人々は実際のところ、真にクリエイティブなものなど嫌いなのだ!
人々は実際のところ、真にクリエイティブなものなど嫌いなのだ、という記事を読んで非常に感銘を受けた。
Inside the Box People don’t actually like creativity.
記事を要約すると・・(以下 要約です)
ゴッホからスティーブ・ジョブスにいたるまで、ひとびとはクリエイティブなものを熱烈に求めており、人材募集には「クリエイティブであること」を求められ、また、自分がクリエィティブな考え方ができれば世界を変えることもできるし、富を得ることもできる、と考えている。
しかし、実際のところ、人が好きなのは、たまたま実を結んだクリエイティブなものの結果物に対してであって、クリエイティブなものがまさに生まれたときには、ほとんどの人がそれを嫌う。
ひとは自分の理解できるものが好きだし、経験から判断できる解決策が好きだし、リスクをとるのも大嫌いだ。
だから、たいていのクリエィティブなものは、芽が出た途端に叩き潰される運命にある。
象徴的な例として、アメリカ版ボーグの編集者のアナ・ウィンターが、部下のディレクター・グレース・コディントンのアイディアを、アナが自分のチカラを誇示するためとしか考えられない理由で、ことごとく拒んだ例を挙げている。
クリエィティブなひとは、ひとのクリエィティブなアイディアをすんなりと受け入れるかというと、そうでもないのだ。悲しいかな。
創造的であろうとする人、なにかこの世に存在しないクリエィティブな解決を試みようとする人々は、この世間の、ひとびとの拒絶に慣れる必要がある。
それは、たとえば、マラソンのトレーニングをすることと似ているという。
そして、真にクリエィティブなアイディアというものは、受け入れられるためにはとても長い時間がかかるものだ。
素晴らしいアイディアであればあるほど、受け入れられるまでに時間がかかる。
ノーベル賞の受賞者たちの仕事も、ほとんどの場合、同僚たちには受け入れられない長い時間があったのだ。
最終的にクリエィティブな仕事をするひととそうでないひとを隔てているものは、かれらの「回復力」である。クリエィティブはときに報われるが、それは幸せそのものではない。クリエィティブなひとたちは、世間からの同質化圧力に耐えぬくチカラを持っている。
クリエイティブに生きるということは、ひとつの選択である。
最終的にそれが受け入れられないかもしれないという可能性とともに、覚悟を決めるしかないのだ。
(以上 要約オワリ)
さて、ところで、こういう作家さんがおられると知った。
東峰夫さん。1972年、『オキナワの少年』で芥川賞を受賞。米兵相手の商売で生計をたてる少年を描いた清涼感溢れる作品だという(未読です)。
その東さんは現在75才。6畳1間の木造アパートに、生活保護を受けて暮らしている。
受賞後、東さんは編集者に『オキナワの少年』の続編のようなものを書くように要求されたもののそれを拒み、自ら書きたいものを書くことに徹した。
そのため、出版、マスコミから姿を消し、40年間で数冊の単行本を出しただけで、日雇いやガードマンの仕事で糊口をしのいだ。
ネットで知る範囲だが、東さんがほんとうに書きたいものは、自らが見た夢の話であるという。それは毎日見た夢の内容をメモした300冊ほどのノートから書いている長編小説で、すでに単行本8冊分の量になった。だが、その作品の出版のあてはない。
クリエィティブであれと、簡単に言うけれど。
クリエィティブな仕事がしたいと、軽々しく言うけれど。
真にクリエィティブなことをしようとする人生は、かくも苛烈なものなのだな・・・