僕にできることはなにもなかった
予定より早く事務所を出てしまったおかげで、お昼にすこし時間があった。
ゆっくりと車を走らせながら、食べる店を探した。
そのとき、ちょうど、Twitterで見つけた言葉が心にひっかかっていて、それを口に出して呟いてみた。
Success is getting what you want, happiness is wanting what you get.
「成功とは、あなたが望むものを手に入れることだ。幸せとは、あなたがもっているものこそを欲しい状態にあることだ」
直訳するとそういう意味になるかと思う。
つまり、もっているもので満足することを覚えよ、という単純なことなのかなと思える。
でも、なんだか、このシンプルで力強い言葉には、もう少し深い意味がありそうだなとも感じた。
そこで、誰がその言葉をどんな状況で述べたのかが知りたくなった。
この言葉で数えきれないくらいのページがヒットして、その引用元は、『道は開ける』などの著書で有名なデール・カーネギーとするものと、映画『フィールド・オブ・ドリームス』の原作『シューレス・ジョー』を代表作とするW. P. Kinsellaのものとするものがあった。
少し時間をかけてみたが、どちらがほんとうかはわからない。
Kinsellaという作家はWikiによるとかなり遅咲きで、本格的に文学を志したのは30代半ばに大学で学びなおしてからで、芽が出る前には、事務員、マネージャー、ピザショップの経営やタクシー運転手など、さまざまな仕事をした。
作家として開花してのち、交通事故にあって頭部を強打し、小説が書けなくなった。また、出版状況が厳しくなり、彼のような中堅作家の作品を出版しようという会社がどんどんなくなってしまったということも、彼の14年にわたる作家としての沈黙の原因のひとつだった。2011年になってようやく新作を出版している。
結局、カレーのチェーン店に入ることにした。昼時で店は混んでいた。
僕はカウンターに座って、メニューを手にして、シンプルなものを探した。
水を持ってきてくれたのは、40才前後の男性の方だった。
慣れていないのか、水を置く動作すらぎこちない。注文を何度も心のなかで反芻するかのように受け取って、彼はレジの方向に帰っていった。
大変そうだけど、懸命になっているその姿に、僕は好感をもった。
カレーが来るのを待つ間、この言葉、Kinsellaさんが事故のあとに言った言葉だったらいいのにな、と僕はぼんやり考えていた。僕はカーネギーさんの大ファンのひとりだが、彼がこの言葉を言っても驚かないし、そもそも、大きな成功を手にしている人が、「もっているもので満足せよ」と言っても、どこか白々しいではないか。
「早くお皿出してよ!」目の前のカウンターの中にいる女性スタッフがきつい声を出している「違うでしょ、そっちは。棚の右にあるほう!」
その叱責はさっき僕に注文をとりにきた中年の男性に投げつけられたものだった。
男性はオロオロしながら、はい、はい!と言って皿を抜こうとしている。
その男性の横には若い男性がいて、店内を見回していた。どうやら、その若い男性が店長か、もしくは、その時間の責任者のようだった。
彼は中年の男性がオロオロするところを助けるでもなく、ちらっと中年男性を見て、ニヤリとした。
やがてカレーがきて、僕はカウンターのなかで行われていることを、まじまじと見ながら、それを食べた。
どういう理由があるのかわからないが、その中年男性はこの店に来たばかりで、レストランで働くのもまったくはじめての経験のようだった。
数人いる若い男女のスタッフは、みんなが一様に彼を見放していた。懸命にみんなのチカラになろうと汗をかいている彼を、おしつけられた邪魔なお荷物みたいに扱っていた。
僕にできることはなにもなかった。
その時のカレーは、一生で一番ひどい味がした。
支払いをすませて彼の方を見たら、彼と目が合ったような気がした。
その目が苦笑しているような気がしたが、彼が僕の心のうちを見通していたのかどうかわからない。
僕はなにもできず店を出た。
そして、心にひっかかっていた有名な箴言が、誰のものなのか考えるのはやめることにした。
* photo by Ichiro (iphone6)