いつだったか、嫁のホームステイ先のアメリカ人のご夫妻が我が家に来てくれたことがある。
まだ結婚してまもないころで、僕はレストランのバイト仕込みの料理が自慢で、おふたりに自信満々に「たらこスパゲッティ」をつくってさし上げた。
どうやら、とても不味かったらしい。
いまならもう少し配慮できると思うのだが、美味しくないと思われていることに気づいたのはお皿の上のスパゲッティがかなりなくなってからのことだった。
ご主人さんが、どうやら最後の4分の1ぐらいのところでどうしても先に進めなくなったらしく、奥様に残りを食べてくれるように頼まれた。奥様のほうでも、どうやら苦労してそこまで食べてくださったらしく、ちょっとした押し問答のようになった。
もちろん、ようやく、「おふたりにはかなり不味いらしい」と気がついたので、そのお皿は僕らのほうでひきとったのだが、海外の人に食事を提供するのは難しいことだなと痛感したはじめての体験だった。
さすがに、「たらこ」は難しかった。
しかし、その後も、海外の方とお食事をするときは、どこへお連れしようかかなり迷う。
ピザとかステーキなどの洋の料理にお連れすると安全だけど、せっかく日本に来られているのに、それも寂しい。
現在のベスト3は、1)寿司、2)とんかつ、3)お好み焼である。
1)と2)は安全牌だけど、お好み焼きが案外喜ばれることを最近知った。近所のお好み焼屋さんが、仕上げのマヨネーズを高くからかけるアクションをしてくれるのだが、それに大喜び、そして、味もなんとか受け入れていただけるようだ。
最近ではラーメンも人気らしいが、それはまだ試していない。
それにしても、彼らがそれを「ほんとうに美味しい」と思ってくれているのかどうかは、なかなかわからない。口では美味しいと言ってくれてはいても、本心はどうなのか気になるところだ。
今朝、Why Americans Love Sushi(アメリカ人はなぜ寿司が好きか?)という記事をMediumでみつけて、ざっと読んだのだが、めちゃくちゃ面白かった。
筆者は6年のフードライターの経験のあるアメリカ人のTroyさんという方なのだが、彼が考えるアメリカ人が寿司を好きな理由は、「寿司を食うことは、ライオンが骨から肉を引きちぎって食らうことの、近似行為」なのだそうだ。
つまり、彼によると、アメリカの高度に産業化された食生活の中では、食べるものはなんらかの加工が施され、彼らが好む味や食感にすべて変質させられている。
いっぽう寿司は「殺して、切って、アレンジする」というもっともシンプルな料理であり、寿司を食べる、「生の肉を切っただけで食べる」ということは、人間が食物連鎖の鎖の一部であるということを強烈に再認識させてくれる行為、そしてそれはいわば小さな冒険なのだそうだ。
なるほど、その気持ちはわからないでもない。
しかし、彼のこの記事には、寿司のどこがどう旨いのかということはほとんど書かれていない。
最初にこう書かれている。
「もし、僕が、人生最後に何かひとつだけ食べることができるとしたら、バターをつけたパンを選ぶ。2番目は、寿司だ。いや、すまん、ほんとうは、冷たい牛乳をかけたFruity Pebblesだ。だけど、3番めは、絶対に、寿司!間違いない!」
写真を見ていただければわかるが、Fruity Pebblesというのはカラフルで甘そうなシリアルである。
なんだ。
それが2番で、寿司は3番なのか。
そういえば、僕が知っているアメリカの方が家で食べておられたものは、たいてい、甘いか脂っこいか大きいかチンするだけのものという感じで、「寿司が美味しい」という感覚とは別世界であった。
アメリカの人たちが、寿司を美味しいと激賞してくれるのは、とても嬉しい。
で、彼らが「美味しい」という場合の「美味しい」がどんな感じで、それは今後変わっていく可能性があるのか。
この記事を読んで、とても興味深いなと思った。
photo by RayMorris1