雪が溶ける音を聴いた、僕の生涯最高の温泉体験
photo by Suzanne Long
寒い。
寒いのは嫌だ。早く暖かくなってくれないかなと、切に思う。
しかし、寒い寒いと嘆いているより、ほんとうは、この寒さを、冬という季節を積極的に楽しんだほうが、人生が楽しくなることは、わかっている。
真冬の寒い寒い体験で、僕の記憶に焼きついているものがいくつかある。
ひとつは、秋田県の名前も忘れてしまった小さな温泉だ。
百貨店のバイヤーだったころ、ある木工品の取引先を訪ねて行った時、食事のあとで、温泉に入って帰ってくださいとおっしゃって下さった。
夜の雪道を軽トラックで進んで行って、ここですと言われて車を降りると、闇の中に小屋のようなものがぼんやりと見える。その小屋までも雪が相当積もっている。
普通の革靴だったので、雪に足をつっこみ、滑りそうになりながら、その小屋になんとか辿り着く。すでに、足もとは濡れ、そこがめちゃくちゃ冷たい。
彼は中に入り、電灯のスイッチをぱちんとあげて、僕を招き入れる。
じゃあ、ここで、脱いで、温泉は、あっちです、彼はそう言って、さっさと車に帰ってしまった。
もちろん、脱衣場はめちゃくちゃ寒い。外の温度と同じだ。そこで服を脱いで、素っ裸になるにも、とてつもない勇気が必要だった。
なんてとこへ連れて来られたんだ!
そこで服を脱ぐより、さっさと回れ右して車に戻り、暖かい旅館の部屋へ送り届けてもらいたいと、切に思った。
しかし、さすがに、「◯◯百貨店のバイヤーが、温泉に連れて行ってもらってキレたらしい」という噂が広まってはかなわないので、覚悟を決めて服を脱ぐことにした。
ぶるぶる震えながら、素っ裸になって、タオルを持ち、木製の引き戸を開くと、そこは別世界だった。
明かりに照らされた、小さな湯船。
立ち上る湯気の向こうには、厚い雪で覆われた真っ白な森。
お湯はかなり熱く、足からゆっくりと入り、ようやく首まで湯につかりほっとする。
小さな温泉とはいえ、ひとりで独占である。
なるほど、たしかに、この小さな露天の温泉はいいな、わざわざそこに連れてきてくれた彼の好意がやっと、理解できた。
露天の温泉に入ったことはあっても、雪の中の露天風呂というのは、生まれてはじめての体験であった。
これほど贅沢な冬の楽しみ方がほかにあるだろうかと、悦に入っていた。
すると、雪が降りだしたのである。
湯船の半分は屋根がかかっているが、残りの半分には屋根もない。
頭上の光に照らされた空間に突如あらわれる雪の塊は、ひらり、ひらりと、湯面に向かって落ちてくる。
その雪は、僕の周囲の湯面に到達すると、そこで一瞬に消えてしまうのである。
そして、そのとき、雪の塊が溶ける、じゅっという音がする。
いや、もちろん、そんな音は現実にはしないのだが、静まり返った森の中で、雪が湯面で溶けているところを見ていると、そんな音が聞こえるような気になるのだ。
漆黒の闇の森の中。
僕が体を沈めているのは、マグマに熱せられて、地から湧き上がった湯。
僕に降っているのは、天空に上り冷やされて結晶となって、落ちてきた雪。
そのふたつが、スポットライトで照らしだされたような僕のいるところで、つぎつぎにひとつとなる。
じゅっ。
じゅっ。
じゅっ。
きっと、雪国の人には、ありきたりの体験なのだろう。
しかし、ほとんど雪が積もることのない、大阪人には、20年以上経った今でも、けっして忘れられない、最高の冬の温泉体験だった。
寒い、寒いと言っている間に、今年の冬も終わってしまう。
着物の仕入れでは、「もう、ひとえを買わなくっちゃ!」と皆が言っている。
行ってしまって帰らないのは、なにも桜の季節だけではない。
この冬も楽しまなくっちゃ、と思うのであった。