飼い猫の人生、飼い犬の人生、野良猫の人生、そして野良犬の人生
会社を辞めてからというもの、野良猫のように生きてきた。
僕らの生きる世界は厳しく、油断をすれば、すぐに奪われ裏切られる。
だから、いつでも逃げられるように身構え、猜疑心一杯の目で近づいてくる人たちを見つめ、手を差し出されれば後ずさる。
僕に近づいてくる人がいれば、その理由をいくつか考えて、その理由がどこに落ちても落胆しないように心に防御線を貼る。
この世界には、騙すひとに満ちているが、骨董の世界では、判断基準はひとつ。
騙されるひとが悪い。騙されないように技量を磨いてこそ、プロ。
一時、体の半分を骨董の世界で生きてきた僕には、その考えが浸み込んでいる。
偽物をつくることができない古着の世界はそれほど厳しくはなく、「競争相手をだましても高値で売りつけようとするひと」と「100%嘘偽りのない商売をするひと」が両極端にいて、たいていのひとはその中間のどこかにいる。
僕は後者でありたいと願ってきたし、それを誇りに生きているつもりだが、はたしてそれが商売を大きくするための最善の方法かどうかはわからない。
そして、野良猫のように、騙されて商売を失わないように、身構えて生きている。
それでいいと思っていた。
それこそが、僕が生き延びる方法だと思っていた。
しかし、昨日はじめて会ったTさんは、野良猫ではなかった。
僕と同じぐらいの時間、独力で事業を回してきたTさんは、言うのだ。
「僕は正反対です。そりゃ、騙されましたし、裏切られましたよ。何度も、何度も。でも、僕は、かかわりになる人たちを、まず信じます。信じないと、次の段階へは進めないじゃないですか。結果が、どっちに転ぶにしても」
Tさんの実直そうな眼が僕を見つめる。
野良猫の僕の向かいに座っているのは、いわば、「野良犬」であった。
おなじく厳しい世間のなかで独力で生きていて、「野良」であることには変わりがないのだが、失礼を承知で言えば、彼は「犬」であった。
彼の人を信頼しようという意思、警戒感なくこぼれる笑顔。
そして、良きものへの強い希求と無条件の好意。
そうか、と僕は思った。組織のなかでも「猫」のように生きてきて、うまくいかなかった僕は、野に出ても、いつの間にか「猫」になっている。
「組織にいるとき、犬のように生きる術を学べばよかった」と後悔しているくせに、「野」にいるからと、また「猫」のように生きているのか。
変な話だ。
たとえが、失礼極まりない。
しかし、彼に会って僕はほんとうに思ったのだ。
「野良猫のように生きる」という看板はもう下ろそう。
どうせ、残り短い人生だ。
これからは、「野良犬のように生きてみよう」と。
photo by Nilanjan Sasmal