日曜日、いつも通っていた散髪屋さん「ジェイムス*1」に電話をして予約を入れようとしたら、「おかけになった電話番号はお客様の都合により電話を取り外してあります。連絡先は☓☓☓☓☓ ・・・・」
驚いてその番号を書き留め、かけ直す。
「理容◯◯です」
「ジェイムスさんじゃないんですか?」
「あの・・」戸惑った女性の声「経営者と変わります」
そして電話に出てきたのは年配の男性。
「ジェイムスは、職人さんが辞めてしまって、年末に閉めたんです」
「え!で、そちらさんは?」
「本店です」
僕はほんとうにびっくりしてしまった。
ジェイムスはとても流行っていて、いつも予約を入れてから行かないと、待ち時間が長くなってしまう。
巷の飲食店や美容院の入れ替わりが早いのはわかっているが、ジェイムスがなくなってしまうなんて、一瞬でも考えたことはなかった。
いったい、いつからジェイムスにかよっているのだろう。
南大阪のこの地域に住んですでに30年弱になる。最初に住んでいたのは駅のそばのエレベーターのな公団住宅で、近くにあった散髪屋さんに通っていた。たしか、数年後には、駅から多少離れた場所へ1回めの転居をしたはずだ。
散髪屋さんの記憶はその店とジェイムスしかないから、1回目の転居をしたころから、ずっとジェイムスに通ったことになる。
おそらく20数年、短く見積もっても、20年以上は通ったことになる。
ジェイムスは静かな店だった。
電話に出てくれた経営者が「職人」と呼んだ人、僕がてっきり自営業の店主だと思っていた人は、とても寡黙な人だった。
散髪屋のジョーのように、気の利いたジョークを言うでも、僕の話を聞いてくれるわけではなく、ひとこと、「いつものように短くしますか?」で終わり。
あとは何も話さない。黙々とカットしてくれる。
店には有線だかなにかから、インスツルメント音楽だけが流れる。
僕はとても贅沢な気分になり目をつむって夢想にひたる。
ときどき、あまりの気持ちよさに眠り込んでしまい、頭をそっとまっすぐに直されて目覚める。
散髪が終わると、コーヒーを出してくれる。
ロイヤルコペンハーゲンのイヤープレートが飾られた窓際のテーブルに移動して、車の雑誌を見ながらさらにゆったりとした時間を過ごす。(上の写真)
20年以上、僕はそうやってジェイムスでの贅沢な時間を過ごさせてもらってきたのだ。
僕だけではない。
認知症の妻のお父さんを散髪に連れて行くのはいつもジェームスで、妻がその気配り、対応にいつも感謝していた。
なのに、突然、ジェームスはこの世界から掻き消えてしまった。
そして、僕は、思い知った。
ジェームスの店主と思い込んでいたその男性のことを、何にも知らなかったことを。
どこに住み、どこの出身で、結婚しているのか、子供はいるのか。
そもそも、彼はなんという名前なのか。
20年以上も、必要な時には必ず迎え入れてくれて、最高のサービスを提供してくれた。
彼はまるで空気みたいに、あたりまえに存在していたから、僕は名前すら訊ねたことがなかった。
彼の名は、僕にとっては、ジェームスだった。
僕はやむなく別の散髪屋さんに行った。
入ってみたわかったのだが、そこは散髪屋さんではなく、美容院で、中年の女性客が大きな声でスタッフと話をしているような店だった。
晩御飯を食べながら、僕はまた、ジェームスのことを考えた。
彼は20年以上、従業員としてあの散髪屋を任されてきたのだ。ちょうど、僕が18年会社勤めをしたように。
そして、おそらく、40才を超えて、色々と考えることがあったのだろう。
どこかの店に転職したのか、どこか遠いふるさとの町で、20年貯めた資金をもとに開業したのか・・・・
せめて、一言、教えてくれてもよかったじゃないか、僕はジェームスのことを少し恨んだ。
僕だって自分のことは何も喋らなかったけど、あんまりだ。
ジェームスの元雇用主から、彼のその後の身の振り方を聞くことはできなかった。
だけど、ひょっとしたら、彼は近辺で店を開業したかもしれず、元雇用主は店舗のシャッターに、新しい店の貼り紙を貼ることぐらいは許しているかもしれない。
一縷の望みが、だんだん僕の中で大きくなって、きっと、ジェームスはその行き先の手がかりを残しているはず、と思えてきた。
僕は夕食後、妻に、ジェームスの店をもう一度見てくると言って、車に乗り込んだ。
ジェームスの店はシャッターが降ろされており、窓の上に貼られた店名のロゴが剥がされて、「ジェームス」の文字が薄っすらと読めた。
そして、たしかに貼り紙がしてあった。
しかし、その貼り紙に記してあったのは、「理髪技術者の確保が困難になったため休業します」ということと、本店の案内のみであった。
もう、ジェームスとは会えることはないだろう。
伝えたいことを伝えるすべもない。
さようなら、ジェームス。
そして、ありがとう。
*1:似た名前ですが、店名変えてあります