ICHIROYAのブログ

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「意識の高い系」のカナダ青年の1億円チャレンジが話題に!

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 「意識が高い」、「意識が低い」っていう言葉をご存知だろうか。
若い人たちには馴染みの言葉だけど、オヤジ、オバンには、何のことかわからないだろう。

たとえば、「意識が高い学生」というのは、「学生生活を本人なりに実りあるものにしようと頑張っているが、周りから見ると痛々しくなってしまう学生の言動を揶揄した言葉」(はてなキーワードより)である。
そういった若者たちは、人脈作り、勉強会、セミナーなどに多数出席し、自己啓発本を読みまくって、起業を夢見て、「世界を変える」などと大言壮語し、そういった思いや毎日を、SNSにアップしていく。

そういった人たちを揶揄する言葉として、「意識が高い系」というセリフが頻繁に使われる。
たとえば、こんな風に書かれたりする。

まあ、しかし、僕は、大いに結構なことだと思っている。
意識が高かろうが、低かろうが、やがて、社会に有益な人は必ず飛び抜けてくるし、そうでない人は、いつか社会の中での自分の役割に気がつくことになる。
それはそれでいいんだけれど、「意識が高い系」を揶揄するあまり、若者らしい理想、純粋な目的意識や夢までもを、唾棄すべきとするような雰囲気、「意識が低い」ことこそを、理想とするような雰囲気が醸成されつつあるようで、ちょっと、どうだかな、と思う。

起業して、世界を変える! 結構じゃないか。
インドへ行って、ソーシャルビジネスを興し、貧困を撲滅する! 素晴らしいじゃないか。
ぜひ、やってくれ。
実際に、そういう行為に飛び込んでいる若者たちも存在する。
成功しようと、失敗しようと、実行に移した時点で、「意識の高い系」という看板は、下ろす必要があるのだけど。

そもそも、みんな混同している。
「意識が高い」のか「意識が低い」のか、というより、人生の目的が、「ある」のか「ない」のか。
「ある」とすれば、「徹頭徹尾、自分が豊かになり、たくさんを所有して、かつ、名誉も得る」ことなのか、「社会を良くしたい、誰かを幸せにしたい」からなのか、ということだ。

普通に考えれば、マズローの自己実現理論にもあるように、人間は、「カネが欲しい、いい車が欲しい、いいオンナが欲しい、ラクがしたい・・・」という欲求に支配されていて当然だ。
しかし、そういった生理的な欲求、安全の欲求という低位の欲求が満たされてくると、承認(尊重)や自己実現の欲求が生まれてくる。
成功した起業家の多くは、下位の欲求は満たしてしまったので、マスコミなどに語る言葉は、上位の欲求に関することになる。
「意識の高い系」と言われる人たちが胡散臭いと思えるのは、主にこの点で、そういった成功したスターたちと同じような内容を語りたがるので、「あなたは本当に、利己的な欲求よりも、世界を良くしたいと思っているの?」と問いたくなることだと思う。
利己的な欲求をおいて、世界を良くしたいのであれば、万にひとつも成功しない起業という道よりも、もっと、地道な道がたくさんあるでしょう、ってわけだ。


だけど、これも、あくまで一般論であって、世の中には、凄い人たちがいるもので、医者になって貧困地区に自ら入り浮浪者の健康に人生を捧げる人もいれば、インドに渡って、インドの人たちよりもインドのことを考えて事業を行なっている人もいる。
「意識が高い・低い」というレッテルと同様に、マズローの欲求の理論では測れない人たちもいるということは、肝に命じておいたほうが良い。


ところで、トップの写真。
日本でなら、「意識の高い系の典型!」と言われかねない青年のトライアルがカナダで話題になっている。
彼の両親は、アメリカで炭鉱関係の仕事をしていた。炭鉱が閉山になり、一家でカナダに移住。やがて、母親は、酒浸りの父親と離婚。女でひとつで、3つの仕事をかけもちし、彼と彼の兄弟のふたりを育て上げた。
彼は俳優になりたかったけど、大学に進むのは、そんな家計の事情もあり断念。訪問販売の仕事を始める。
そして、去年、「母親をリタイアさせるために、2年以内に、1億円(100万ドル)を稼ぐプロジェクト」を開始した。
たった2年で、1億円。徒手空拳の若者が、とうてい、不可能と思える目標だ。
どうすれば、1億円も稼げるのか。

自分の雇用主でもありメンターでもある社長に話を聞きに行き、読むべき本を教えてもらったり、力になってくれそうな社長さんを紹介してもらう。
そして、そのとんでもない目標と、そのほかに紹介してもらった億万長者へのインタビューや、日々の悪戦苦闘の過程を、Twitterフェイスブック、ブログで公開していった。
彼のこのプロジェクトはまたたく間に有名になり、現在、彼のフェイスブックページのいいねは、16,262、Twitterのフォロアーは、21,554になっている。
彼は自分で勉強して、いくつかのアプリをリリース(共同経営のようだ)、また、ebookの販売もおこない、1年半で、800万(8万ドル)程度稼いだようだ。
残る半年で、9000万円は、正直厳しそうだけど、諦めてはいない。
現在、彼のこのプロジェクトをドキュメンタリー映画「Millionaire By 25」にするための資金をindiegogoで募っている
この映画が、若い人々をインスパイアするものになる - 野心的な目標を設定してトライすることがどんな素晴らしいことなのかを伝えうる、と確信している。
彼の思惑どおり、この映画の計画が大評判をとれば、とてもおもしろい。


ここまで来た、彼のことを、誰も、「意識の高い系」と揶揄することはないであろう。
仮に、その目標が未達に終わっても、すでに彼は、アタマひとつ衆を抜けており、そのチャレンジ精神が続く限り、成功は約束されているように思える。
しかし、2年以上前の彼は、たしかに、何もできない、「意識の高い系」の青年だったろう。

だけど、目標を地に足の着いたもの、「2年以内に、母のために1億円」という「意識の低い」目標に設定して、行動に移すことで、彼は、「何者」かになれたのだ、と思う。

結局のところ、意識が高かろうが、低かろうが、ココロザシが高かろうが、低かろうが、なにをやったか、なにをやろうとしているか、だけが問題なのだ。