短編小説6 『ムンクの帰還』
1. 涼子
ムンクが隣のミヨちゃんの二の腕を噛んだのは、桜の花びらが降る頃だった。
ムンクは盲導犬になることでお馴染みの雌のラブラドールレトリバーで、なぜあの不気味な絵の画家の名前をつけられることになったかというと、娘の藍子が、単に語感がいいからと提案して、家族がそれを受け入れたからであった。その名前に反して、ムンクには、代表作に見られるような不気味なところはなく、すこしやんちゃで優しいな成犬に育った。
家にやってきてすでに六歳、かなり落ち着きをみせはじめたムンクを、涼子が春の陽気を存分に味あわせてやろうと庭に放していた。涼子が知らぬ間に、裏庭のゲートから隣に住む幼稚園の年少組のミヨちゃんが入ってきていた。ミヨちゃんはムンクに近づいて、噛んでいた豚耳にでも手を伸ばしたのだろう。ふだんは人に牙を剥いたりしないムンクだけど、よほどミヨちゃんがしつこく触ってきたのだろう、左の二の腕に噛みついた。火がついたように泣き出したミヨちゃんの声に、家に入っていた涼子が駆けつけたが、すでに反省している表情のムンクの横で、ミヨちゃんはだらだらと血と涙を流していた。
ミヨちゃんの腕は20針以上縫うことになった。
ミヨちゃんの母親と救急車に同乗して病院に行った涼子は、待合室から会社にいる夫の林田彰(あきら)に電話をかけた。
いつものように、夫は忙しそうだった。すぐに退社して駆けつける余裕はない。後で自分も一緒に詫びにいくから、それまでは君がしっかり対応してくれ、夫はそう言って電話を切った。
涼子は怒り心頭になりながらも、ひとりで病院にもつきそい、ミヨちゃんの父親が帰ってきたころを見計らって、改めてお詫びにも行った。だけど、仕事が忙しいからと言って、その日の夜も翌日も、詫びに来なかった夫に対して、ミヨちゃんの父は怒りを沸騰させてしまった。
ようやく日曜日の朝に、夫と菓子折りをもって正式にお詫びに行った時は、すでに決着がついていた。
ミヨちゃんがゲートを開けてうちの敷地に入ってきて、ムンクにちょっかいを出したのも、事故の原因のひとつである。だが、ミヨちゃんの父は、人を噛むような犬を庭で放し飼いする方が100パーセント悪い。危険な犬がそばにいては安心して住むことができないから、ムンクをどこか他のところへやるか、保健所で「処分」せよと頑強に主張した。
「裁判所」という言葉まで持ちだされて、仕事のことしか頭にない夫は、自分の大切な時間がこの面倒で大幅に削られのではないかと心配になったのだろう。
ろくに反論せず、二週間以内にという条件までつけた相手の言い分を、そのままで飲んだ。
隣を辞してから夫に猛然と抗議したが、夫の返答は、「仕方がない」であった。
夫は、ムンクが右耳を食いちぎられたあの時と同じである。
ムンクはとっても美人だと涼子は思っていた。
犬に興味のない人には笑われるに違いない。ラブラドールレトリバーにも様々な顔つきがあり、いかついものから、少し寸詰まりのような顔をした子もいるのだが、ムンクはたしかに雌らしい優しい顔つきをしていた。
性格も穏やかで、水が欲しいとか散歩に行きたいというような時でも、けっして吠えることはなく、ただじっと涼子や藍子を見上げて待っていた。相手が決める序列を常に受け入れて、尻尾を下げているようなところがあった。夫は自分のあるべき姿を投影したのか、こんな風に嘆いた。
「ムンクは逃げてばかりいるな、情けない」
まだ三才だったムンクは、珍しくでかけた家族旅行の間に預けた犬の宿泊施設で事故にあった。そこはドッグランに併設された施設で、林田一家は、経営者とは馴染みであった。そこでは宿泊で預かった犬は、昼間、ランに放して遊ばせてくれる。常連の利用者たちと経営者の関係は良好で、経営者は犬たちのランの中での行動の監視を常連の人たちに任せているようなところがあった。
石垣島のホテルに滞在中、経営者から連絡があった。犬同士の喧嘩で怪我をしたが、病院で必要な治療は済ませ命に別状はないということであった。翌日、家に帰ってきた時はすでに十時を過ぎていたが、経営者が待っているというドッグホテルに駆けつけた。
涼子たちに気づいたムンクが飛びついてきた。避妊術の時もつけた大きなエリザベスカラーをつけている。経営者が握るリードをピンと張り前足で宙を掻いたムンクの右の耳は、垂れた部分がなくなっていた。
傷を負ったとしか聞いていなかった涼子と藍子は激怒した。
はじめてやってきたハスキーがランの中に入れられた時、興奮していたのでオーナーがリードをつけたままをなだめようとしていた。ほかの犬に追いかけられて逃げていたムンクがハスキーにぶつかり、その時にハスキーがムンクに噛みついたのだと言う。
ランの中の犬同士が傷つけあわないように注意を払うのは経営者の仕事でしょう、常連に任せているようなやりかたに問題がある、と涼子は怒った。
が、夫は怒るふたりを引き止めた。
「仕方がない、ムンクの耳は返ってこない」
あの時と同じだった。
林田一家は、ムンクの引取先を探した。だが、すでにムンクは十才、人間で言えばおばあちゃんと言ってよいぐらいの歳で、片耳がない。
引き取ってくれる先はなかなかみつからなかった。
二週間以内にみつからなかったらどうするのかと、事務機器の会社に勤めている娘の藍子に尋ねられて、夫は答えた。
「保健所へ連れて行く、仕方がない」と。
結局、引き取り先を必死で探したのは涼子と藍子であった。夫は相変わらず、遅くまで働いて、ムンクのことは気にはかけている様子を見せてはいたが、実際はほったらかしであった。
約束をしてから十日も過ぎた頃、やっと、涼子の元に一件の里親希望の連絡が入ってきた。
それは遠く、富士吉田市の若い夫婦からの連絡であった。
ちょうど、二週間の期限の最終日、夫はムンクを後部座席に乗せて、富士吉田市の引き取り手の元へ出かけていった。
そもそも、涼子も藍子も、簡単にムンクを手放す決断をした彰に怒っていたし、別れが辛く、とてもムンクを引き渡しに行く気にはなれなかった。ひとりでは運転が大変だと怒りながら、夫はやむなくひとりで出かけて行った。
土曜の深夜に出かけ、月曜の朝方、夫はひとりで帰ってきた。
2. 林田彰
林田彰の帰りはいつも遅い。出張でない限り、たいて帰ってくるのは午前様で、タクシーを飛ばして帰ってくることが多い。休みは休みで、やれ出張だ、接待ゴルフだと出かけていく。
稼ぎは良いので、一戸建てに住み、車は最新型のクラウンで、娘の藍子は私学の大学に通い、妻の涼子は小さな書道教室を開いているが、ほぼ専業主婦で、世間一般から見れば、絵に書いたような優雅な生活である。
大手の製造メーカーに勤めており、まだ五〇才を少し超えたところだが、すでに取締役になっていた。学生時代、運動もできず、口が立つわけでもなかった林田は、その劣等感をバネにひたすら会社で走り続けてきた。取締役にさえなれたら、この苛烈なレースも上がりに違いないと想像していたが、そのレースはいまだ終わらない。あろうことか、ここで気を緩めるとライバルに負け、ライバルの元に下って部下となる運命である。ライバルの間で熾烈な競争をしていることを知っている外野は、競争に負けたと思えば、全力で嘲笑し引きずり落としにかかる。とにかく、負けられないのである。
だが、夫婦仲が良いとは言えなかった。涼子と週に二、三回は、深夜に派手な喧嘩をした。冷静な林田は手を上げないが、涼子はときどき手近にあるものを投げつけて大きな音を立てて、ベッドの足元に丸くなっているムンクや、二階で寝ている藍子を驚かせた。
リッチな不自由のない生活をさせてやってるじゃないか。そのために、会社で死ぬほど頑張ってるんだ。家のいろんな問題で、俺の足を引っ張らないでくれ。いったい何が不満なんだ、と林田は思う。
妻の望みをわかってはいる。自分を、娘の藍子を見て欲しい、ちゃんと話を聞いて欲しい、不満の核にあるのはそういうことに違いない。
わかっているのだが、会社での戦いに神経を使い果たして、家にたどり着いたころには、家族の悩みを聞いたり、望みをかなえたりするリソースがもう残っていないのである。
涼子はすでに離婚を口にしていた。
林田は承諾していない。いまでも涼子を好きなのか、涼子を伴侶に残りの人生を生きたいのか、自分でもよくわからない。だが、離婚はいかにも世間体が悪い。人格的にも優れていると思われている自分が、妻の「運転」もできなかったのかと思われれば沽券に関わるではないか。
中心にいたムンクがいなくなった林田家は、その日以来、ますますバラバラになった。
林田の帰りはさらに遅くなり、夫婦の会話はほとんどなくなっていった。
その時、林田は次期社長レースのまっただ中にいた。次期社長への確実なステップと思われている常務の椅子を目指して、死に物狂いで戦っていたのである。
家庭を顧みないで、すべてを犠牲にして三〇年近く走ってきたのだ。今さら、このレースを負けで終わらせることなどできるはずもない。
が、その時は突然やってきた。
出世レースの決着がついたのである。
林田はどの方向からみても将来性のない小さな子会社の社長に転出することになり、ライバル関係にあった取締役が常務に指名されたのだ。
なにをそんなに落ち込むことがあるんだ、有名企業の取締役までなったんだからいいじゃないか、社外の友だちは林田に言った。
だが、そんな慰めは話だの胸には届かない。理屈ではそのとおりでも、同僚や部下や取引先の微妙な態度や視線が、敗残者になった自分を鋭利な刃物で突き刺してくるような気がするのだ。
林田は羅針盤を失った。
ちょうどその頃、ムンクを手放してから三か月ほど経っていたある日のこと、お隣のミヨちゃんの家族が突然、引越していった。
林田の一家は腹を立てた。引越することはわかっていたんじゃないのか。ほんとうは、ムンクをどこにもやらなくてよかったんじゃないか、と。
涼子と藍子は、ムンクを返してもらえないか交渉しようと言い出した。
林田は反対した。
すでに、向こうの家族との生活が始まって三か月になる。すでに歳をとっているムンクが新しい家族の一員になって溶けこむには、それなりの苦労や忍耐が、家族とムンクの双方にあったはずである。今さら返してくれとはムシが良すぎると。
しかし、喧嘩はしても最後は譲ることが常となっている涼子が、今度ばかりは引き下がらなかった。
とにかく、事情を話して頼んでみて。あなたが行かないなら私が行く、と。
渋々、ムンクを引き取った家族の元へ行くことを約束した林田に、同行を申し出たものがいる。
藍子の彼氏の亮太である。
一度、家族の夕食の場に招いて、藍子が紹介した亮太は、フリーのライターであった。専門分野はビジネスや社会問題全般であるという。雑誌やネット媒体から注文を受けて記事を書いているだけで、単著があるわけでもない、完全な駆け出しのライターであった。
いったい、なぜ、このすこしぼんやりしたみかんのような男を、夕食に招いて俺に合わせたのかな、と林田は訝った。
藍子が連れてきた男は二人目で、前の彼氏とは別れたと言っていたから、亮太と結婚すると決めたわけでもないらしい。
亮太が帰った後に、藍子にどうと聞かれて、林田は答えている。
「フリーのライターって、無職のバイト生に近いんじゃないのか。結婚相手として考えてるなら、厳しいかもしれないぞ。堅気の会社に正社員として勤めるか、せめて、作家として将来の活躍の片鱗を見せてくれないと、両手を上げて賛成というわけにはいかないな」
その亮太が、林田の車に同乗して、一緒に富士吉田までの半日にも及ぼうかというドライブに、控えの運転手として同行してくれるという。
長距離の運転が心配だから、ちょうど仕事が開いている亮太を一緒に連れて行ってと、藍子は強引に亮太をおしつけた。
ちょうど月曜日の振替休日を含む連休で、大渋滞に巻き込まれるかもしれないと恐れていた林田は、亮太の同乗を許すことにした。
3.亮太
林田が出発から四時間ほど運転した後、亮太は交代してハンドルを握った。
こんなぴかぴかのハイブリッドの高級車の運転席に座るのは、生まれてはじめてのことであった。
緊張する亮太の隣の助手席で、林田はリラックスしているように見える。
―――― とにかく、気に入ってもらわなければ。
じつは亮太は藍子と結婚の約束をしている。だが、藍子の父の林田は、亮太との結婚に賛成ではないという。フリーのライターなどという、誰でも名乗ろうと思えば明日からでも名乗ることのできる肩書しか持っていないからだ。
でも、藍子を幸せにしたいと思う純粋で熱い気持ちがあれば、自分の夢を追いかけながらでも、彼女を幸せにできるはずだと信じている。
「パパみたいな会社一筋で家庭を顧みない人は嫌」
藍子もそう言っているではないか。
ただ、一部上場企業で取締役にまでなった林田を、どうやって説得したらよいものか、亮太には自信がない。
どこかに、心を通じさせる道はないものか、そんな思いで長時間ふたりきりになる長旅のお供を申し出たのだった。
しかし、とぎれとぎれになってしまう話の接穂をみつけるのはなかなか難しかった。
涼子や藍子とは違い、仕事で企業人の人生を見ている亮太には、林田が常務にならず子会社の社長に転出した意味を十分にわかっていたから、会社のことを話題にするには注意が必要だった。
助手席に座ってじっと前を見て黙っている林田に、亮太は直近におきた経済事件についてどう思うか、尋ねてみた。
「会計事務所とぐるになって、利益の計上をごまかしたんですよね。日本を代表する企業がそんなことやってるなんて、驚きです。しかも、歴代三代の社長はみな、それを知ってたっていうんでしょう。結局、日本の会社って、どこもそんなもんなんですかね。トップが社会正義に反することをやっても、誰ひとりとしてノーと言えないんでしょうか?」
「そうだな・・・トップにノーと言うには、刺し違える覚悟が必要だからな。刺し違えるところまで階段を登るには、そもそも、ノーと言わないことを信条にしないと、そこまで到達できないんじゃないかな」
「組織って、どこでも、そういうものなんでしょうか」
「ああ、たぶんな」
「林田さんの会社もそうですか?」
林田は亮太のその質問にはすぐには答えず、助手席の窓から山並みに目をやっていた。そして、窓の外に目をやったまま、言った。
「君も一度は会社に勤めてみたらどうだい? 会社がどんなところかよくわかるよ」
亮太は苦笑した。
「はあ、それも考えましたが・・・でも、もう、新卒チケットは使っちまいましたから、ろくな会社には入れそうにありません・・・会社で偉くなられた林田さんからすれば、勝ち残って、偉くなる人っていうのは、やっぱり能力ですか?」
返事はない。おそらく、頷いたんだろうと思い、亮太は続けた。
「ありきたりですけど、能力と運の両方が必要ってことでしょうか?」
林田はハンドルを握る亮太の横顔を見て、
「もちろんそうだが・・・どこまで行っても、最後に残るのはひとりだからな。最終的にはひとりを除いて、みんな負けるようにできている」
「はあ・・・社長になれなければ負けっていうならみんな負けですが・・・それじゃあ、ひとりを除いて誰も幸せにならないシステムってことになりますね。ほんとうにそういうところなんですか」
沈黙。
林田はヘッドレストに頭をもたせかけて、目をつぶったようであった。
ナビに従って車をすすめるうち、富士山の威容がだんだんと大きくなった。
河口湖畔のあるレストランが目的地に登録されており、その駐車場に車を停めると、待っていてくれと言葉を残して、林田は助手席を出てレストランに向かって歩いていった。
大きなレストランで裏にはバンガローや遊戯施設や専用の森が広がっている。ペット同伴可の看板の横には犬のイラストが描かれていた。
林田の後ろ姿がレストランの建物の中に消えて一〇分も経っただろうか。
林田が建物から出てきた。
右目あたりをハンカチでおさえている。
車の助手席に乗り込んできた林田のその顔は、誰かに殴られでもしたかのようにしか見えなかった。
「どうされたんです?」
「へんなところに棚の棚板が突き出ていてね、ぶつけちまった」
林田は力なくそう言って、笑った。
「血が出てますが、大丈夫ですか?」
「ああ、病院へ行って縫ってもらうほどじゃない。で、やっぱり駄目だった。引き取った家族の連絡先を、いまさら教えるわけにはいかないの一点張りだ」
亮太にはわけがわからなかった。ムンクをその家族に届けたのは、林田本人のはずである。
「おっしゃっていることがわかりません」
亮太は失礼と思いながらも、怪我の程度によっては病院へ連れて行かなければならないと思い、林田の右手をつかんで強引に顔から引き離した。右目周りの頬骨と額が青黒く腫れ上がっており、一センチかニセンチは切れて血が見る間に玉になった。
「ほんとに、どうされたんですか? 大丈夫ですか? 自分で何かにぶつけた傷じゃないですよね」
林田は亮太の手を引き離し血だらけになったハンカチを投げ捨てて、ティッシュボックスからティッシュを数枚引き抜いて額にあてた。
「その傷は誰かに殴られたんでしょう? 警察を呼びましょう」
亮太はスマホを取り出して、緊急通報を押そうとした。そのスマホを林田の掌が覆った。
「いいんだ。頼むからやめてくれ。早くここを出よう。わけはちゃんと話す」
亮太は駐車場から出し、しばらく走らせて別荘や保養所が森のなかにポツポツと立ち並ぶ道の路肩に車を停めた。
亮太が聞かされた話はこうであった。
三か月前、林田はムンクを連れて連絡のあった家族の元へ行ったが、事前に了解していたはずの若い夫婦はムンクの耳を実際に見て、引き取りを拒否した。次の引き取り手を探す時間の余裕はなかった。連れて帰れば、保健所行きだ。引き取り手がみつからない以上、約束を守りたければ、自分で保健所へ連れて行くのが大人の責任のとり方だとわかっていた。だが、林田にはどうしてもそれができなかった。保健所にも連れていけず、自宅にも連れて帰れない。どうしようもなくなって、ムンクと最後に一緒に食事をとったこの店に戻ってきて、ムンクのリードをあの手すりにくくりつけて、置き去りにした。ひょっとして、ムンクを飼ってくれる人がみつかるかもと思って。
林田はそのレストランのオーナーに殴られたのだ。
ムンクを置き去りにしたことを土下座して詫び、どこに行ったのか教えてくれと林田は頼んだ。
ごついガタイをもつ中年のオーナーは、ムンクは愛犬家に引き取られたが、それが誰か、いまさら教える気はさらさらないと怒った。
そして、すがりつく林田に拳をふるったということであった。
オーナーもきっと愛犬家なのだろう。だから、林田を許せず、つい手が出たに違いない。しかし、そこまで詫ている林田にとる態度にしては、オーナーも大人げないではないか。
亮太はオーナーに頭を下げて真実を告げた林田の行動に、別の一面、企業人として成功を収め、多くの人に見上げられることに慣れきった人と思っていた林田の、別の一面をみた。
林田は、自分の非を打ち明けて、詫びることもできるのだ。
亮太は明るい声で言った。
「教えてくれないなら、探してみましょうよ、ふたりで。ムンクは耳がない。耳がないラブって、めったにいないでしょう。同じ犬種の犬の飼い主ならある程度交流もあるだろうし、案外簡単にみつかるかもしれませんよ」
林田は黙りこくって、返事をしなかった。
目には涙が滲んでいるようであったが、亮太はもう顔をじっくりと見つめることはしなかった。そして、きっと、みつけてやろうと決心した。
林田は低く沈んだ声で言った。
「ムンクを置き去りにしたことは、妻や藍子には内緒にしてくれないか。引き取ってくれた家族が、ムンクを譲ってくれなかった、怒って、写真を撮ることも、会うことも許されなかった。そういうことにして欲しい」
妻と娘の前では、あくまで威厳のある夫、父でありたい、卑怯なやり方で逃げた情けない無責任男であるところは見せたくない、そんな思いなのだろう。
顔を腫らして打ちひしがれた様子の林田を見ていると、そうしてやるほかないと思えた。
「ええ、わかりました」
―――しかし、ほんとうに、それでいいのだろうか。
亮太の胸に渦巻く感情には、そのように同意しても、まだ消えてなくならない異物のようなものが残っていた。
その日と翌日、車中泊をはさんで、ふたりは犬の集まる場所、主に周囲のドッグランを回って、ムンクを見た人はいないか訊ねて回った。
とくに、ラブラドール・レトリバーの飼い主を見つけた時には、片耳のラブを見たことはないかとしつこく訊ね、みつかったら連絡してもらうように頼んだ。
林田は運転席にいることが多く、亮太にひっぱり回されているかのような、受け身な態度であった。
いかにも殴られた後の顔であったし、おそらく、オーナーに殴られことが、林田の気持ちを沈めているんだろう、亮太はそう考えて自ら積極的に行動した。
が、片耳のムンクはみつからなかった。手がかりもなかった。
帰りの車中、東名高速道路を西に走らせ、暗闇の名阪国道を家に着くというころ、ハンドルを握っていた亮太が、オーディオから流れていたストーンズの音量を落とした。
もう、時間がないあと一時間も走れば家に着いてしまう。心臓が高鳴り、口中が乾いている。意を決してついに言った。
「藍子さんと結婚したいんです。許していただけませんか」
林田は前を見たままである。横顔を伺うと、たしかに目は開いている。
やがて、林田がひとりごとのように言った。
「藍子には、なに不自由のない生活をさせてきた。できることなら、生活力のしっかりした、安定した男に嫁がせたい」
「僕も頑張ります」
「頑張るって、君。なにかの文学賞をとったとしても、ほとんどまともな定収入のないのが、作家だろう」
「たしかに、かつてはそうでしたが。今の時代は、ネットのおかげで色々な収入の道があります。僕はぜったいに、藍子さんを不幸せにはしません」
「俺も大昔、開高健みたいな作家になりたいと思ったことがあるよ。作家とか映画監督とか、若い人は誰でも夢にみるんだ。君も、一度、しっかりした会社に勤めてみたらどうだ?」
「はい、でも・・・」
有名企業に勤めて、林田のように取締役まであがったとしても、それがほんとうに自分にとっても素晴らしいことなのだろうか。しかも、亮太の目には、何十年も突っ走ったあと、最後の最後に子会社へ転出した林田が、一〇〇パセント自分の人生に満足しているようにも思えないのだった。
今の林田は暗い。
会社に入って取締役にまで昇進したところで、そこに幸せが待っているとは限らないんじゃないか、亮太にはそう思えてならない。
思い切って口に出して訊ねてみた。
「あの・・・いまの林田さんは、とても幸せなようにも見えないんですけど・・・」
林田は怒った顔を運転席の亮太に振り向けた。
だが、一言も発さず、頭をヘッドレストにあずけて目を閉じてしまった。
―――まずいことを言ってしまったか・・・
その時、亮太のスマホが震えた。
藍子からだろうか、それともムンクの情報を誰かがくれたのだろうか・・・
4.藍子
ムンクが乗っていないのはわかっていた。
土曜日から月曜日に続く連休の最終日、藍子は母の涼子とふたり、父と亮太の帰りを待っていた。ふたりの乗ったクラウンが家に着いた時は、すでに夜の十時を過ぎていた。
父の右目の周囲が赤黒く腫れていた。
「パパ、どうしたの? まさか、亮太と?」
「馬鹿。俺は生まれてこのかた人に手を上げたことはないよ。部屋に突き出ていた柱にぶつけられたそうだよ」
憔悴した表情の亮太がそう答え、父があいまいな笑顔を見せた。
L字型に組まれたソファに三人は腰を降ろし、缶ビールとビールグラスをテーブルに運んだ母涼子もそこに加わった。
「ふたりで一日余計に、観光でもしてたの?」
藍子が訊ねた。
「富士山も素晴らしかったし、河口湖の周辺の森の様子も、ステレオタイプな感じだったけど、それでも凄くよかったよ。ムンクのことは残念だったけど、楽しかったですね」
亮太はそう言って父を見た。父は缶のままビールを喉に流し込んでい、ただ頷いた。
あの話はどうなったんだろう。ムンクが新しい飼い主のところから帰ってこないことは、亮太のメールでわかっていたから、藍子の気がかりは結婚話の方であった。ふたりで一日余計に過ごしたということは、よい兆候なのだろうか。だが、それにしてはふたりの表情に明るさはない。
「飼い主のご夫婦って、お若いんでしょう?」
母が訊ねた。
父は、ああ、とだけ答えた。
「事情を話せばわかってくださるって期待してたんだけど。いくらでもラブはいるのに、なぜ、ムンクにそんなにこだわられるんでしょうね」
「耳はないし、情けなさそうに見えるから、余計に情が移ったんだろう」
「それにしても、写真ぐらい、撮らせてくれてもいいのに・・・会わせてもくれなかったの?」
「ああ」
「ムンクはほんとうに、その方々に愛されて、幸せに暮らしてるのかしらね」
「大丈夫だ」
夫婦の会話に、藍子が口をはさんだ。
「なぜ、大丈夫だってわかるの? 会わせもしないって、変じゃない?」
「俺の言い方も悪かったのかもしれない。頑なになってるんだろう」
突然、母が「しいっ!」と言った。
「庭になにかいるわ・・・・」
母は立ち上がってサッシの前にいき、カーテンを開けた。鏡のようになったガラスに室内の様子が映しだされた。そこには四人の不安そうな表情が写っていた。
「まさか、ムンクが・・・そんなことはないよね」
母はそう言うと、鍵を上げてサッシを引き開けて、暗い庭に身を乗り出した。
「ムンク!」
母はときどきおかしなことを言う。
霊感が強いというのが母の口癖で、昨夜は天井に亡くなった親類が浮かんでいて、自分を見下ろしていたから眠れなかった、などと言うことがあるのだ。
藍子はまた始まったと思い大きな溜息をついた。
「ママ! 変なこと言わないで。ムンクがいるはずないじゃない」
母は藍子の声を振りきって庭に降り、そこにあったつっかけで家の周囲を一回りしたらしく、数分で部屋に戻ってきた。
「変ね、なんだか、ムンクが帰ってきたような気がしたんだけど」
「まさか。富士山からここまで、車で飛ばしても八時間もかかるし、何百キロとあるのよ。一〇才を超えたおばあちゃん犬が、そんな距離を歩いて帰ってこれるはずがないじゃない」
「そうね、もちろん、そうだわね」
納得した風でもない表情の母は、なにかを小さく呟きながらキッチンに戻った。
「お父さん!」
突然、そう言ったのは、亮太だった。
―――お父さん
亮太はたしかに、「お父さん」と言った。
藍子が、父のことを亮太がそう呼ぶのを聞いたのは、はじめてのことであった。
「もう、嘘を言うのはやめてください。嘘をつけばつくほど、お父さんも、家族も、悪いほうへ悪いほうへと行ってしまいます。お父さんには嫌われるかもしれないけど、もう構いません。言わせてもらいます。お父さんは、ほんとうのことを言うべきです」
亮太はそう言うと、スマホを取り出して操作し、目的の画面を表示させて、父に手渡した。
スマホを受け取った父は文面を読むと、頭を垂れた。
「藍ちゃん、お母さん、お父さんがムンクを連れて行ったその若い夫婦は、ムンクの耳を見て、引取を拒否したんです。お父さんはにっちもさっちもいかなくなって、河口湖畔のレストランにムンクを置き去りにした。オーナーは仕方なしに、しばらくムンクを預かって引取先を探した。このメールの写真がそのときの掲示板に貼られたムンクの写真です。きのう、一昨日と、どこかに引き取られたと思っていた僕は、お父さんを連れ回してムンクを探していたんですけど、その時知り合った人から、さっきいただいたメールです。その方の情報でわかりました。結局、引き取り手はみつからなかったんです。何度もそんな目にあっているオーナーはなんとかしたかったんでしょうけど、どうにもならなくて、ついに、遺失物として警察に届けた。お父さんの顔の傷は、謝りにいったオーナーに殴られたものです。ひょっとしたらオーナーが引き取り手をみつけてくれたかもしれないと、お父さんは恥を忍んで土下座して謝ったそうです。・・・で、遺失物として警察に届けられた犬は、飼い主が現れなければ、保健所へ移されます。あとはわかりますね」
―――殺処分。
どんと大きな音がして振り向いたら、母はキッチン・テーブルの椅子に捕まって、死んだ魚のような表情をしていた。
藍子は叫んだ。
「パパ! 嘘でしょ?嘘って言って!」
「すまない」
父は下を向いて唇を震わせていた。
「すまない。俺はどうかしていた・・・最後の勝負の最中だったんだ。ムンクのことに、あれ以上手をとられているわけにはいかなかった。かと言って、ムンクを保健所に連れて行って自分の手で殺すこともできなかった・・・すまない」
藍子の喉元から嗚咽が漏れた。
そして、母がどこか遠くの異世界で呟いているのが聞こえた。
「やっぱり、帰ってきていたんだ。ほら、ムンクが庭を走ってる。嬉しそうに、今、庭を走り回って、また、はなみずきの根っこを掘り返してるわ」
霊なんていうものが本当に存在するなら、人間や殺処分される犬たちの苦しみはどれほど軽くなるだろうか。その種の母の話はまったく信じなかった藍子だが、今回ばかりは信じることにした。
ムンクは、霊となって帰ってきたのだ。
だが、帰ってきたのはムンクだけではなかった。
会社一辺倒だった父は、時には早く帰ってくるようになり、母や藍子の話に真剣に耳を傾けるようになった。
あの日、いつの間にか家からいなくなっていたあの優しい父も、ムンクの霊といっしょに家に帰ってきたのだ。
亮太との結婚式で号泣する父の姿を見て、藍子はしみじみと思ったのだった。
Photo by Joe Penniston