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ICHIROYAのブログ

元気が出る海外の最新トピックや、ウジウジ考えたこととか、たまに着物のこと! 

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「なにものかになる」ってどういうこと? (22年間をかけて人力で道を開いた人の話)

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「なにものか」になるっていうのは、どういうことを言うのだろうか。
「なにものかである」と、ひとりでも多くの、ほかの誰かから思われればいいのだろうか。
そうであるとすれば、何人の人にそう思われれば、「なにものかになった」と言えるのだろうか。
それとも、ほかの誰がなんと思おうと、自分は「なにものかである」と思えれば、それでいいのだろうか。
いや、ひょっとして、「なにものかにならなくていい」と思えたとき、ほんとうの「なにものか」になるのだろうか。

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ところで、僕を感動させるある種のトピックスが、ほとんど共感をうまないことがある。
この話もそんなトピックスのひとつかもしれない。

険しい岩山をたったひとり、人力だけで削って道を作ったインド人

 

英語の元記事をみつけて、日本語で検索してみたら、すでに丁寧に訳しておられるかたがいた。
素晴らしい記事とおもったが、注目を集めている様子はない(ツィート7,ブックマーク1)。
ああこの記事も、例の「ひとり感動トピックス」の典型だな、と思った。
記事にある道ができたのは1982年のことで、すでになんども報道されており、ニュース性がなかった可能性はある。だが、彼の名前を日本語で探しても、上記の記事の転載と数記事がみつけられるだけで、話題になった形跡はない。
やはり、この記事は、日本人の感動、共感を広く呼び起こすことはできなかったのだ。


しかし、もし、あなたが「なにものかになる」ことについて、考えることが多いのであれば、遠くはなれたインドの話ではあるけれど、知っておく価値はある。
今回、上記の記事や、複数の記事を読んだので、彼の偉業とその背景を、もう少し詳しく書いておきたい。

 

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Dasrath Manjhiというインドの田舎に住む男性が、22年をかけて岩山に道を開いた。
道をひらく以前は、75kmあった最寄りの町への道が、わずか1kmになった。(Wiki
その道を阻む岩山を、ノミをふるって削り、110mにわたって7.6mから9.1mの巾で切り開いたのだった。

村人たちの反応は、「あいつがひとりで岩山を切るって? 狂ったのか? 他にすることはないのか?」というもので、最初の数年間、誰ひとり彼を応援するものはいなかった。
数年後、水や食べ物をもってきて、声をかける人がでてきた。
そして、また数年後、岩に道ができつつあるのを見た村人たちは、ようやく工事そのものに手を貸すようになる。
そして、22年後、ついに道は切り開かれた。

 

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記事によれば、そんな彼を駆り立てたのは、妻の事故が発端だという。
妻が、水を汲みにいってひどい怪我をした。そのとき、彼は村人たちのために道を開こうと決意したのだという。
のちに、彼女は病に倒れ、病院へ連れて行くことができなかったために、亡くなってしまう。
そのことが、ますます彼の決意を強固なものにした。

さて、なるほど、という話なのだが、インドの田舎に住む彼も、僕らと同じ人間だ。
家族もいれば、子供もいる、稼がなくてはならない。
なぜ、彼にそんなことができたのか、不思議に思った。

じつは、彼の住む村のひとたちのほとんどは、石を切り出すことを生業している。
そして、彼自身も岩を切ることを、生活の糧にしていたようだ。
だが、もちろん、この道を切っても、一銭のお金にもならない。
彼は、昼間の仕事を終えたあとに、あるいは、昼の仕事を短縮して、この仕事に取り組んだのだった。
道を作り始めた時には妻は存命で、彼女は彼の仕事を支え、家族の収入が減ったことに何の文句も言わなかったという。

もう少し、リアルに想像してみよう。
画像で見る彼はすでにおじいさんだが、道を切り始めたとき、彼は26才だったのだ。
日本で言えば、これから世界に出て、たくさん稼いでやろう、一旗あげてやろう、なにものかになってやろうと、牙を研ぐ歳の若者なのだ。
その若い彼が、村人たちのために、道を切り拓こうというのだ。
もちろん、彼も、最初は州政府に陳情を繰り返して、まっとうな方法で道をつけてもらおうとしたのだった。
彼は陳情先の役人から、ひどい言葉も投げつけられたようである。
おそらく、そのひとたちへの反発もあったのだろう。
最初からそれが22年に渡る苦闘になるとも知らず、自らアクションを起こすことで、状況を変えてみせると決意して、その行動を始めたのだった。


また、彼が道を切り始めた年は、1960年であった。
じつは、彼や彼の村人たちは、カースト制度のなかでは、Musaharという最下層の不可触民に属するとされているのだ。
そして、ガンジーが肯定したカースト制度を、インドが憲法でようやく禁止したのは、そのたった10年前、1950年なのだ。
彼らは貧しく、130万人いるというMusaharたちの98%は自分の土地をもたず、99%は文字が読めず、現在でもカタツムリやネズミの肉を食べる生活をしているという。


僕も2度ほどインドへ行ったことがあるが、不可触民とされたひとたちが、どんな思いでその人生を生きているのか、わからない。
もちろん、憲法改正やその後の近代化の努力もあり、不可触民出身の大統領が生まれたり、不可触民に優先的に入学や政府関連の仕事を割り当てたりする制度もできて、状況は改善されつつあるが、その差別は根深いものがあるようだ。(日本人の佐々井秀嶺師が仏教徒に改宗することで、ヒンズー教そしてカースト制度の軛から、不可触民の多くを救い出そうと奮闘されています

 

ともかく、彼と彼を取り巻く状況はそんな風だったのだ。
彼がどんな思いで、それを始めたのか、そしてそれを22年間も続けたのか、いくら考えても想像の域を出ない。
でも、ともかく、彼はそれをやりぬいたのだった。

彼は、「なにものか」になったのだろうか?
そもそも彼は、「なにものか」になりたかったのだろうか?
もし、彼が「なにものか」になったとして、何も持たなかった彼が、「なにものかに」なれた理由はなんなのだろうか?


さて、実は、話はここで終わらない。
彼が道を完成させたのは、1982年のことであった。
彼はもちろん、英雄となり、世界的に知られる人物となった。
2007年に70才で、ガンで亡くなったが、州政府による盛大な葬儀が行われた。
彼の業績を讃える寺院の建設されるようだし、現在は彼の自伝的な映画の撮影が進んでいる。

しかし・・
この道によって、彼は政府から、どんな支援も、金銭も得られなかった。
地方政府は、彼に5エーカーの土地を与える約束をした。彼はそこに学校をつくるつもりだったが、その土地は牧草地として使っているという異議が村人たちから申し立てられ、実行されていない。
また、州政府は、彼の村からWazirganjに通じる道をつくると約束した。
この約束には、森林局が許可を与えていない。その理由は、彼が無断で山を切り開いたからだ、という。
さらに、Padma Bhushanという勲章が政府から与えられたのだが、それも「彼が単独で切り開いたのではない」という異議によって、取り消されたという。


さて、この話には、まだ先がある。
彼のひとり息子は障がい者だ。義理の娘も障がい者だ。
彼の子供や孫たちは、小さな仮設の家で、貧しいままに暮らしている。
そして、たくさんの人たちが、彼の話を聴かせてくれといってやってくるが、自分たちの生活はちっとも良くならない、と涙ながらに語っている。
どういう理由があるのか、どんな心境で、彼がその子孫たちを極貧のままにとめおいたのか、僕にはわからない。
だが、彼は大勢のひとたちにとっては「なにものか」ではあるかもしれないけれど、彼らにとっては、ただの何もしてくれなかった父に過ぎないのだった。


彼がもし生きていたら、抱えきれないほどの質問をしてみたい。
でも、きっと、彼が成し遂げたことにも、州政府やインドの人々が彼にした良いこともひどいことも、残された子どもたちの声も、彼はすべて笑い飛ばして言うんじゃないかと思う。
「村の人たちが、あの道のおかげで、ほんのすこしでも、生活が楽になったんだから、いいんじゃない?」と。
そして、わかっているのだ。
彼の前には、「なにものかになる」などという言葉は、恥ずかしくて、持ち出すことすらできないであろうことも。


(いくつかのソース  )
photo by h.koppdelaney