったのよ。でなきゃ、最低でも50万、アンティーク着物の業者の手に渡ったら、100万は軽く超える値段になるはずよ」
僕が怒る理由がわからないとでもいうような表情で、純子はそう言った。
「50万とか、100万って、お前の希望的評価だろ!」
「そんなことないわよ。だって、私の結婚式の時のアンティーク振袖でも、20万近くしたのよ。あれはあれで、素晴らしい仕事の逸品だったけど、天才のひらめきのない、ある意味普通の振袖だったわ。でも、これは違う」
「そんなに凄いものなら、なんでその人は、お前に、たった10万円で売ってくれたんだよ」
「なぜか知らないけど、私のこと気に入ってくれたんじゃないかしら。お金じゃないって。あんたに持って欲しいんだって」
「そいつって、男なのか」
「そうよ。だったら、なに?」
――― やっぱり、男ができてるんじゃないか。博物館級の振袖をたった10万で与え、天文観測の趣味を吹き込んだ男。しかも、純子は隠しもしない。隠す気がないということは、離婚の覚悟までできているということではないのか。
「誤解のないように言っとくけど、その人は70歳を超えたお爺さんよ。先々月の若冲の展覧会で会ったの。たまたま、同じ絵で長く止まったり、していたみたいで、ずっと一緒になって、最後にソファに座っていた時に、声をかけられたのよ。その時、私、一番お気に入りの大正ロマンの着物に、蝶の柄の丸帯をしてたんだけど、『古いお着物でしょう、素敵ですな』って」
「70歳を超えるお爺さん」と聞いて、僕はいくぶん冷静になった。
純子の話によれば、かなり混んでいた展覧会で、純子が前後の来場者に気を使い、礼儀正しくしていたことも、その老人に気に入られた理由らしかった。ともかく、老人は純子を気に入り、貰って欲しい古い着物があると打ち明けた。都合のついた翌週のある日、ふたりは博物館併設のカフェで会い、風呂敷に包まれたその振袖を見せられた。老人は「貰って欲しい」と言ったが、純子はそれが博物館級のものであることにすぐに気づき、貰えないと断った。
「この振袖はあなたのものになる運命だ。でも、わかっていただけないようだ。貰っていただけないなら、買ってくださればどうかな?」
「これに見合うだけの金額を出す余裕がうちにはありません」
押し問答になった。
そして、結局、純子は10万円でその振袖を譲り受けることになったというのである。
僕は半信半疑でその話を聞いた。
たしか振袖は、未婚女性の正装のはずである。純子はそれを着る資格はない。僕と離婚でもしない限り。
「藍子が二十歳になったら、成人式に着られるのか?」
「生地は透けているでしょう? 絽っていうのよ。この振袖は、夏用。だから、成人式には無理。それに、あまり丈がないから、藍子が私ぐらいの身長でとまればいいけど、あなたの血をひいて普通に大きくなったら、小さ過ぎて着られないかも」
「我が家の誰も着られないかもしれないものに、10万円使ったってことか?」
僕の至極まっとうな問に、純子は無言で何度も頷くだけであった。
七月の上旬、もうすぐ七夕という平日の夜。
テーブルに遅い夕食を並べた純子が、待ちきれなかったとでも言うように訊ねた。
「ちょうど、藍の収穫時期なの。徳島のXさんの藍染の工房へ見学に、着物友達と行くのよ。私のN-BOXで、一泊二日。いいでしょ」
「そりゃかまわないが、急じゃないか」
「収穫は天気と相談だからね。今週末の土日は、晴れでいい天候らしいわ」
「藍子はどうするんだよ」
「あなたが見ておいてくれたらいいじゃない」
「俺も、ゴルフなんだよ」
「じゃあ、実家に頼んでみる」
週末を巡る話はそれで終了となった。
もちろん、僕にとって、それは終わらない話であった。
――― ついに、一泊二日の旅行か。
天体望遠鏡と振袖に象徴される純子の不審な態度への疑問は、振袖の元のオーナーが老人だったと聞かされても、すべて溶解したわけではなかった。とにかく、話に現実味と納得感がないのである。ここ何か月かの心ここにあらずといった純子の様子は、僕にすればただならぬものであった。
なにかを隠している。
ほんとうに「70才を超えるお年寄り」である保証もないし、その人がかなりの年配の人であったとしても、なにか特別な魅力をもった人である場合だってある。僕は純子の着物友達を知らない。彼女がひとりで行くのか、向こうで誰かと会うのか、確かめようがないのである。もちろん、帰ってきた彼女に、仲間と工房の前で撮った写真を要求することはできる。だが、それだって、事前にどこかで撮ったものを用意しておいて言い逃れるということだってできるかもしれない。
僕は人よりとくに猜疑心の強い人間ではない。つきあいはじめて結婚し、すでに12年は経っているが、純子の言葉を強く疑い、なにがなんでもそれが本当か確かめなければならないと思ったのは、これがはじめてのことであった。
翌日、週末のゴルフを断った僕は、営業先を回る合間に電気街に寄り、GPS発信機を買った。ネットで調べた通り、それを車のどこかに仕込んでおけば、いつでもスマホで位置の確認ができるのである。
これさえあれば、もう一台の自分と家族用の車、オデッセイでも、純子に気づかれることなく尾行できる。
金曜日の夜、遅くに帰宅した僕は、玄関のドアを開けるまえに、駐車場に入って、純子の軽、N-BOXのスペアタイアのホイールの裏に、黒い布テープでタバコの箱程度のサイズの発信機を貼り付けた。
その日の朝、ゴルフバッグを積んで、純子より早く、5時に家を出た僕は、1時間強をかけて、藍子を実家へ送り届けた。
藍子のためにも、いい父であり、いい家庭人でありたいと願って、仕事でも家でも頑張ってきたはずである。
藍子の無垢な笑顔が胸に沁みた。
車に戻り、スマホのアプリをオンにする。
地図が表示され、純子のN-BOXが、自宅から最寄りの高速入り口へと向かう途上にいることがわかる。縮尺を最小にして大きな地図で表示させると、点が動き車が確かに走っていることがわかった。
どこで仲間を拾うつもりだろう。すでに移動した経路が線で表示されている。駅や誰かの家など回り道をした様子はなく、家から高速入り口へは最短経路を通っているように見える。それとも、その経路の途上を待ち合わせ地点として、すでに仲間を拾ったのだろうか。
僕はゆっくりと車を発進させて、高速の入り口に向かった。
急ぐことはない。純子は徳島へ行くと言っていた。
おそらく、それは本当だろう。
車にはETCもついているので、まったく別の目的地へ向かうとすれば、わざわざETCカードを抜いたり、動作しないように壊してしまうような不自然なことが必要となるからだ。
だから、あまり急ぐ必要はない。
明るい昼間にあまり近づくと、きっと尾行がばれてしまう。
そのために手配したGPS発信機である。距離を詰める必要はない。が、まったく距離を考えなくてもよいかといえば、そうでもない。発信機は車についているので、サービスエリアなどで車を置いて、誰かの車に乗り換えられてしまえば、帰りを待つしか手がなくなってしまう。
道路はさほど混んでおらず、最初のサービスエリアでの休憩で、僕は純子の車に追いついた。充分な距離を離して駐車した僕の車から、白いN-BOXから降りてくる軽いサマーワンピース姿の純子が見えた。
純子はひとりであった。周囲を警戒するような素振りもみせなかった。
純子はそこでひとりで昼ごはんをとった。
その後も何事もなく僕は純子の車を追い、橋を渡って四国の地を踏んだのが、昼の2時であった。その約30分後に、僕らの車は徳島市街に入った。
徳島市街に入ってからは、離されることも覚悟して距離をとった。案の定、信号で離され、車の姿は見失った。
スマホの経路を辿って走っていると、ほどなく点の動きが止まった。そのまま通り過ぎれば、降りてきた純子に見られるかもしれない。僕はスピードを落として、その位置の少し手前で、シャッターの降りた店舗の前に車を停めた。ハザードをつけっぱなしにして、その場に車を残し、純子が車を停めたはずのところまで小走りに近づいた。
純子のN-BOXは、旅館「すくも」の専用駐車場に停められていた。旅館は昭和中期頃に建てられたに違いない、趣のある2階建ての小さな和風建築であった。
僕はいったん車に取って返して、車を近くの有料駐車場に入れた。駐車場から旅館の玄関は見えない。車を捨てて、路上で玄関を張り込むことにした。
この旅館で誰かと落ち合う予定なら、やがて、出てくるだろう。
――― 出てくる? ほんとうに出てくるのか? 部屋にこもったまま、明日の昼まで出てこなかったら・・・しかも、男と出てきたら・・・
そういう最悪の場合もあるかもしれないと思ったからこそ、GPS発信機まで入手して、こうやって純子のあとを追ってきたのだ。
もし、そうだったら、それまでのこと。別れるまでと思って。
だが、頭のなかで、その想像に色がつき、生々しくと動き始めると、それは僕の胸を深く鋭く刺した。
そして、僕ははっきりと悟った。倦怠の霧が厚く覆い隠していた僕の本心を。
真っ赤に染まった夕焼けは、その日、徳島の空では、僕の血の色であった。
すでに2時間経つが、純子は出てこない。すくなくとも、着物友達といっしょに、藍の収穫を見に行くという話が、嘘であったことは間違いない。
絶望を胸の奥に押し込もうとしていたそんな時、黒い着物を着た女性が旅館の玄関から出てきた。
顔を確かめる前に、すぐに後ろ姿になった。袖が長い。振袖だ。
そして、その柄は・・・
星だ。
月面や土星や木星や、天の川や、ロケットや飛行船や複葉機を描いた、あの振袖だ。
純子が、既婚者の純子が、あの振袖を着て、いま、ひとりで旅館を出たのである。
純子は駐車場に向かうと、自分のN-BOXに乗り込んだ。
純子の車は徳島市内の繁華街に向かうものと思い込んでいた。
が、GPSの示す点は、南下していた。やがて、その点は国道55号線に入り、海沿いに出て、そのまま南下を続けた。
その延長線上にあるのは室戸岬である。
わざわざ振袖に着替えて向かうところなどあるのだろうか。
穏やかな太平洋を望む海岸線の道は見通しがよい。空も海もその青さ、明るさを失っていて、完全に日が暮れるまでわずかの時間しか残されていないのがわかる。が、それまでは、大きく距離をとるほかはない。
スマホを睨みながら55線を南下して、2時間も経っただろうか。すっかり日が暮れて、僕は純子のN-BOXのテールランプを遠くに視線に捉えながら車を走らせていた。
あと数分で室戸岬の先端に達するというころ、突然、純子の車が道路脇に停車した。おそらくそこが目的地なのであろう。僕はそこで急減速して、車を路肩に寄せた。すぐにライトを消す。
50メーターほど先、海側に突き出た路肩のスペースに、純子の車が止められている。
後ろの車の不審な動きを気づかれたかもしれないが、それまで、まったく尾行を気にしていた気配はない。絶対に、気づかれてはいない、僕は確信していた。
やがて、運転席のドアが開いて、純子が出てきた。
街灯もほとんどない、闇夜の中である。黒い振袖を着ているはずだが、それが見えようはずもない。
純子は車の後ろを回ると、風に長い袖と裾をはためかせながら、堤防の上を歩いた。
そして、浜に降りると、そのままゆっくりと、海岸線に向かって歩き出した。
僕も車を降りた。
純子のいる浜に向かって、全力で走る。
潮風が強い。
純子! 叫んでみるが、その声は風に押し戻されて、とうてい純子には届きそうにない。
見る間に、純子は波打ち際に歩み寄っていた。
――― 海に入って死ぬつもりだ。
なぜか、僕はそう思った。
――― 死ぬな!
僕は声を限りに叫びながら、堤防を走り、浜に飛び降りた。
そして、岩混じりの砂浜に足を取られながら、純子の元へと走った。
純子は波から少し距離を置いたところで、立ち止まり、空を向いて目を閉じていた。
間に合った、僕は後ろから肩を掴んで、揺すぶった。
「純子、なにしてるんだ!」
純子はゆっくりと目を開いて、僕を見た。
「あれ、来てたの」
「来てたのはないだろう、心配で着いてきたんだぞ。どういうことなんだ」
純子はゆっくりと右手を上げて、空を指差した。
その時、僕ははじめて気がついた。
満天の星であった。
その時まで、見たこともないというな星の数であった。いつの間にか漆黒の空には深い奥行きがあり、そこには無数の輝きが散りばめられていた。たしかに、僕らの星は、その星々の中にあるのだが、そのことが実感として迫ってきた。宇宙には、1000億個の1000億倍から2000億倍の星がある。そこで見上げている夜空は、それをはっきりと教えてくれるのだった。
僕は息を飲んでその夜空、いや、宇宙を見上げた。
「凄いでしょ、星。ネットで調べたんだけど、私達の家から、もっとも近くて、最高に星が見える場所は、ここなのよ。調べた通りだったわ」
「星が見たかったなら、そういってくれればいいじゃないか」
「うん、ごめん。でも、私も見たかったけど、それだけじゃないの。ほんとうに星を見せたかったのは・・・・」
純子は袖口を内側からつまむんで、星空の抱くように両袖を拡げた。
振袖の星模様のところどころに施された金銀糸が、星々の光に呼応するように、きらきらと輝いていた。
「この振袖」
「振袖に?」
「アタマ、変って思うでしょ。だから、言えなかったのよ」
僕らはそこで、まだかすかにぬくもりの残る砂浜に腰を下ろした。
静かに寄せる波の音を背景に、純子が、その星の振袖を譲って貰った時のことを話した。
それはたしかに、奇妙な話であった。
その振袖は、自分の父の兄弟のひとりが、東京友禅の職人に指示して作らせたものだと、老人は言った。
――― 生糸の相場で財をなした自分の叔父が、花嫁となる相手に、この特別な振袖を別注した。花嫁は当時の進歩的な女学生で、天文学にも興味を持ち、いまでも活動を続ける由緒ある『日本天文クラブ』の第一号の女性会員だったという。そんな宇宙と星の好きな彼女のために、この振袖は、金に糸目をつけず、結婚式のために特別に制作されたものなのであった。しかし、叔父は出征となり、結婚は延期された。結局、叔父が終戦後も戦地から帰ってこなかっただけでなく、新婦も空襲で命を落とした。
そして、この星の振袖だけが、着られることもなく、残された。
叔父の遺品を整理した父は、この振袖の存在を聞かされており、大切に保管して子どもであるその老人に託した。が、今になってみると、老人には着物の価値を知ってそれを大切に後代につたえるにふさわしい子どもや孫はいない。どうすべきかと思い悩んでいる時に、純子と会ったのだと言う。
だが・・・
星の振袖を譲るかわりに、条件があると老人は言った。
それは、その振袖にとって良いと思えることはなんでもやってくれ、ということであった。
古い着物の保管にはそれなりの注意が必要であることは、純子はよくわかっている。
が、「なんでも」とは、どういう意味かと、不思議に思った純子も訊ねた。
―――それは、君次第だ。君がそうと感じることをやってくれれば、それでいい。振袖がきっと喜ぶ。
「変な話でしょ」と純子が強い潮風に目を細め、めくれた裾を押さえた。
「そうだな」と僕。だが・・・
――― 『振袖が喜ぶ』とは?
「あなたに相談したら、きっと、そんな変な取引はやめておけ、きっと裏があるからって言ったでしょう?」
「たぶんな」
「でも、私、この振袖に参っちゃったのよ。ほんとうに、こんな逸品、どこを探してもないわ。見せられた途端、欲しくて欲しくて仕方がなくって・・・」
純子のそういう気持ちは、わからないでもなかった。純子はもう何年も、アンティーク着物の展覧会へ行ったり、本を読んだり、自分でも買い集めて着ることを楽しんでいたのだから。
だが、真偽の定かでない、奇妙な話であることは間違いない。
しかも、純子の行動も、常軌を逸しているようにも見える。
「つまり、そういう成り行きだったから、その振袖に、大正時代の頃のような、満天の星空を見せなけりゃ、と君が考えたってわけだな」
僕は頭のなかでこんがらがった糸を解きほぐすように言った。
「そうね、たぶん、そうだわ。『わたしが』そう考えたから、こうやって、ここにこの振袖を連れてきたに違いないわ」
「たぶん、ってどういうことだい?」
純子は答えなかった。
僕にも、純子の答えに想像がついていた。
この星の振袖にはなにかが宿っていて、そのなにかが、純子を、そして、ひょっとすると僕をも、ここへ導いたのかもしれなかった。
だが、それを口に出すことも、それをあえて口に出してから否定することも、なにか大きなものを冒涜しているように感じられた。
僕は純子の肩を抱いた。
そして、黙って水平線の上に広がる無限の宇宙と星々を見つめた。
ともかく、純子が今まとっている星の振袖がなにものであったとしても、どんな謎をはらんでいるとしても、目の前に広がっている大宇宙の存在の謎に比べれば、たいして不思議でもない。
それよりも、僕と純子との関係が、いままで通りであることに思い至って、僕は深く安堵の溜息をついたのである。