ICHIROYAのブログ

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「いいひとなんだけど・・・」と、生涯ずっと言われて生きてきた!

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「いいひとなんだけど・・・」と、生涯ずっと言われ続けてきた気がする。
「・・・」のところには、「面白くない」とか「ドキドキしない」とか、もちろん否定的な形容詞が入るのだが、たいていのひとは、武士の情けで、さすがにそこまでは言わない。

それは、態度にも現れているらしく、ある遠慮のないひとに言われてはじめて気がついたのだけど、どうやら僕は、いつも「ニヤニヤ」しているらしいのだ。
でも、いまだに、僕自身は、僕がほんとうに「普通の」ひとたちより、ニヤニヤしているということが、信じられない。
どういうことなのかな、と考えてみる。

誰かと会う。気づいてから、「こんちわ~」とか「久しぶり~」とか言って、次に会話が続くのかそのままその場は別れるのかちょっと間があって、離れる。その間、たしかに、僕はニコニコしていると思うが(けっして、ニヤニヤではない!)、それが「普通ではない」と言われるのなら、たぶん、ひとより、「ニコニコしている時間」が長いのであろう。「普通のひと」が、さっさと笑顔をひっこめているのに、僕のほうはまだ「ニコニコ」していて、その「ニコニコ」が宙に浮いている感じ。
もし、僕が普通のひとより「ニヤニヤ」しているというなら、そういうことなんだと思う。

が、いまだに信じられない。
たしかに、気持ちの面では、「誰かに嫌われたくない」「親切な人間だと思われたい」「いいひとと思われたい」という気持ちは、人一倍強い。
それは否定しない。
だから、僕が生きる道として、一番ラクな道は、「いいひと」になることだった。
そして、周りの誰よりも「いいひと」の役回りをすることが、友達や同僚たちの中で僕が安心して息のできる唯一の方法だったのだ。
そうやって、50年以上、なんとか生きてきたから、たぶん、その性根が顔に現れているのだろう。
いつかビデオででも確かめてみたいが、僕が「普通のひと」より、「ニヤニヤ」(なんども書くが、言葉を正確に使うと「ニコニコ」である)しているのは、ありえることだと思っている。

でも、もちろん、「・・・・」の部分は、いつも僕を刺し貫いて、苦しめた。
誰よりも「いいひと」であるという保険をかけながら、「とんでもないことをやる、ガッツがある」という評価も欲しくて、あがいた。
会社で働いていたある時期、かなり無理をして、そういう評価をもらいつつあるなと思ったことはあったけど、それも実際に仕事に関わりのある小さなグループのなかでの話で、仕事上の付き合いのない同期たちと飲みに行くと、あいかわらず、「・・・・」扱いなのであった。
結局、何をするにもそれが一番の原動力で、40才で無謀な脱サラをしたことも、それがひとつの大きな動機だった。
送別会を開いてくれた同期のある親しい友達が、最後の最後に、僕の将来を心底心配して、「人事に詫びを入れて、退職を撤回せよ」と詰め寄ってくれたのが、象徴的だった。

いま、こうして古着屋をやっているわけだが、古着屋仲間でよく語られる話がある。
古着は、業者間の競市で仕入れる。
誰よりも高値を出せば買えるが、もちろん、高値で買えば売る時は苦労する。
安値で買えば、売る時はラクだが、より高値で買うひとがいれば、仕入れることができない。
ひとつひとつの競りが、それぞれの商売人のプライドと人生を賭けた勝負なのだが、この競市について、こう言われている。

「競市でいいひとになったら、オワリ。誰よりも、嫌われる存在になれ」

つまり、競市の勝負では、誰にも負けず、欲しいものは全部競り勝って、「あいつさえいなければ」と、心底憎まれるような存在になれ、ということだ。

これはどこかで読んだ言葉だけど、

「好かれるひとではなく、畏怖される存在となれ」

この言葉を、僕らの競市という身近な場について語ると、上のようなセリフになるのだと思う。

たぶん、これは間違いのないことなのだけど、「いいひと」を目指すのではなく、「畏怖されるひと」を目指さないと、より大きな仕事、より影響力のある仕事、よりたくさんのひとに幸せを届けることはできないのだと思う。

そのあたりのことが身に沁みているので、この商売を続けていく以上、「ニヤニヤ」(「ニコニコ」!)の癖は相変わらず抜けないけれど、同業者からは憎まれ、畏怖されるような存在になりたいと、努力しているのだ(努力しているつもりなのだ!いや、もちろん、全然、十分じゃありません!がんばります!)。

ところで、これだけソーシャルメディアが発展した世の中になると、「いいひと戦略」がすべてにおいて大事になってくるという話がある。
つまり、「いいひとである」「ひとに優しい企業である」という認識・印象をもってもらって、それをソーシャルを通じて拡散してもらうことが、今の時代は、ひとにとっても企業にとっても大事なんだ、という話だ。
それはひとつの真理だと思うし、ソーシャルメディアがもたらした、そういうインパクトは大きい。
現実に、それで世界が良くなったという例もよく耳にする。
しかし、一方で、「憎まれて」「畏怖される」という存在の価値が下がるわけではないということは忘れてはならないと思う。

ちなみに、僕はこのブログで、相変わらず「いいひと」の役回りを続けている。
ポジティブな話、役に立ちそうな話しかしないし、ほとんど批判的なことは書かない。
いわば、けっして血を流さないブログである。
匿名じゃないし、「ニヤニヤ」(「ニコニコ」!)な僕の個性からいって、それもしかたがないか、と思っている。


しかし、最近、ときどき、炎上気味になる。
たとえば、2,3日前のエントリー「できる上司をもったことがない君へ!」が、多くのブックマークをいただいたが、どうやら半分ぐらいは、批判票だったようだ。
僕としては、普通のことを、ちょっと面白おかしく書いた程度の認識だったのだが、人によっては、「とんでもない話」だったようだ。
ココロが枯れている気はないのだけど(僕は54才)、知らぬ間に、時代の流れから、相当取り残されているのかな、とも思わないでもなかった。
だけど、「いいひと」と「畏怖されるひと」の話じゃないが、「いまの社会はこういうものだ」という目新しい言説が、ネット上で一般化したとき、「いや、でも、こういう部分は変わらず残っているよ」と言いたくなってしまうのだ。
そして、これからもまた、そういうことを書いてしまうと思う。

しかし、まあ、先の記事でも、こういった上司が「時代遅れのとんでも上司」だとするなら、「今の時代のできる上司」ってどんなんかな、っていう話しの叩き台にはなりうるのかな、と思って自らを慰めている。

そして、「いいひとなんだけど・・・」な僕、ネット上で嫌われるのが怖くて仕方がない僕、問題をえぐりだして提示するのではなく、期待と可能性を語りたいと思っている僕が、そうやって炎上気味の話を書いてしまわずにはおれないのは、不思議な巡りあわせだな、と思う。


さて、いつか、僕の評価「いいひとなんだけど・・・」の、「・・・」がとれる日はくるのだろうか?
あるいは、「嫌いだけど・・・」と言われる日がくるのだろうか?


(写真は、明治時代の消防士の半纏 綿の半纏で火の海に飛び込んでいく心意気に熱くなる )