ICHIROYAのブログ

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短編小説8 『老紳士のひとり旅』

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 奇妙な雰囲気の人がいるなと気づいたのは、西表島のホテル、ニラカナイのジャングルブックカフェという施設に入った時のことであった。
 そこはホテルのすぐそばまで迫っているジャングルの中に作られたオープンなカフェ空間で、鉄にビニールを張ったロッキングチェアが置かれ、本棚にはブルータスのボタニカル特集号とか、『日本名詩百選』とか、『西表島の生物図鑑』などという本が、透明なビニールカバーをかけて置いてあった。
 飲み物はセルフサービスで、コーヒーマシンが置いてあり、ホテル宿泊者向けの無人、無料の施設である。
 デイゴの花の艶かしさ、恐竜時代を彷彿させる椰子の新芽の不思議さ、名前も知らぬ樹木の葉の大きさのアンバランスに、僕も妻も興奮していた。
 一瞬、誰もいないと思ったのだが、そのメインの場所から一段下がったところにあるロッキングチェアに、ひとりの白髪の老紳士が座っていた。
 藍色一色で染められた地味なアロハを着て僕らに背を向けていたが、その背中には人とのかかわりを拒絶するような孤独感が漂っていた。
 だがコーヒーメーカーをセットしながらその紳士のテーブルをなんとなく見ると、テーブルにはカップがふたつおいてあり、誰かと一緒に、その熱帯雨林の豊穣さを味わっているかのように見えた。
――― きっと、後から、お連れさんが来るのだろう。
 僕と妻は目配せして、ふたりきりでないことをちょっと残念だねと言い、椅子に腰を降ろして、ジャングルの濃密さを存分に楽しんだ。
「子どもが孫を連れて帰ってくるにしても、今の部屋数はいらないよね。一室を温室にリフォームして、サボテンとか熱帯の植物を育て、家の中に不思議空間をつくろうか」
「それもいいわね」 
 六十才という年齢が近づいていくると、手の届く範囲のたいていの楽しみは試してしまって、わくわくするものが減ってくる。やったことがなくてもなんとなく想像がついて、すり減ってきた好奇心はよほどのものでない限り息を吹き返しはしない。
 だが、熱帯雨林のもつエネルギーが、きっと僕らの心のどこかに眠っていた好奇の種に火をつけたのだろう。   
 そういえば、 かつて、多くのおじさんやおばさんたちは、僕らの年齢、心境になった時、盆栽や庭いじりに静かな楽しみを見出していたように思う。昔は、小さな家が細い路地のぎりぎりまで建てこめられた下町の家々でも、鉢を階段状に置く棚が家の前にあって、そこに小さな盆栽が並んでいたものであった。
 子供だった僕にはわからなかったが、たぶん、老境に足をつっこんだもの同士で、この枝ぶりは良いとか、この角度は残念だとか、品評をしあって楽しんでいたのではないかと思う。
 だけど、盆栽はいつの間にか、ダサい趣味の代表のようになり、僕の年代で「盆栽が趣味」という人をほとんど見かけることはない。ところが、ほかの日本のアートや工芸品などと同じく、日本で見向きもされなくなってから、盆栽は「BONSAI」として欧米で人気を博し、ハイブロウな趣味のひとつとしておおいに評価されているという。
 とはいえ、僕や妻が面白いねと思ったのは、松や桜の幹をくねらせる日本の伝統的な盆栽ではなく、ブルータスに紹介されていた、アフリカや中南米の風変わりな植物たちで、彼等を愛でる毎日は、きっと特別なアートと命の香りがするのではないかと想像したのである。
 サンテグジュペリの『星の王子様』に出てくるバオバブの樹や、アンデスの高地にしかないようなサボテンを、温室に改装した部屋で育てる。休みの日には、彼らが息をする温室にいっしょにこもって、モーニングコーヒーを飲む。ジャングルブックカフェに毎日来ることはできないけれど、家にそういう温室を作れば、死ぬまで楽しめるかもしれない。
 細かな趣味の相違はあるかもしれないが、どうやら、ふたりの意見は一致をみたようだ。僕らはそれを懸案事項、これからのふたりの共通の楽しみの候補のひとつとしてとりあえずキープすることにして、ジャングルブックカフェを後にした。
 その時、あの老紳士はまだその場に座っていた。
「あの人、ずっと待たされてるわね」
 妻が小声でそういうので、喧嘩でもしたのかもと、僕も小声で答えた。

 西表島への旅は、ほとんど事前の情報収集なしに、妻に切符の手配を任せてやってきた。
 たまたま、僕は自転車で転倒して右こめかみに大きな傷をつくり、まだ治療中であったので、サンゴ礁の海に囲まれていても、シュノーケリングなどで豊穣の海を楽しむことはできない。
 となると、カヌーでマングローブの中を探検するか、ジャングルの中を歩いて植物をみたり鳥の鳴き声を聴いたりするほかすることはない。
 だが、水中に潜らなくても、熱帯雨林のジャングルに生きる生物たちは、普段目にするものとはまったく異なっており、見るものすべてが新鮮である。
 ヒルギという汽水域に生えるマングローブ林の代表的な木の生態ひとつとっても、驚異に満ちている。木になった種から、落ちる前に芽が出て伸びる。ペンのように十分伸びた芽は切り離されて落ちる時、大地に刺されとばかりに真っ直ぐに落ち、砂地に刺さったり、浅い海底に先を触れさせて水中で上を向く。根っこは、一本の木から何本も水中に伸びて海底に達して、まるで根本はせり上がったメッシュの塊のようになっている。しかも、新しい根っこは上部から伸びてきて、海面に向かって垂れ、あろうことか、そのまま海底について根になるのである。葉っぱの中には黄色いものが一定量混じっているが、それは、枝の最初の一枚に海水から吸収した塩分を集中させて、ほかの葉にいかないようにするためらしく、そうやって人身御供にされた一枚の葉は、塩分まみれになって早々に落とされてしまうのである。
 ホテルから海岸に出て歩けば、見渡すかぎりの三日月状のなだらかな海岸線には、数人の人しかみつけることができない。サンダルの下の砂はあくまで細かくさらさらで、砂浜に落ちているものは、流木か植物の種と少しの貝殻や魚の死骸のみで、人工物はほぼ皆無である。
 これほど手付かずで美しい砂浜がホテルのすぐ前に残されていることに、僕らは心底驚いた。
 ところどころに、穴が開いている。掌でふさいでようやく足りるような大きなものから、誰かが傘の先を突き刺した跡のような小さなものまで様々で、その住人が砂をはじき出してつくった小山があったり、なにかが砂浜を這った跡が続いていたりする。それは蟹の穴らしく、たまたま外出中の小さな真っ白な蟹をみつけて追いかけると、彼らはとんでもない速さで穴に隠れたり、海に飛び込んで砂に潜ったりする。
 普段はふたりで小さな会社を忙しく経営している僕らにとって、それは最高の時間であった。
 が、同時に、老いの迫っている僕らにとって、それは限りの見えた時間の中での貴重な体験であることがわかっていた。
「どっちかが車椅子になれば、この浜に来て、散策することなんて、無理ね」
  妻が言った。
  たしかに。だからこそ、ジャングルブックカフェで出会った老紳士の孤独そうな姿が、ことさらに僕の目に、そして、おそらく妻の目にも焼きついたのであった。 

 その夜、ホテルのレストランでも、ふたたびその老紳士を見かけた。
 バイキング形式のメニューで、僕らが指定された席から少し離れた席に老紳士はいたが、僕らには背を向けており、顔は見えなかった。
 彼は僕と同じようにオリオンビールの瓶をとり、コップに入れてそれを飲んでいるようであった。小瓶の向こうにもうひとつコップが見えた。
「また、あの人・・・ひとりだね。誰か待ってるのかな」
 僕の視線を辿って、妻が紳士を見つめた。
「ほんとね、コップはふたつだわね」
「あれかな―――」僕は想像を膨らませた。
「あの人は相方と死に別れた。あの人は、妻の霊と一緒にこのホテルに来ているつもりになっている」
「まさか」
 妻は僕の想像に呆れた。
「そんなめんどくさいことをする、感傷的な人なんて絶対いないわ」
「そうかな」
 結局その夜も、僕らが先に席を立ったため、老紳士の相方を見ることはなかった。
 僕にはその想像が妻が言うほど非現実的なものとは思えなかった。たぶん、男とは、そういう感傷的なことだってやりかねない人種なのである。

 翌日、まだ暗い早朝からサガリバナの群生地を訪れるツアーにでかけた時、僕らはまた彼の姿を見たのである。
 白み始めたマングローブの林の中をぬって流れる川をカヌーで行く。
 カヌーは一人用のものと二人用のものがあり、選ぶことができるのだが、僕は妻とふたりで二人用のカヌーに乗った。二人用のカヌーは一人用より大きく、一人ならわざわざより軽くて進みやすい一人用を選ばない理由はない。
  大気に舐められたかのような水面は、僕らのカヌーを受け入れて、その波紋で目覚める。まだ光の行き渡らないジャングルの奥から鳥の甲高い鳴き声がする。
 そして、甘い香りがどこからともなく漂ってきた。
  ほら、咲いてます、ガイドさんの指差す方向を見たら、クラゲのような艶かしい花がジャングルの樹の一角にいくつも垂れ下がっていた。カヌーを進めるに従って花は増え、いくつかの花は、水面をゆっくりと流れていった。
  やがて、ここが一番の群生地ですとガイドさんが言う場所に到着した。ちょうど夜が完全にあけて、サガリバナが一夜限りの命の花を落とす時間であった。あちらこちらで花が落ち、見る間に水面が花で覆われた。
  熱帯が見せる景色はとてつもなくエロチックであると思ってはいたが、その幻想的な光景は想像を遥かに超えていた。
  その時、周囲には別のガイドに連れられた何組かのツアー客がいた。
  その中に、僕はまた、たしかにその老紳士の姿を見たのである。
 その日、サガリバナツアーに出かけたツアー客は僕らだけではなく、川は色とりどりのカヌーでも彩られていて、ふと気がつくと、少し離れたところにカヌーに乗った彼がいて、ゆっくりと去っていくその背中が見えたのである。
 そして、やっぱり奇妙なことに、彼の乗ったカヌーは彼の座る位置からして、二人乗り用のようであった。
「あの人だ」
 サガリバナの幻想的な光景に我を忘れて見とれている妻の背中に注意を促した。
「ひとりで二人用のカヌーに乗ってる」
「そうね、あの人のようだけど・・・二人用かしらね」
「間違いないよ」
「そんなカヌーなんじゃないの」
 妻はサガリバナを見るのに忙しく、僕の奇妙な思いを共有してはくれなかった。
 が、やはり、彼は誰か空想の相手とともに旅行をしているのではないか、僕は確信をもってそう思った。

 明日は帰るという夜。到着からずっと雲に覆われていた空がやっと晴れ渡り、楽しみにしていた満天の星空が頭上に広がった、
 僕らは懐中電灯を手に浜に出て、砂浜に寝転がって空を見た。
  あまりに多い星。その星々が大小様々に瞬いていることで、夜空という宇宙空間に無限の奥行きがあることがわかる。星々に圧倒されていると、たしかに自分たちは、光を発することもない小さな小さなひとつ惑星の上にいるに過ぎないのだと納得する。
  背中には何万年もかけて砕かれた島の岩が微細な砂の粒子となって厚く敷き詰められている。
 そして、この長い浜のどこかでは、ウミガメが産卵のために今まさに這い上がってきているかもしれないのである。
 結婚して三十年。ふだんからそこにあるはずなのに、そんな星空を一緒に見上げたのは、その時が二回目のことであった。
 こんな星空をふたりで見ることができるのは、これが最後かもしれない。
 六〇才を間近にした僕らのこの先は、失うものばかりに違いない。
 友は去り、肉親は去り、訪れることのできない場所が増え、できないことが増えて、いつか僕らも去る。つまり、死ぬ。ふたりで飛行機事故にでも会わないかぎり、僕らも必ずどちらかが先に死ぬのである。

 部屋に戻って、星空の見納めにと思いベランダに出た。
 満点の星は変わらず、無限の奥行きをもって輝いている。眼下には照明に照らしだされた青いプールが見えた。
 そして、そのプールサイドのビーチチェアのひとつに、あの老紳士が座っているのが見えた。
 腕時計を見ると、すでに十一時を回っている。
 そんな時間に誰もいないプールサイドに座っているなんて、奇妙だ。しかも、彼の隣のチェアには、白いバスタオルがひいてあって、その椅子は誰かのためにキープされているように見えた。
 僕は妻を呼んで、プールサイドの紳士を指差した。
「やっぱり、あの人は、誰か、死に別れた人と一緒にいるんだよ」
 妻は彼をみつけると、少し驚き、言った。
「そうかもしれないわね」
「人並みはずれてロマンチックなのかな?」
「さあ、どうかしら。認知症で妄想がすすんでいるのかもしれないわね」
「そうかもしれないけど・・・でも、きっといま、あの人の中では、相方といっしょに星空を眺めているんだろうな」
 そして、僕は思った。
 いつか、そんな日が、旅行へ行くにしても、妻の思い出をお供にするしかない日が、確実にやってくるのだと。もし、それが僕に訪れないとしたら、妻にそういう日が訪れるのである。 
 その老紳士の姿は遠く、向きもあってはっきりと顔を確認することはできないが、どこか僕に似ているその老紳士の姿は、僕の脳裏に焼きついた。

 翌朝、僕らは早い時間にホテルを後にして港へ向かった。
 石垣島へ渡る高速船に乗る。高速船の客席は冷房がよく効いていて寒いほどだ。
「リラックスできたね」と妻が言う。
「また来たいね。何回か来ていたら、いつか、イリオモテヤマネコに会えるかな」
 何十年万年も前から、わずか百匹程度でこの島の食物連鎖の頂点に君臨してきたというイリオモテヤマネコの小さいけれど凛々しい姿に、僕も魅せられていた。もちろん、写真でしか見たことはない。その小さな王様は、ヒョウのような模様を持ち、イエネコとは違ってトラやライオンと同じく、いつも爪はむき出しのままなのである。
「旅行で来るぐらいじゃ無理でしょ。地元の人でも、何年かに一回、見れるかどうかなんだから」
「でも、見たいな・・・」
 僕の夢想はイリオモテヤマネコから、あの老紳士の元へと巡った。
「ねえ、あのお爺さん、なんだか、気の毒だったね」
「お爺さん? お爺さんって、誰?」
「ほら、いつもひとりでいて、誰かを待っているみたいな」
「えっ・・・『おばあさん』じゃないの?」
「『おじいさん』だったよ」
「ジャングルカフェで会ったり、レストランやプールサイドにいた人だよね」
「ああ」
「あの人なら、どう見てもおばあさんだったわ。ちょっと、私に似ていたかしらね」
「・・・僕には、僕に似た人のように見えていたんだけど」
 ふたりは驚きの顔を見合わせた。
 
 たいていの不思議な話と同様、僕らのこの体験談にも、明確な説明はできない。僕らがそれぞれ何を見たのか、実際に何があったのかを今から知ることはできない。
 だが、おそらく、僕らは僕らのそれぞれの未来、いつか来るがそれを信じたくない未来の姿を、その人に投影していたに違いない。
 そもそも、その人が存在していたのか、ふたりが同時に見た幻なのか、今となっては確かめる術はない。
 だが、僕らがさほど遠くないいつか、僕らの人生の旅路が、ひとり旅になることは、間違いのないことなのである。

 * * *

 アキちゃんの旦那さんのアツシさんから聞いた西表島のみやげ話は、おおむね以上のような内容であった。
 私たち夫婦は晩ごはんに招いてもらってホストのその話を聞かされて、とても不思議な気分になった。ただ、その幻想的な話は、下手に触ると壊れてしまいそうだったので、その夜は根掘り葉掘り聞くことはためらわれた。後日、電話でアキちゃんと話していて、その時の話が出た。
 アキちゃんは明るい声で言った。
「ああ、あの話ね。あの老紳士って、ただのスケベジジイなのよ」
「あれ? アキちゃんには、女性に見えたんでしょ?」
「嘘よ、嘘。お金持ちのジイさんだね、あれは。アツシは見てないけど、私は見たのよ。足と胸元をがっつり露出して、リゾート地のホテルには不似合いなしっかりと化粧した若い女と合流するところを。合流が遅れたのか、喧嘩して、くっついたり離れたりしてたせいなのか、知らないけど。たまたま、アツシが見た時は、いつもひとりだったのね。カヌーの時だって、おおかた、濡れるのが嫌だとか揺れるのが怖いとか言って、直前に乗るのをやめたんでしょうよ」
「そうなんだ。なら、なんで、旦那さんに、あんな嘘を?」
「だって、あんなもの見せられたら、嫌な感じになるでしょ。できるなら、ロマンチックな夢を見ていたほうがいいに決まってるわ」
「なんだ、アキちゃんらしいわ。結局、旦那さんが、アキちゃんに先立たれるのをいかに怖がっているかっていう話?」
「そうだよね」
 アキちゃんは少し笑ってしみじみと言った。
「でも、まあ、そんな甘ちゃんで感傷的なアツシだから、代わりがいないことは確かね。私もひとりで残されるのはゴメンだわ」
 私は合点した。
「つまり、話の大筋は、あの通りでいいってことなのね」
 電話の向こうでアキちゃんは、今度はたしかに大きな声をたてて笑っていた。
 

photo by BelindaTPE