コラム「なぜ私は教師になったか」を読んで泣け!(上)
ある教師のコラムを読んでいたら、不覚にも泣いてしまった。
2009年、オバマ大統領からNational Teacher of the Year 2009という賞を授与されたAnthony Mullen氏が、なぜ自分は教師になったのかということを書いたコラムだ。
National Teacher of the Year, 2009: Why I Became a Teacher. Why I'm Still Teaching. (2009年度ナショナル・ティーチャー・オブ・ザ・イヤー:なぜ私は教師になったか、なぜ今でも教えているのか)
やや長い記事なので、2回に分けて、訳出する。
今回はなるべく原文に忠実に訳した。でも、プロじゃないので、間違えているところもあるかもしれないし、意味がわからず少しはしょったところもある。
その点は助言いただけると嬉しい。
それでは、ハンカチを用意して、どうぞ。
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なぜ私が教師になったか。
良い質問だ。教えることは立派な仕事だから。
教えることで、子どもたちの人生を変えられるから。
子供が好きだから。
それは多くの教師にとって答えのひとつになるだろうけど、皮相的な答えでもある。
私の場合の、個人的なそして、ちょっと込み入った理由を説明する答えにはなっていない。
多くの職業は子供の人生に影響を与える点で立派な仕事だし、グリム童話の森の住人の何人かの例外を除いて、たいていの人は子供が好きだ。
私は教師になった。
私自身がほとんどうんざりするような教師にしか教わらなかったから。ティーンエイジャーのそばで働きたいから。私の人生を鏡に映したような彼らに、かつて同じような暗い階段を登った大人のひとりとして、何かを伝えることができるかもしれないから。
あまりにも多くの若者が、彼らの人生が一瞬にして別のものに変わってしまう人生の暗転に遭遇する。「うち」は一瞬に、物理的な「家」になり、愛と優しさは、悲しみ、苦痛、後悔に置きかわる。
私の最初のその暗転は9才の時だった。
家に帰ると、母がキッチンで倒れて死んでいた。医者は彼女は脳出血で痛みなく亡くなっただろうと言った。彼女の名前はサラで、スコットランドに生まれ、偶然にも彼女の両親も彼女が9才の時に亡くなっていた。彼女は暗い孤児院で育ちアメリカにやってきて家族をつくり、彼女を襲った人生の暗転から逃れようとしたのだった。
スコット一族はストイックな人々で静かに喪に服すると、そもそも彼女はいなかったかのようにふるまった。
私は母の写真を見ずに育ち、母の短い人生について何も知らずにいた。学校では、先生が言っていた「宿題をお母さんに見せてサインしてもらいなさい」とか「お母さんに役員のボランティアをやってもらえるように頼みなさい」とか、ケーキ販売のイベントのために、何か焼いてもらって持って来なさいとか。
私は先生に言いたかった。私には母はいません、ケーキの焼き方も知りませんと。 私がそこで学んだもの。
それは、Empathy、他人の気持ち、感情を理解することだった。
私は教えている。あまりにも若く愛する人を失った子供やティーンエイジャーの気持ちがよくわかるから。
父は私たちふたりの男兄弟を一生懸命育てようとしたがうまくいかなかった。
父はすぐに再婚し、私達兄弟はニューヨーク州北部の家に新しい母とともに住むことになった。
新しい母は物理的にも感情的にも私達を虐待した。彼女のひどい欲求に黙従しない限り、私達にご飯をつくってくれることすらしなかった。
そして、TVディナーをどうやって料理するかということ、アルミホイルの皿の端を丸めて、ブラウニーという小さなごちそうをどうやって、楽しみにとっておくかということ、を覚えた。
私がそこで学んだもの。
それは、Self-reliance、自立するということ。
私は教えている。様々な困難に見舞われているティーンエイジャーたちに、どうやって逆境を乗り越えるか学んで欲しいから。
父は2年後、彼女と別れた。いつも傷だらけの息子たちの姿を見なければならないこととも。
私たちは懐かしいニューヨークの町に帰り、アパートの一室でおばあちゃんと住むことになった。兄と私はソファで寝た。兄の足が臭かった。
人生は好転しつつあったが、おばあちゃんが寝ている間に死んでしまった。私は彼女を起こそうとしたが、彼女は冷たくなっており、見開いた目は天井を睨んでいた。 読み書きもできなかったけれど、賢人の知恵をもっていた女性に、16才の私は、さよならを言わなければならなかった。
私がそこで学んだもの。
人生は、unpredictable、予想できない。
私は教えている。
私の生徒たちに知って欲しいから。人生は変化がつきものだ。良いものもあるけど、悪いものもある。だけど、いつも変化する。おばあちゃんが死んだあと、父との暮らしは、また良い方向に向かった。たくさんの友達がいて、兄とベッドルームをシェアして、放課後にアルバイトをした。近所から出て外の世界を見たかったし、私は成長し続けていたので、中古の車が欲しくてお金を貯めた。できれば「飛びたかった」んだけど、4本のゴムタイヤつきのもので我慢することにしたのだ。
そして、また、暗転がやってきた。
父が病気になり、私が20才のとき、父は死んだ。
私がそこで学んだもの。
perseverance、忍耐だ。
私は教えている。私の生徒たちに、「忍耐すること」を染みこませるように、教えたいから。
*(下)に続く