ピラニア・ショーと金魚
大学時代、僕は水産学科だった。
いくつかある研究室のひとつに、水槽が置いてあってそこにピラニアが2匹泳いでいた。
誰がどんな目的でそのピラニアを持ち込んだのかは知らないが、とにかく、上の写真のような緑に囲まれた水槽ではなく、砂をひいただけの水槽に2匹のピラニアが泳いでいた。
ときどき、誰かが餌を買ってくる。
餌というのは、小さな金魚だ。
「ピラニアショーのはじまり!」と誰かが言う。
白衣を着て真面目に研究していたものや、たんにタバコを吸いに研究室にやってきているものなどが、数人、その水槽の前に集まり始める。
それ!
金魚が数匹水槽の中に放たれる。
もちろん、哀れな金魚の子供たちは、ピラニアに食べられてしまう。
それは自然界の掟で、小さくチカラのないものは、ピラニア様の餌になっても仕方がないのであった。
僕たちは水槽に顔を寄せて、自然界で日常的に繰り広げられているであろうその惨劇を見つめた。
僕らには、まもなくモラトリアムの学生時代も終わり、社会に出て行くことがわかっていた。
僕らはピラニアの水槽に放たれる金魚たちのような存在なのだろうか。
あるいは、自らがピラニアになるのか。
それとも、そんなアナロジーは皮肉屋の戯言で、社会というところは、ピラニアのいない金魚が住む庭の池のような平和なところなのだろうか。
つらつらとそんな考えが巡り、どうやら仲間も同じような感慨をもっているのか、「ショー」という割には盛り上がらない。
惨劇が終わると、ため息をついて、それぞれの席に戻って行く。
求人をして面接をしていると、ふとあの学生時代の「ピラニアショー」を思い出した。
普段は感じなくてすんでいるこの社会の厳しさを垣間見ることが多くちょっとへこむ。
失業率などの数字は、数字であるかぎり胸に深く突き刺さることはないけれど、求人中の方にはそれぞれの事情、物語があり、ついつい本来の目的を忘れて話を聞き入ってしまう。
もちろん、うちは小さな会社であるし、必要な職能というのは限られているから、多くの人を採用するわけにもいかない。
怒りさえ感じてしまう話も多い。
たとえば、20年近くひとつの会社で真面目に働いていたのに、その会社が倒産したりリストラしたりして、40才や50才を超えてからほかの勤務先を探さなければならないような状況になった場合だ。
僕も40才を超えてから無職になったくちだが、僕の場合には多大な早期退職金がもらえた。
多くの場合、充分な退職金もなく放り出される。
また、ひとつの仕事をずっとやっていて、そこで得た職能が現在のキャリア市場では評価されないようなことも多く、状況はさらに厳しい。
とくに目端が利かなくても、真面目に生きていたら、ちゃんと普通の生活ができて、仕事をする人として、また同時に家庭人として、誇りをもった人生を送れるもの。
ひょっとすると社会はそんなところではないのではないか。
「ピラニア・ショー」を見ていた僕らが感じていた漠然とした不安が、現実のものとなっているような気がするのだ。
僕にできることは小さい。
憤ったところで、状況を大きく変えることはできない。
言論人や政治家、大企業の幹部などがやれることから比べれば、僕のできることは顕微鏡で見なければみつけられないほど小さい。
限りなく小さいけど、できる範囲で、諦めずに、その責任を果たしていきたいと思っている。
photo by harmon