ぼくを悩ました超大物の「そいつ」
まだ、商売を始めて、まだ経験も浅いころの話です。
衝撃的な光景を業者間の市場で目撃しました。
どうみても、河原町のジュリーが着てたやろ、みたいな、ぼろぼろになった布切れを、先輩たちが、「すてき~~!」などとうっとりして、高値で競り落としているのです。
おっ、そうか、ボロの布は、ぼろいほど、価値があるんやな、僕は、即座に理解して、心に刻みました。
そして、ある市場で、とんでもないボロが出たんです。
綿でできたらしいそれは、ぼろぼろになっているだけでなく、敷き布団のように分厚く、縫い閉じられた糸を解けば、何枚もボロがとれそうです。
何枚ものボロを重ねた宝のヤマ!
丹波布だって入っているかもしれない!
たしか、丹波布は、小さなものでも、数万円するはずだ!
ところが、皆は、口々に言っています。
「汚な~~~!」
「臭い!誰やこんなん持ってきたん!」
「早よ、引け!」
しめしめ、皆見る目がないな。
たしかに、ドロドロに汚れて、臭いけど、ほんとうは、宝。
洗って、解くとこ解いて、◯◯へ、持って行ったら、数万x数個になるのは確実。
僕は、胸の高なりがばれないように、細心の注意を払って、発句の「3000円」に、「5000円」と低い声で応え、無事、その宝物(「そいつ」)をゲットしました。
さて、その、臭くて、ドロドロに汚れたそいつを、家に持って帰って来ました。
まだ、マンションの自宅の一室で、仕事をしていたころです。
まず、洗わなければ、臭くてたまりません。
僕は、そいつを風呂場にもっていき、湯船にぶち込んで、水を注ぎました。
水を湯船いっぱいにしたら、洗剤もたんまりぶっかけて押し洗い。
あっという間に、水は真っ黒。
さすがに、凄い汚れです。明治時代から何十年という汚れが積もり積もっています。
まさに、墨のようになった水をいったん抜いて、水で膨らんだそいつを上から押して、なるべく汚れた水を流します。
もう一度、水をいっぱいに張り、洗剤をぶち込んで。
また、水は、真っ黒です。ちっとも薄くなった気がしません。
さすが、です。
古いボロは、それだけ汚れているんです。
金儲けにはそれぐらいの苦労は伴います。
僕はもう、二度、三度と同じ事を繰り返しました。
が、泥水の黒さはあいかわらずで、まったく、薄くなる気配がありません。
よし、わかった、漬けおきしよう。
僕は、もう一度、水を張り、洗剤をぶっかけて、そいつを泡の下に押し込んで、臭いので、蓋をしました。
もちろん、嫁は、ボロのことも、僕の計画も、商売の勘所も知りません。
風呂を沸かそうとして、蓋を開けて、死体でも沈めてあるかのように驚いて、僕を責めます。
まあまあ、一日二日のことやから、となんとかなだめます。
たしかに、そいつをなんとかしなければ、風呂にも入れません。
が、翌日に、墨のような真っ黒の臭い水を抜いて、もう一度水を張って、驚きました。またまた、水は黒くなるのです。
さすがに、ぼくも、そいつを、相当手強いぞ、と畏怖し始めていました。
もう、一日。
僕は再度水を張って、洗剤をぶちこんで、蓋をして、今度は、最後に祈りました。
翌日。
そいつは、やっぱり、真っ黒な水に沈んで、青光りする頭を水面に出しています。
もう、一日、嫁と喧嘩してでも、そいつを風呂に入れておくべきか、嫁と子供のために風呂をあけるべきか。
ぼくはついに諦めて、そいつを風呂から出す決意をしました。
真っ黒な水を抜いて、そいつが吸い込んだ水も絞りだそうと、思いっきり上から体重をかけて、押しつけます。
どれだけ押しても、真っ黒な水は途切れず、どんどん出てきます。
仕方なく、ある程度で諦めて、ずっしりと重いそいつを抱きかかえて、湯船から出しました。僕のシャツも一瞬でドロドロです。
そのまま、風呂場を出て、リビングを横切り、和室からベランダへ向かいます。
嫌な予感がして振り向いたら、真っ黒な雫が落ちて、リビングの床、和室の畳、に点々と落ちているではありませんか。
僕は身震いして、そのままベランダへ出て、そいつを放りだしました。
汚く、臭いままにしても、とにかく、乾かさなければ、にっちもさっちもいきません。ぼくは、狭いベランダの端に、できる限りそいつを拡げました。
もちろん、床と畳みは、一生懸命拭いてきれいにし、これで家族も風呂に入れる、と安堵しました。
が、そいつは、まったく大物です。
今度は、乾いてくれないのです。
何日置いておいても、じっとりしたままです。
少し乾いたかな、と思った頃に雨が降り、部屋に入れるわけにもいかないので、そのままにしておくと、また、しっとりと水分を吸い込んで、元の木阿弥です。
2,3か月、僕は、そいつのことを忘れたことにしていました。
でも、ついに、嫁から最終命令がくだされ、僕はそいつをどうにかしないといけないことになりました。
ま、うんと儲かる商売の途中で、時期を待っていただけですのことです。
異論はありません。
僕は、いまだじっとりとして、いい香りを放つそいつを、ある晴れた日曜日、マンションの青空駐車場に持って降りました。
ハサミを片手に、いよいよ、数枚の襤褸に分離手術です。
が、ミルフィーユのように重なって荒く縫い継がれたそいつは、きれいに何枚かの層になっているわけではなく、小さな布がバラバラに、不規則な枚数縫いとめられているため、糸を解けば、バラバラになるばかりで、元のサイズのままに引き剥がすことができないのです。
がお~!
僕は頭に血が登りましたが、手術は続行!
結局、端切れ布の巨大やヤマにしてやりました。
もちろん、その端切れたちは濡れたままだったので、マンションの住人、隣の駐車場のひとに迷惑をかけないよう、自分の車の上にその端切れたちをいっぱいに拡げて、乾かしました。
それは、あの先輩たちがうっとりするに違いない、素敵な光景でした。
美しく冴えた藍色の端切れいっぱいに飾り付けられた車!
ようやく僕に手懐けられたそいつは、乾いてくれたので、ビニールのゴミ袋に小分けしていれました。
襤褸数枚に分離して、数万円✖数枚という当初の計画は砕け散りましたが、きっと珍しい綿とか、宮古上布だとか、丹波布やらとか、が混じっているに違いないありません。
でないと、困るんです。
プロフェッショナルならではの、いい話でしょう?
いまならわかりますが、そいつは、綿(わた)の代わりにボロ布を詰め込んだ布団で、なかに襤褸がある、っていうことは、金輪際なかったのです。
で、結局、困ったかどうかは、商売倫理上、ここに書くことはできません。
あしからず。