僕らが死んであとに残すべきものは「モノガタリ」なのか
いつかは死んでいく僕らは何を残すべきなんだろう。
そもそも、「何かを残したい」という思いは、贅沢なんだろうか。
親しい人たちの中に思い出として生き、そのひとたちが死ぬときに、僕らの生きた痕跡も、この世からなくなる。
そして、僕らの存在は、文字通り消える。
何をやっても、どれだけ苦しんでも、どれほど楽しくても。
僕は商売人だ。
商売人の残すべきは、カネ、事業、人、のれん、お客様であろう。
かと言って、カネは言うまでもなく、事業を残したところで、変化の早い現代においては、事業の存続にどれほどの期待がもてるか怪しくなった。
最高の状態で事業を残すことがベストではあるけれど、それをしたとしても、やがて移ろいすべてが失われていくことは必定だ。
思想家なら、芸術家なら、研究者なら、優れた仕事は、長い期間生きる。
では、優れたクリエイターでない僕らは、何を残すべきなんだろう?
何ものでもない僕らは、いったい、何かを残すことができるのだろうか?
昨日読んだ記事、「When An Ordinary Pencil Makes You Reevaluate Life, Extraordinary Things Happen」(ありふれた鉛筆が人生を変えたとき、とんでもなく素晴らしいことが起きた)のなかに、こんな言葉があり、胸に刺さった。(以下引用)
All your material possessions will one day go away.What you leave behind is a legacy. Your story.
すべての物質的な所有物は、いつか君のもとを去る。君が後に残せるもの、本当の遺産とは、君のモノガタリなのだ
この言葉は、アダム・ブラウンさんという若い方のもので、彼は、開発途上国に教育を提供する「Penciles of Promise」というNGOの創始者である。
金融関係のエリートコースを歩き巨万の富を築くことすら可能だった彼は、その道を選ばず、開発途上国を旅している時に出会った子供の一言に、自分の人生の方向を決定づけられた。
2005年、インドの路上で貧しい子供に、「世界中にあるもののなかで、一番欲しいものは何?(What do you want most in the world?)」と訊ねたところ、返ってきた答えが、「鉛筆!」であった。
彼は「Penciles of Promise(鉛筆の誓い)」をわずか25ドルで立ち上げ、6大陸の何百もの小さな村を訪ね、何千本もの鉛筆を子供たちに届けた。(以上上記の記事より)
そして、すでに、200以上の学校をつくり、何百人(2009年に182人)の先生の教育トレーニングを行い、何千人(2009年に834人)もの学生に奨学金を提供している。(以上PoPサイトより)
そうなのだ。
「モノガタリ」ならば、偉大なクリエイターとしての才能はなくても、誰にでもつくることができるし、残すことができるかもしれないのだ。
「モノガタリ」は、いわゆる「名を残す」の「名」、「名誉」ともちょっと違う。
「名誉」は、何かとてつもないことを成し遂げた人だけが手にできるものだ。
しかし、「モノガタリ」は、社会的な名誉や達成とは無縁な場所で紡ぐことだってできる。
ひとつの仮説に一生を捧げた研究者が、その生涯の最後に、その仮説は誤りであったとわかったとすると、彼の人生に社会的な「名誉」は無縁であろう。
だが、ひとつの選択肢を消去したということで、彼の人生には大きな意義があったし、その人生は「モノガタリ」として語り継がれる可能性はある。それが徹底的に真摯で求道的で、苦悩と不安に暗く彩られていたのなら、なおさらである。
そして、僕らは、「モノガタリ」が残りやすい時代に生きているのだ。
もちろん、それはインターネットやブログが可能にしたことだ。
どれほど世の中が嘘と演出にまみれていようと、たしかに、ホンモノの「モノガタリ」はやはり存在するし、それは砂漠の上に置かれた小石のように、僕らの眼を捉えずにはおかないのだ。
ロマンチック過ぎるだろうか。
しかし、何者でもない僕らに残せるものは、「モノガタリ」以外に、いったいなにがあるというのだろう?