ポジティブにやる? ネガティブに考える?
ポジティブか、ネガティブか。
最近、なんだか、この言葉を頭のなかで転がすことが多くなった。
僕は自分でポジティブな面の強い人間だと思っていたが、案外、そうでもないことに気がついた。
原発や日銀の異次元緩和や東京オリンピックの成り行きを見ていると、世の中は僕より何倍もポジティブな考え方をするひとたちが引っ張っているのだな、と驚いた。
フェイスブックをのぞいてみると、ポジティブな言葉が並んでいる。
とくに、僕も含めて、小規模事業主やフリーランサーの、◯◯を達成した!とか、◯◯に感謝!とか、有名人の箴言が並び、ちょっとうんざりすることがある。
フェイスブックは、広告の面もあるから、それもやむ終えない。
一方、匿名のブログには、批判・怨嗟・失望のネガティブな言葉が並ぶ。
そちらは臓腑に染みて、切り裂かれるような思いをすることもある。
こちらの方に、世界の、人間社会の真実があることは、間違いがない。
問題をえぐりだしたり、批判したりというネガティブな思考ばかりを続けていると、それがまとわりついて、人間は幸せになることができなくなるという。
問題ばかりみつめているから、たいていのことはうまく行かないと思ってしまい、それに基づいて自分の意見を決め、行動してしまうからだ。
いっぽう、ポジティブな思考を続けていると、楽観的な結果を予測して、行動も起こしやすいし、ポジティブな仲間を引き寄せて、良い結果に至ることが多い、という。
しかし、もちろん、そんなポジティブな思考は、現実を直視しないからできるもので、いわば、「おバカさん」なんだ、という見方をするひともいる。
そういえば、評論家と政治家(もしくはビジネスリーダー)のディベートなどを聞いていると、論理的には評論家が勝っていると思うことが多い。
なるべくポジティブでいよう。
ネガティブな考えに染まらないように、距離をおこうという考え方は、「自分が幸せになる」ためには、とても良い方法であることは間違いない。
そして、社会を中枢で動かしているのは、そういうポジティブな考え方のひとたちであることも間違いなく、社会になにか良いインパクトを与えることを「実行」する側に回りたければ、ポジティブでいることは必須のように思える。
常に、社会に批判的な考えを表明し続けるのは大変だ。
知らぬ間にネガティブ思考の病におかされて、個人の幸せまで台無しにしてしまうリスクがある。
だけど、いつも誰かがその役を引受なければならない。
いくらポジティブが習性の僕でも、いつでも社会がそれほどに問題に満ちていることはわかる。
だから、それを知っていて、あえてそれを引き受けて、なおかつ、ネガティブ思考を自分の芯からは排除して、幸せに生きるすべを持っているひとたちに、僕は、畏敬の念をもっているのだ。
それにしても、思うのだ。
僕はジャーナリストには向いていない。
批判的な思考が圧倒的に不足しがちだ。
それはわかっていたが、かといって、ポジティブであるレベルも、世の中枢にいるひとたちに比べると、ずっと、劣っているのだなと。
ポジティブか、ネガティブか。
考えはつきない・・
photo by h.koppdelaney