『すし、うなぎ、てんぷら ~林 修が語る食の美学』を読んだ
「いつやるか? 今でしょ!」で有名な林修先生には、勝手に強い親近感を抱いている。
林先生のプロフィールはよく知られているように、東京大学法学部を卒業後、日本長期信用銀行に入社するも「この会社はもうすぐつぶれる」と感じ半年で退職、その後の3年間、様々な商売を始めるがことごとく失敗し、予備校講師に転身。20年以上にわたる実績を積み重ねたのち、「いつやるか?今でしょ!」のCMでブレイク。
林先生は書いている。
僕は、好きなこと、やりたいことを仕事として選ぶという感覚は皆無です。20年以上やってきた予備校教師という仕事だって、(大)嫌いな仕事ですが、(誰よりも)できるという自負のもとに続けてきた。 ー 『林修の仕事言論 壁を破る37の方法』
その分野が自分に適性があり、勝てる場所だと認識し、その技術やサービスに対して払われるお金に責任をとる。責任をとることに対してプライドを保てる。それが、僕の考えるプロフェッショナルであり、僕の「仕事観」です。ー 『林修の仕事言論 壁を破る37の方法』
まったく、同感である。
僕は自分の今の仕事、中古着物の販売という仕事を、「大嫌いな仕事」とは言わないが、少なくとも「大好きな仕事」だから選んだわけではなく、たまたまそこにたどり着いたので、自分たちの提供するサービスが良いものでありたい、価値のあるものでありたい、世界のファンに届けたいという思いで、毎日仕事を向き合っており、もちろん、そこに大きなプライドをもっている。
そんな林先生が食をテーマとする本を出版された。『すし、うなぎ、てんぷら ~林 修が語る食の美学』である。
林先生が3人の店主にその料理と店の奥義をたずねていく。
その話は、微に入り細を穿つ。
『林修の仕事言論 壁を破る37の方法』に、「自分には同じように見える。言い換えれば同じカテゴリーに入れているものを相手が細分化している場合には注意が必要です。そこには、相手が大切にしているものがある可能性が大きいからです」という文章が出てくるが、まさにこの文章の通り、林先生はなぜそこまでという細部にまで質問を重ね、職人さんたちから最深部の話を引き出している。
この本では、林先生は狂言回しに徹し、職人さんたちが語るディテールをこれでもかこれでもかというように積み上げていく。
それは、まったく、僕の知らない世界だ。
まったく、僕の味わえない世界だ。
そこには、僕の尊敬する元上司が語った世界がある。
その世界とは、「そこまでやるかと、言われて、普通」である世界だ。
そこまでやるかと言われるほど、気配りをして、ディテールにこだわって、はじめて出発点に立てる、という世界だ。
林先生がなぜそれほどまでに深くディテールに踏み込んでいけたのかというと、林先生自身が食べることがほんとうに大好きだからだ。
九州の好きな店に食べに行きたいから、わざわざ九州での仕事を増やしたり、事務所に九州への転居を願い出てみたりするほど、食べることが好きだからだ。
大好きだからどんどん深みにはまっていき、それをその素材のまま投げ出したというようなライブ感がこの本にはある。
そして、そうやって浮き彫りになっているのは、林先生も書いておられるように、結局は料理や店ではなく「人」そのものなのである。
また、ここで紹介されている3店のうち2店は、その店主がまだ修行時代から、林先生が見守ってきた方々である。
僕は、梶原君が、そして中川君も、師匠のもとで修行し、その後独立して自分の店を構えるようになるのをずっと見てきた。彼らの仕事の冴えを見て、自分も頑張らねばと、勝手に心の「添え木」にもしてきたのだ。
料理の向こうにいる、志ある「人」。
そして、志のある「人」たちの、つながりの素晴らしさこそを、痛感させられるのである。
ちなみに、僕は舌にまるっきり自信がない。
だから、林先生のおっしゃるように、料理人たちが人生をかけて作った店とその料理を、真剣で受け止めるようなやり方で味わうことはできない。
たとえば、僕はプロフェッショナルとして、ある時代のある種の着物については、その素晴らしさを見誤ることはない。ぱっと見ただけで、優品のオーラは僕に突き刺さってくる。何十年という時を超えて、それをつくった職人さんの魂が、まるで僕に話かけているようだ。
そのオーラは、その時代の着物をよく知っている人にしか見えない。
そのことと同じく、悲しいかな、僕には、食の職人さんたちが発する本物のオーラが見えない。
僕は、料理や食に、ほとんど無関心で過ごしてきた人生を、またまた、後悔した。
舌に自信はなくても、林先生が紹介してくださったような職人さんの料理を味わう資格はあるのだろうか・・・
ああ、うまい鮨が無性に食いたくなった!