Kさんの臨死体験
「死にかけたことありますか?」とKさんが言う。
Kさんは僕と同年代の男性でとても楽しい人だ。
Kさんが、もう新しいチャレンジなんかしたくない、健康に気をつかって、なるべく穏やかに長生きしたいというようなことをおっしゃったので、
「そうなんですか?」と思わず問い返したら、彼がそう言われたのだ。
Kさんはある時、ひどい肺炎になられて、死にかけられたそうだ。
大量の血を吐いて病院に運び込まれ、人工呼吸器を喉に突っ込まれ、危ないというので、近親者が呼ばれた。
意識を失っている間、まさに生死の境を彷徨っているその時に、Kさんは釣りをしていた。
釣りをしていたのが、Kさんの意識の中だったのか、あるいは、黄泉の国への入り口のようなところだったのかはわからない。
Kさんの趣味は釣りなので、なじみ深い釣りのシーンが無意識に浮かんだのかもしれない。
で、魚がかかった。
凄い引きで、大物かと思われた。
竿先を振り回されながら、それを引き上げようと、重いリールを巻き上げようとしたとき、そいつが、水中から飛び出してきた。
それは魚ではなく、人間の形をしていた。そして、Kさんに襲いかかってきた。
Kさんは竿を捨てて逃げ出した。
が、そいつは逃げるKさんを追いかけてくる。どこまでも。
逃げ切れない、手がかかる、と諦めかけた時に、Kさんは目が覚めた。
目を開いてゆっくりと周囲を見て、そこが病院であることに気がついた。
そして、妻と子どもたちの心配そうな顔が見えた。
口には人工呼吸器が突っ込まれているので話すことはできない。
涙が堰を切ったように流れだした。
生きているということのありがたさに、涙が止まらなかった。
僕はKさんのように、「自分の死」を身近に感じたことはない。
身近に感じたことがないために、「自分の死」そのものに対してはさほど恐れを感じないように思えるし(その過程の苦痛の恐怖は別)、「いま生きていること」のありがたさを、深く深く味わうこともできないのかもしれない。
どうやらKさんの死生観や人生観は、その体験に大きく影響されているようだ。
僕がもし、そういう体験を持つことになれば、僕はどんな風に変わるのだろうか、あるいは、変わらないのだろうか。
Kさんのその話は、当分の間、胸にひっかかって取れそうにない。
それにしても、水の中から飛び出してきたそいつ、死神かもしれない人間の形をしたそいつは、いったい、どんな形相だったのだろうか。
photo by theilr