二匹の犬が示した「友情」
友情っていうのは、見えない。
俺とお前の間にには固い友情があるんだと言っても、ふたりの間にハートマークが飛んでいるわけでもないので、見えない。
そもそも、良い歳をした大人がふたり、「お前はおれの親友だ」、「おれにとっても、お前はおれの親友だ」と言うところに出くわすことは、ほとんどない。
もしそんなシーンにでくわしたとしても、かなり気味の悪い場面としか思わないだろう。
また、何を言ったところで、言葉は空気を振動させて鼓膜に達し、脳で認識されて消えてしまう。
ほんとうに「友情」というものがあるのか、ないのかわからない。
ただし、自分の心の状態としては、ある。
「あいつは俺の大事な友達だ」と考えることはできるし、自分が考えることはできるので、それを友情というなら「友情」が存在することは確実だ。
だが、他人の心の中になにかが存在するかどうかは知りようがない。
「僕の親友です」と紹介されて、びっくりすることがある。
いつから、僕は、君の「親友」になったのか?
あ、そうなのかと思い、彼は僕の中でも「親友」になったが、やっぱり考えは噛み合わなかった。たぶん、今頃、彼のほうでも、その「親友」の看板をおろしているだろう。
「友情」ってなんだ?
結局のところ、言葉ではなく、行動からその存在を類推するのが、一番確実である。
残念ながら、そういう機会はあまりないから、たまに僥倖のように訪れた瞬間、「友情」の存在がはっきりとわかる証拠となる行動を、そっと心の奥の棚にしまい、時にそれを取り出して、愛おしむことになる。
「友情」の存在が行動によって証明された瞬間は、自分に関わりのないものであったとしても、僕らの心を明るく灯してくれる。
たとえ、それが犬たちであったとしても。
いまアメリカで話題になっているこの記事には、森の中で迷子になった二匹の犬の話が紹介されている。
一緒に飼われていたバセットハウンドとセッターが森の中に迷い込み、バセットハウンドがコンクリートの溝に落ちて出られなくなった。
セッターはそのそばを離れず、一週間後に人に発見されたのだが、どうやら、その一週間というもの、人の注意をひいてそこに連れて来ようと必死になっていたようだ。
幸い二匹とも空腹で身体が冷えきっていたが、無事に保護された。
犬にすら、こんな「友情」があるのだ。
普段は見えなくても、僕らの間にだって、こんな「友情」が存在していることは、確実だ。
photo by Thang Nguyen