犬はガラスのないドアを通り抜けることができない
その言葉と意味は知っているが、「羮」(あつもの)も、「膾」(なます)も、書くことはおろか、読むこともできないし、意味もわからない。
「羹」とは、野菜や魚肉を入れて作る、熱い吸い物のこと。
「膾」とは、現在は酢などで味付けをした冷たい和え物のことだそうだ。*1
僕は、いま家にいるラブを飼うまでは、犬を飼ったことがなく、犬というのはどれほど賢いのだろうかと興味津々であった。
ラブラドールレトリバーなので、盲導犬にもなれる、比較的頭の賢い犬種のはずである。
彼女は、心情的には飼い主である僕や家族と、かなり緊密に結びついている。
彼女はひとりでいるのは嫌いだし、家族が楽しそうにしているところへは必ずやってきて仲間に加わろうとする。
誰かが叱られてしゅんとしていたりすると、そばに座って頭をのせてきたり、手を舐めたりする。
僕らの言葉を理解しているとは思えないが、いくつかの言葉を、ある状況で言えば、理解しているように見える。
その精神的な結びつきはかなり強いので、たとえば、「犬は飼い主が突然いつもと違う時間に帰ってきても気づくことができる」というような話を聞くと、眉唾と思いながらも、あるかもしれないと思ってしまう。
まあ、それでも、やはり、論理的な思考をするようなことはできないのだ、ということはわかった。
たとえば、3本の紐があり、その一本の先に餌がついているような装置があったとして、犬は餌がついている紐を選んで引っ張ればそれが落ちてくるというような、ごく簡単な論理的な思考ができないようだ。
さらに、「羮に懲りて膾を吹く」という点が顕著であるようだ。
おそらく、それがオオカミが荒野で生き抜くために、もっともたいせつな行動原理だったのだろう。
そして、人間のパートナーとなった今でも、それが本性として彼らの行動を厳しく制限する。
今日見つけたこの動画には、ガラスのはまっていないドアや窓の前で、犬たちがいかに行動するかという例がまとめられていてとても面白い。
おそらく、どの犬も、そこにはまっていたガラスに、鼻先をぶつけたことがあるのだろう。
だから、ガラスがなく、枠をまたいで通り抜けていけるという状況になっても、彼らの頭の中には頑としてガラスがあって、そこを通り抜けれるという風には認識できないのだ。
実際にそこにガラスがなく、足で試して触れもしないとわかっても、あるいは、飼い主が飛び越してみても、犬達は存在しないガラスに阻まれてしまうのである。
そういえば、うちのラブも思い当たる点がある。
たとえば、最初の水遊びの時に溺れてしまったので、水遊びが嫌いだ。
沖まで抱きかかえて行って、そっと離してやると泳いで岸まで帰ってこれるのだが、それもイヤイヤで、けっして楽しそうではないし、自分から水に入ることをしないのである。
この動画を見て、ラブの水嫌いを矯正するのは、無理だということがわかった。
いや、しかし、僕がこの動画を見て思ったのは、ラブや犬たちのことではなく、人間様のこと、自分のことであった。
きっと、僕も知らぬ間に、ガラスのないドアを前に、通り抜けることはできないと信じて疑わないような状況にあるのではないだろうか。
もともと、僕はラブや犬たちよりはかなり賢いが、それでも、愚かであるところはそっくりなのだ。
きっと、「羮に懲りて膾を吹いている」に違いないのである。