ダメダメ爆烈の履歴書
「水産やったのに、なんで呉服屋さんやってんの?」
フェイスブックで交流が復活した高校時代の知人のストレートな質問。
はいはい、人生はままならないものですよ、流れ流れて、いまここにおります。
おおかたのかたには、おもしろくないかもしれませんが、ちょっと、僕のプロフィールを紹介します。
- 昭和34年 大阪府豊中市に生まれる。「なんでも一番が良い」という理由で「一郎」と名づけられる
- 昭和39年 幼稚園でストーブで焼けたスコップを手に押しつけられ、人生の厳しさを学ぶ
- 昭和44年 深い事情がありプロ野球選手の夢をあきらめる
- 昭和46年 中学入学。卓球部に入部。当時、家に手作りの卓球台があり、入部直後は強かったものの、2年目にはほとんど勝てなくなり退部。また、泳げず、夏のプールの時間を何よりも恐れる
- 昭和48年 夜中、母の枕元に座って、ギタリストになるので、受験勉強はもうしない、と駄々をこねる
- 昭和49年 大阪府立豊中高校入学。柔道部に所属。部員6人で、団体戦5人。唯一の補欠に選ばれる。昇段試験にいったら、3人続けて、小さな中学生が相手で、一発合格、初段となる。その後、中学生を相手にもとめるもかなわず、二段取得は断念。
- 昭和50年 アレルギー性鼻炎がひどく、毎日垂れ流てくる鼻水に絶望。学校を休むと言って、母に叱咤される。休み時間ごとに、トイレに行き、薬を鼻に突っ込んでしゅぽしゅぽ。コカイン吸ってたんじゃないんだぜい。
- 昭和52年 受験に失敗、留年。「夢は海洋牧場」と周囲に語る。
- 昭和53年 京都大学水産学科入学。長時間座り続けて受験勉強したために、痔になる。以降、大腸がん検診にたびたびひっかかり、「念のため」、肛門から内視鏡を入れないといけない体質になる。また、受験勉強の遅れを焦る悪夢に、生涯悩まされることに。
- 昭和54年 アイスホッケー部2回生。レギュラーに選ばれる。レギュラーとして必要な選手11人、2回生以上部員11人。
- 昭和57年 卒論はなんとか仕上げさせてもらうものの、体育と英語とドイツ語の単位が不足していることがあきらかになる。留年。
- 昭和58年 小説家を志す。小説家になるまでの腰掛けとしての就職先をさがす。女の子がたくさんいそうだったので、百貨店の大丸さんを受けたら内定をいただく。嘘をつくのがうまくなる。
- 昭和58年春 鍋売場配属。店頭のビタクラフトの鍋を磨きながら、エプロン売場のエプロン姿の女性と恋に落ちる
- 昭和59年春 10か月の長い交際期間を温めたのち、結婚。職場は、バストイレ用品売場に配転。ピエール・カルダンのトイレマットとか、トイレブラシのデザイン、品質に詳しくなる。
- 昭和61年 長女祥子誕生。2週間の休暇を取得し、長女を抱いた嫁を残してインドへひとり旅。人生を探しに行って、値切り過ぎたのか、カルカッタでカセット売りの少年から石を投げられる。
- 昭和63年 次女麦誕生。何も書けず、会社でも、一分一秒でも早く帰って、机に向かいたいダメダメ社員。釣りにはまる。頭の中は釣り、釣り、釣り。
- 平成4年 和食器売場マネージャー職を拝受。ここには書けないほどのダメダメぶりが爆烈。営業時間後、非常灯だけがぼんやりと光る売場で部下の女性に叱られ、彼女の前で、文字通り、泣く。
と、ここまで書いて、さすがに、あまりのダメぶりに書き続ける気力がなくなってきました。まだ、肝心の、大丸さんからの転身のところに辿りつけていませんね。この後の流れは、また、気が向いたら書きます。
ま、ともかく、人生はままなりません。
人生は、すべからく運。
運も実力のうち、なんて騙されてはいけません。
才能も、実力も、努力できる環境も、強い意思をもって生まれるのも、すべて運のうち。
気楽にいきましょうぜ!