コラム「なぜ私は教師になったか」を読んで泣け!(下)
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コラム「なぜ私は教師になったか」を読んで泣け!(上) - ICHIROYAのブログ
私は塗装工場で働き、のちにニューヨーク市警に勤めた。
私は徐々に昇進し警視正になった。いくつかの素晴らしい表彰を受け市警の殿堂入りを果たした。
しかし、そんな賞賛はあまり意味をなさなかった。毎日何十人もの若者が手錠をかけられ監獄に入れられるのを、私は目撃した。それは彼らが、他者に対する想像力がなく、逆境に耐えることを知らず、自立の価値を知らないからであった。そうした若者たちは、それは運命の定めたものではないと理解しておらず、結果、自分の未来を6x8フィートの小さな監獄と交換してしまうのだ。
ある日、少女が避難ばしごの最上段に立って、飛び降りようとしていた。そこは6階で飛べば死ぬことは間違いなく、幾人かの見物人は早く飛べとせかしていた。私は狭い窓から這い出て、なんとか彼女のそばまで行った。
私は彼女に言った、君は若くて美しい。みんな君のことを愛している、と。
そんな決まり文句は彼女の心に届かなかった。彼女は飛んだ。
何が起きたのかはっきりとはわかならい。
とにかく私は彼女に飛びつき、彼女の左の腕をつかんだ。彼女の重みが私を非常階段からひきずり出そうとし、私は握力を失いつつあった。
その時、彼女の目を見た。彼女も私を見た。その眼は恐れており、死にたくないと言っていた。私は力尽きませんようにと祈った。彼女が死へと落ちていく前に最後に見た人物になりたくなかったし、力尽きて私の手からすべりおちていくことを理解した彼女の目を見たくはなかった。
私はなんとか彼女を、手すりの内側に引っ張りあげた。彼女とふたりでその場に座り込み、荒い息をした。
私がそこで学んだもの。
それは、Redemption、救済だ。
取り乱したティーンエイジャーには、自らを救済するチャンスが必要だ。大人にみえてもまだ見習いに過ぎず、飛び降りてしまわないように誰かが受けてとめてやる必要があるのだ。
ナショナル・ティーチャー・オブ・ザ・イヤーとしての活動期間が終わったとき、私はほっとした。あの懐かしい学校のベルが鳴り、私はそれにこたえることができるようになったからだ。
私は私のクラスに帰った。私をもっとも必要としてくれている、機能不全に陥ってしまっている生徒たちのもとへ。
なぜ私が教師になったかという質問に、私のこの人生を語らずに答えることができない。私の物語は、また同時に、あまりにも多くの子供たちの人生のページにも書き込まれている。私の物語は、私が教え導いた生徒たちの物語りでもある。
そして、それが、私が今でもなお、教室にいる理由なのだ。
現在、高校でフルタイムで教え、地元の大学でもパートタイムで教鞭をとっている。様々な教育関係の文書を発表し、現場の教師からの意見を発信している。
私の論評はしばしば政治家や政策立案者や専門家と対立する。だが、彼らには彼らのアジェンダがあり、私には私の考えがある。
過激な教育改革をやろうとしている大金持ちや、*1コモンコア(全米共通学力基準)を学生の学びを進歩させるものではなく、神の恵みにも似た売上のチャンスとみなしている出版会社たちが用意する飼葉に群がるおべっか使いの連中に、私は加わるつもりはない。
私はこの問題について声をあげつづけるつもりだ。
私たちは、教師の声を聞かなければならない。
教師こそが、なぜ自分たちが教えているのかを理解しているのだ。
photo by Funky64