短編小説18 『Aリスト』
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「はい、では、大手広告代理店に入れるなら入りたいと思っている人、手を挙げてみてください」
『一回生から始める就活セミナー』の講師はそう言って、50人はいるであろう学生たちを見渡した。こんな機会でも積極的である姿勢を見せたほうがいいかもしれないと思っていた賢治は、前から三番目の席に座っていた。
――― 大手広告代理店!クリエイティブな仕事で、高給で、社名を言う度に、誇りで満たされるに違いない。
一瞬考えてからであったが、賢治はさっと手を挙げた。
―― ほかの人は?
賢治は肩越しに後ろを見た。ひとり、またひとりと手を挙げ、やがて三分のニぐらいの手が挙がった。
「はい、ありがとう。やっぱり、人気ですね。では、まったく別の質問をします」
講師はにこやかに微笑みながら、こう訊ねた。
「原発については、どうでしょう。反対の人。まず、即時に、すべての原発を廃炉にすべきと思う人は?」
質問の意図がわからず、学生たちの顔に不審そうな表情が広がった。
『一回生から始める就活セミナー』は就活分野では最近メキメキ頭角を現したある会社が、就職活動に不安を持つ大学生を対象に、一回生という早い時期から、有利な就職を目指した学生生活を送るためのノウハウを提供するセミナーである。
賢治は第一志望の国立大学の受験に失敗し、いわゆるマーチと言われる関東の私立大学のうちのひとつに入学した。
なにがなんでも、世間から認められ、裕福になり、魅力的な女性と結婚するんだ、そう思っていた賢治に、受験の失敗は大きな痛手となった。自分なりに傾向と対策を練り、一生懸命努力したつもりであったが、結果は不合格であった。
就活でも、おなじ目に合うのではないか、第二志望の私学に落ち着いた賢治の心にそんな恐怖心が芽生え、そのセミナーのチラシを学生課の掲示板にみつけた時に、すぐに申し込みをしたのだった。
学生なら誰もが知っている会社のセミナーであり、アンケートに答えさえすれば参加料も2000円とリーズナブルである。
実際、駅のそばの地銀のビルの上層階の会場に来てみると、高校の教室ほどの部屋は、一回生で満員であった。そこに知った顔はなかったが、おそらくみんな、近辺の2,3の大学の一回生であろうと思われた。
就活コンサルタントを名乗るセミナーの講師は、四十代前半の笑顔の魅力的な男性であった。
大学生になったばかりの賢治にすれば、その年代の男性は、ほとんどが『ただのおっさん』で、そうでない『ダンディなおやじ』、あるいは『憧れの存在』はブラウン管やネットの向こうにわずかな数存在しているだけであった。だが、話を聞くうちに、賢治には、その講師が『だだのおっさん』ではないように見え始めていた。
真剣に話しているかと思えば、時にはジョークで笑いを取り、また、時にはオフレコだよと断って、企業名を出したりして、参加している学生たちの注意を一瞬もそらさなかった。
まずは、勉強を頑張って、よい成績を取ること。そのうえで、無計画なアルバイトではなく、知りたい業界、入りたい業界のインターンを探して、潜り込むこと。さらに、経済や会社の仕組みを知って、3回生までに、志望企業をリストアップして、調べあげること。一部上場企業だからといって、ブラック企業でない保証はない。
その話は、賢治にとっても、とても納得のいく話であった。
ネットやマスコミで聞く就活の厳しさとは実際にどんなものなのかかなり明確にわかったような気がしたし、また、ほかの就活生より早く、3年かけて準備をすれば、自分でもなんとか乗り越えられそうな気になってきたのである。
そして、最後の30分。
もっとも大切なこと、一流大学の成績優秀者でも、案外わかっていないことをお伝えする、と言って、講師は冒頭の質問を言ったのである。
――― 原発か・・・
数人が手を挙げた。
「はい、ありがとう。即時廃炉を望む人は、少数派ですね。では、すぐにではなくても、中長期で原発依存度を減らして、ゆくゆくは原発をゼロにすべきだと思う人は?」
賢治は手を挙げた。周囲を見渡すと、半分ぐらいの学生が手を挙げていた。
「おおよそ、半分ぐらいですね。残りの方は、原発やむなしというお考えということですね」講師はそう言いながらゆっくりと歩き、賢治の前あたりにやってきた。
「そこの男性の方」
突然指名されて賢治は驚いた。僕ですか、というように顔を上げると、
「そう、あなた。大学と学部と、お名前とは?」
「XX大、経済学部、宮崎賢治です」
「ツィッターか、フェイスブックやってますか?」
「はい、ツイッターを」
「原発に関する、あなたのその意見を書いたことは?」
賢治の母は、息子を評して正義感の強い子だとよく言ったものだ。賢治も、多くの良識派の人たちと同じように、福島の原発事故には心を痛め、原発の将来について、そういう考えを高校生らしくまっすぐに書いたことはある。
賢治は正直に答えた。
「あります」
講師は机の間を前に進んで賢治のすぐそばに立った。そして、見下ろして、言った。
「でも、あなた、大手の広告代理店に入りたいっていう質問にも手を挙げておられましたよね」
賢治は眉を潜めて頷いた。
「言うまでもなく、大手広告代理店は、電力会社を大口のお客様にしていますし、原発推進を推し進める側の仕事をしてますね。かりに、あなたがその会社に入れたとして、電力会社の担当になったらどうしますか?」
――― どうすると言われても・・・
その立場になってみなければわからない。賢治は返答に窮した。
「まあ、それはその時に考えてもらうことにして・・・立場を変えて考えましょう」
講師は賢治の側を離れて前に戻った。
「あなたがたがその会社の人事採用担当者だとします。最終候補に残った人たちから、何人か落とさなければならない。面接や筆記試験の結果も、学歴や成績も甲乙つけがたい。当然、当然ですよ」そこで講師はいったん言葉を切って溜息をついて続けた。「SNSでどんなことを書いているか、チェックします。そこに、もし、原発の即時廃炉を主張する発言があったら、あるいは、『将来的に必ず原発はやめなければならない』というような強い主張が書かれていたら、あなたはどうしますか。採用担当者としては、会社の大口顧客との関係を良好に保つことになんの心配もない人材を選びたいですよね。実際のところ、その候補者の心情は、『即時廃炉』と『消極的脱原発』という一般的な考えの間で揺れているのだとしても、目にしたのがそういう発言だったら・・・採用担当は限られた情報から、判断を迫られます。で、結果は想像できますね」
会場は静まり返った。
そこまでの話は、競争社会の厳しさを痛感させるものだったが、社会は突然、その理不尽な姿を学生の前に現したのである。
「そういうことになる可能性のある会社は、広告代理店だけじゃありませんよ。電力会社はもちろんですし、大手電気やゼネコンをはじめ、多くの会社が原発に関わっています。そもそも、あなたたちだって、原発の電力に依存して、こうやって豊かな生活の中で育てられてきたんです。でも、おかしいですよね。あなたたちが習ってきた先生たちは、そんなこと言いましたか? どこかに絶対的な正しい道や、『正義』があるかのようでしたね。でも、絶対的な『正義』なんてないんです。『正義』は、人間の知性によって保たれているけれど、その骨組みの土台には、『ある種の力』があるんです。ビジネスの世界に入るなら、会社という組織に入るなら、そういうことを、就活以前に、肝に命じておいたほういい」
講師は厳しい表情で会場を見渡し、さらに続けた。
「みなさんは、戦争は嫌ですよね。それに、戦争で誰かを殺す武器だって、作ったり、売ったりしたくないんじゃないでしょうか」
会場は依然、湾内の凪の海のように不自然に静まり返っている。
「ご存知かどうか知りませんが、武器輸出が解禁されました。いろいろと制限はあるにしても、日本の会社も、銃や爆弾や無人爆撃機を作って、輸出することもできるようになりました。さすがに、日本の大手企業は、消費者から『死の商人』の烙印を押されるのは嫌でしょうから、無人爆撃機をつくりはしないでしょうけど、無人爆撃機に必要な電子部品を開発して輸出したりすることは出てくるでしょう。さあ、あなたが入った会社が、そういう部品を輸出して、それが、中東で使わることがわかっているとしたらどうでしょう。もちろん、そういう会社は就職の時に避けたいところです。でも、主力商品が寿命を迎えて、売るものがどんどん変わっていくというのは、よくあることです。あなたの入った会社が、いつの間にか、武器部品の輸出が大きな割合になっていた、なんてことはありうるでしょう。また、逆の立場で考えましょう。自分はそんな会社の採用担当者だ。また、最終選考の時に、あなたはSNSを見る。その発言から、潔癖な道徳観、強い正義感を感じさせる人を見つける。そこで、あなたは、その人たちが、自分の担当が武器部品だとわかっても、販売に躊躇しないだろうか、それを一生懸命に売ってくれるだろうかと心配になります。で、どうしますかね」
「僕が言いたいのは、原発とか、武器輸出の是非ではありません。つまり、僕らが住んでいるこの社会は、隅々まで潔癖でもなければ、力を後ろ盾にしない正義などはないということ。そして、社会に出るということは、自分も、濃淡はあれそれを担っていくということであるということをしっかりと認識しておいて欲しいのです。就活というのは、その覚悟を問う、いわば登竜門のようなものなのです。もし、あなた方が、『就活に勝つ』、そのための準備を今からするということは、取りも直さず、その覚悟を固めるということでもあります」
「SNSで自分の意見を発信することはたやすくなりました。SNSには悪い面もありますが、同様に良い面もあります。多くの企業に、生活者からの意見を反映させることが容易になりました。かつてないほど、企業は生活者の顔色を伺っている時代だと言ってよいでしょう。でも、採用にあたっては、企業は、候補者のプロフィールや生活スタイルを簡単に知ることもできるようになったのです。面接では本心を隠せても、2年も3年も、SNS上での発言に注意を払い続けることは簡単ではありません。強い自制心が必要です。不用意は発言はしない。そのために、社会の仕組みをよく知る。そしてーーー」
講師は再び一呼吸を置いた。
「逆に考えましょう。SNSでの発信で失敗しそうなら、やめてしまえばいいのです。でも、やめてしまうのはあまり良い印象を与えないかもしれません。今時、まったくSNSも使いこなせないのか、と思われることは、減点の対象となるかもしれません。結局は、のちのち問題にならないような発言を避けて、ほどほどにお付き合いをする、というのがもっとも現実的です。さらに言うと、採用担当者に読まれる前提で、書く。企業から必要とされそうな自分をそこに演出して、逆に、積極的に利用するということも可能です―――」
後の方の席から、「先生」と言う女性の声が聞こえた。茶色っぽいふんわりとカールした髪をセミロングの美しい女子学生が、すでに立ち上がっていた。
「はい、どうぞ」
「すみません。◯◯大学の山口と言います。就活のノウハウを興味深く聞かせていただきました。ありがとうございます。でも、先生の最後のお話は、酷いと思います」
「どういたしまして。で、『酷い』って?」
「先生のおっしゃっていることは、『社会の雰囲気を読め、SNSでは自分の意見よりも、社会に迎合するような意見を書け』というようなことですね」
講師は頷いた。
「みんながそんなことをするから、日本の社会や、企業は、坂道を転げ落ちるように、悪い方へ悪い方へと進んでしまうんじゃないでしょうか。戦前の日本人が無謀な戦争に突入したのも、福島の津波被害への対策ができなかったことも、多くの有名一流企業が長年信じられないような不正を続けたりするのは、まさに、そういう心情のせいではないでしょうか。悪いことは悪い、手を出すべきではないことには手を出さない、そう勇気をもって発言することの方が、よっぽど社会も会社も良くするし、これからの時代、求められる人材像だと思います。とくに、私たちのような若い世代、いまから勉強して、社会を良くしていこうとしている学生に、社会の既存の枠組みを良いものとして尊重する必要なんて、まったくないんではないでしょうか」
「そうです。もちろん、そうです。よく調べて、自分の意見を持つ、それを発信していくことでしか、世の中は変わっていかないでしょう。ただ・・・」
講師はその女性の方向に2、3歩踏み出して続けた。
「このセミナーの目的は、『就活に勝つ』ことですね。社会を良くするためのシンポジウムでも、政治集会でもありません。『就活に勝つ』ためには、多くの企業から来て欲しいと思われる人材になる必要があります。つまりですね、右手で殴っておいて、左手で何かをねだることはできないっていうことです。えっと、山口さん、学部は?」
「法学部です」
「そもそも、あなたには、『就活』を選ばないという方法だってありますよね。右手どころか、社会派の弁護士になって、両手で社会の不正義を叩くという道だってありますし、ジャーナリストとか、NGOを始めるという道もあります。一部上場企業に入るという選択とは、両極端ですが、その間にさまざまな道もあるでしょう。このセミナーの目的からは外れますが、敢えて申し上げると、そういう道を選ぶ方を、私は心底から尊敬しています。たいていの場合、そういう人たちの道は、苦難の連続で、経済的にも恵まれないことの方が多いと言ってよいでしょう。でも、そういう方は、胸の奥から湧き上がってくる衝動を抑えきれず、勇気をもって、そういう生き方に踏み出すのです。実際に、そういう方のうちのわずかな方が時代の英雄となり、残りの多くの方は経済的には恵まれぬまま人生を終えるのでしょう。山口さんには、そういう『就活で勝つ』以外の生き方のほうが良いのかもしれませんね」
山口は顔にかかるカールした前髪の間から、講師を睨みつけたままであった。表情に納得の色はない。だが、山口の口調はあくまで冷静であった。賢治は振り返って山口の話しぶりを惚れぼれと見つめた。
「先生のお話は極端です。社会を変えるためには、そういう一部の人達ではなくて、普通に会社に勤めている人たちすべてが、しっかりした良識をもつことが必要なんです。でなければ、社会は変わらないし、そもそも、私たちが頑張って仕事をして、社会をよい方向に変えていこうとする努力は無駄っていうことになってしまいます。まだ考えは青いかもしれません。ですが、正義感に溢れた学生が、自分たちの未来を自分たちが望むものに変えていこうとしてする発言することは、悪いことでしょうか。それに、そういったことを企業が嫌がるかのようにおっしゃいますが、ほんとうにそうでしょうか?たとえば、電力会社や広告代理店や電機設備の会社に就職したすべての大人たちは、原発推進派だったんでしょうか。私はそうは思いません。きっと、若い時は、理想や正義感に溢れていたのだと思います。そんな大人たちが、自分の若い頃を棚に上げて、同じような考えを表明する若者を、採用の時に避けたりするものでしょうか。会社って、会社の人たちって、そこまで、不寛容で、だめになってしまっているんでしょうか。失礼かもしれませんが、先生―――」
いったん言葉を切って、山口は静かに続けた。
「先生には、大学に入ったばかりの私たちに、こうやって何かを語る資格はないんじゃないでしょうか。まさに、先生がそんな話をして就活生を脅すことで、私達の社会を、未来を、そして、会社や、就活をも、酷いものにすることの片棒を担いでいるんです。」
去年まで高校生だったとは思えない、抑制の訊いた立派な語り口であった。
だが、講師の表情に焦りや驚きはなく、静かな口調で言い返した。
「それはどうかな。ちょっと、言い過ぎだと思うが」
「先生!」
そう声を上げたのは、賢治であった。
「先生の話はよくわかりました。でも、僕も納得はいきません」
「おや、援軍ですか。さっきの方ですね。どうぞ」
「僕らはもちろん、『就活に勝つ』ために、ここに来ました。でも、心を売り渡したくもないんです。もちろん、自分の生活を良くするために働きたいですけど、社会を良くするための汗だって流したいんです。先生は一か八かみたいにおっしゃいますけど、たとえば、SNSは、匿名で活動すればいいじゃないですか。先生は、そこまで、否定されますか?」
「匿名・・そうですね。匿名」講師は賢治から目を離して窓に向かって歩いた。
「匿名がいつまで担保されますかね。スマホからSNSに投稿した時点で、完全な匿名ではないですよね。それに、あなたがたが就職活動をするのは、3年先です。3年先に、いまとおなじような匿名の隠れ蓑が、求職者のプライバシーに通用しているか、心もとないところがありますね。たとえば、匿名アカウントでも、間違えて実名アカウントの方の発言をしてしまったりすることだってあるでしょう。間違いによる発言とか、ほかのSNSとの連動の様子などから、実名アカウントとのひも付けできるシステムが開発されているかもしれませんよ・・・個人的には、この社会を良い方向に向かわせるのもSNSで、そのためには、なにがなんでも匿名を守るべきと思いますがね。それは、僕の希望的観測なので、『就活に勝つ』こととは関係がありませんし、セミナーの目的からは、『匿名アカウントでの発言にもリスクがあるので気をつけるように』としか言えませんね。ところで、さっきはあえて聞きませんでしたが、宮崎くんはどうされるんでしょうかね。原発はやめるべきだと思っておられるが、もしやっと入れた有名一部上場企業で、原発の広報活動をせよと命じられたら?」
賢治は立ち上がって叫んだ。
「わかりません!」
「わからないって、あなた、面接官にもそう言うおつもりですか?」
「わかりません。社会は、先生がおっしゃる通りになっているのかもしれません。でも、わかりません。自分で、この世界が、先生がおっしゃるとおりになっているのか、たしかめて見るまで、僕は信じません。社会も会社も、先生がおっしゃるほど、酷いところじゃないと思います。たとえ、そうであったとしても、自分でそこに飛び込んで、あがいてみたいんです。なにか道がないか、自分は本当にそれを受け入れることができるのか。ぎりぎりまで、這いずりまわってみたいんです。だから、そんな仮定の質問に、応えることはできませんし、先生に言われたからって、いますぐに、社会に対する考えを変える気はありません」
「いや、そうするのも、君の選択だ。僕は、ぜんせん反対はしないよ。君は『就活に勝つ』セミナーに来て、僕のアドバイスが欲しいのだと思っていたので、現実を話しただけだ。ただ・・・君が、そのままの考えで、条件の良い一部上場企業から、内定をもらえる可能性は低いと思うがね」
山口が遠くから言った。
「先生のセミナーは、まるで洗脳です。就活に失敗するのではという心配を、ナイフみたいに背中に突きつけて、こんな話。ひどすぎます」
山口はかばんの中にノートや筆記具を入れると、机の間の通路に出て、ヒールをコツコツと響かせて、部屋から出て行った。
山口の一挙手一投足に視線を貼り付けていた賢治も、「失礼します」と言って、山口の後を追った。
ふたりは部屋から出て行った。
ふたりが去った部屋は、沈黙に包まれた。
講師の静かな声がその沈黙をやぶり、セミナーの閉幕を宣言した。
「ふたりのおかげで、今日は充実したセミナーになりましたね。まあ、ここに残られているかたも、いろいろな思いがあるでしょう。じっくり考えてみてください。企業への就職活動を選ぶつもりなら、なるべく早くに、就活をスタートされた方が良いでしょう。そして、就活に勝ちたいなら、今日の話を思い出していただければ、幸いです。ご苦労さまでした。それでは、お配りしているペーパーに感想を書いて、終わりにしてください。ありがとうございました」
「ご苦労さまでした。また収穫がありましたね」
参加者の去ったがらんとした部屋でセミナーを主催した若い社員が講師に言った。
講師は集めたアンケートに目を落としたまま答えた。
アンケートの最後には、小さな文字で、アンケートで得た個人情報を第三者に提供することがあると書かれていたが、学生たちの中にそれを気にする人はほとんどいかなったらしく、アンケートには丁寧に個人情報とセミナーの感想が書き込まれていた。
「ええ、あのふたりは、良かった。彼らをAリストに入れよう。これでAリストは、何人になりました?」
「300人を突破しました」
「彼らが就活に入るまでにあと、2年半。2000程度の規模に、なんとかもっていきたいところですな」
「しかし、先生のビジネスセンスには舌を巻きます」
「君のところの社長には負けるよ。Aリストの売値はひとりあたり2千円ぐらいでいきたい。そこまで行ければ、400万円か」
「それを100社に売れば、4億ですね」
「たいした規模じゃないがね。このセミナー事業の副産物としては、十分だろう。何度も言うが、その売上は、僕と君の会社の折半だからな」
「わかってますよ。セミナー本体と、名簿の活用じゃ、そんなにうちに利益は落ちないんですけどね」
「わかったわかった。ともかく、Aリストの方は、秘密裏に何年続けることができるかが、勝負だな」
「いや、大丈夫でしょう。『Aリスト』っていう良い名前がついてますしね。まさか、『A』の『A』が、『AクラスのA』ではなく、『Avoid(避ける)』の『A』だとは、説明を受けた担当者以外、誰も思わないでしょう」
「名称はともかく、採用では、Aリストが役に立つ。箸にも棒にもかからんヤツは簡単にふるい落とせる。難しいのは、仕事はできて仲間からの評判もいいのに、硬直した正義感にとらわれて、組織人になりきれないヤツだ。真面目で、成績も人当たりもいいから、面接では満点に見える。が、将来、内部告発をしたり、会社の方針に反対して組織にブレーキをかけたりするのは、きまってそういうヤツだ。そういう人間をリストアップしておいて、最終候補者にそんな人間が混じっていないか簡単に調べることができたら、企業にとって、どれだけありがたいか。Aリストは絶対に売れる。まあ、売り込みには、君たちの会社の看板も、大いに利用させてもらうがね」
ふたりはニコリともせずにアンケートの集計を続けた。
それより、何分か前のこと。
山口に追いついた賢治が、しばらくの躊躇のあと、背後から声をかけた。
「山口さん」
彼女は立ち止まって振り向いた。
「山口さんは、勇気あるね。感動した」
「あの話は、やっと受験の試練をくぐり抜けた18歳の春に聞くべき話じゃないわ」
「うん、僕も腹が立った・・・・」
賢治は、呼び止めたものの、何を話したら良いのかわからない。言葉に詰まった。
「じゃあ」
山口はそう言って、茶色に輝くセミロングの髪をなびかせて歩きかけた。
薄ピンクの膝よりすこし短い丈のドレスに、純白のカーディガン。ヒールの高い靴。
エレガントないでたちの普通の女子大生が、あの場で、正々堂々と意見を述べたのである。
――― らしくない。
追いすがって賢治が、さらに訊ねた。
「ねえ、山口さんは、◯◯大なんでしょ。もう会えないかもしれないから、ちょっと、話さない?」
山口は立ち止まらず、まっすぐに前を向いて歩きながら言った。
「なにを? 私急いでいるのよ」
「なにをって・・・」
「今からうちの学校の学生課へ行くの。で、学生課の掲示板にも貼ってあったあのセミナーがどんなダメな内容だったか、伝えてくる」
山口は急に立ち止まり、賢治の前に立ちはだかった。
「そんなに腹が立ったのなら、あなたも、自分の学校に、言いに行ったら? じゃあ、行くわね」
賢治は、山口の背中が小さくなっていくのを、呆然と見送った。
これから自分が入っていこうとする社会や会社というところは、ひょっとしたら、あの講師が言っていたような、ひどい場所なのかもしれなかった。だけど、山口のように、目を輝かせてまっすぐに生きていこうという人もいるのだ。
―――きっと、この世界は、捨てたもんじゃない。
賢治はいつまでも山口の背中を見送っていた。
Kimono Flea Market ICHIROYA's News Letter No.655
Dear Ichiroya newsletter readers,
Hello this is Mei from Ichiroya. Did you enjoy the introduction of our staff in my last newsletter? I love working with my co-workers, everyone is so kind, powerful and charming! First of all, I want to explain about "The Seven Gods of Good Fortune", today's head picture. They are Ebisu(God of Development), Daikokuten(God of Wealth), Bishamonten(God of Success), Benzaiten(God of Beauty), Fukurokuju(God of Happiness), Jurojin(God of Health), and Hotei(God of Cleverness). They are believed to bring good luck on a ship with treasures.
Every morning, we have a meeting and introduction something we are interested in. "The Seven Gods of Good Fortune" always confused me who is who, that's why I looked up their name, items and so on. hehe Yeah, I love drawing! When I studied about Kimono and classical designs, I always learned by drawing. (Also I love art museum and exhibition. When I go abroad, I always visit the art museum and exhibition. Recently I went to the Paul Smith's exhibition in Kyoto, Japan. That was amazing!) When I was a university student, I gathered up some waste woods and canvas and daub or draw something after classes with my friends. I love that feeling, daub and mix the paints by hands like kids without thinking.
From last newsletter, we are showing how to distinguish kimono textiles.
Well,today's topic is about WOOL and CELLULOSE.
The following video is about burning wool.
Wool is warm and soft touch, and material of some vintage Kimonos. As you can notice, it burns as same as silk. However, it burns having a nasty smell. Silk also have a little smell. However, it doesn't smell that much. On the other side, when wool is burnt, it is stinky. Yack! Maybe anyone who have never smelled it could have an idea how it is awful through my writing(, I hope so). In short, if you can smell almost nothing, it is silk. If you felt yack!, it must be wool. (Please do not smell many times. You feel yack! many times. haha)
By the way, threads of wool is made from mixing of short fibers. There is one way to distinguish wool. When you press it against your cheek and it prickles you, it is wool. Yes, it is easy to distinguish. Cotton is a representative of threads which were made by mixed short and not straight fibers. Tsumugi silk is in similar form. For example, you can notice the similarity among wool, cotton, and tsumugi silk threads. The ends of fibers appear on the surface when you see through a microscope. However, wool is the only one among them which prickles.
Well, next is about cellulose, fibers of vegetables are all made from it. Of course, cotton and asa(ramie) are cellulose. Jinken(rayon), also a popular material of vintage Kimonos and lining is cellulose in fact. It is made from pulp, and pulp is made from wood(plant fiber). Yes, "jinken is paper". Some people said "jinken is paper. So it tears easily by stretching it after putting your spit." and showed it. Certainly when jinken gets wet, its strength becomes 1/3. Also, fibers of old jinken are weak and tend to have small holes and become whitish by fraying.
Cotton, asa, jinken all made from cellulose. That's why they burn in similar way. They burn just like when you burn paper. The noticeable points are here.
*The fire spreads.
*The remaining ashes can be crashed.
Then, how can we distinguish these materials? The answer is... sorry, next time! Because it is time to pass the baton to the next writer. Oh I will miss you all till next time :( hehe Thank you for reading, it was by Mei. Bye-bye :)
Kimono Flea Market ICHIROYA's News Letter No.654
Dear Ichiroya newsletter readers,
Konnichiwa, this is Mitsue from Ichiroya.
It has been very hot and humid in Osaka, and I want to go to cold country.
My daughter wore Furisode on a hot sunny day!
(Furisode is a most formal type of kimono worn by unmarried women. Furisode have long sleeves and and usually have very colorful and decorative dyed patterns. Furisode are commonly rented or bought by parents for their daughters to dress, celebrating Coming of Age Day the year they turn 20.)
Do you know why she did it?
It is Maedori, taking pictures in advance.
She will be 20 years old in August, and a ceremony of coming of age will be held in January of next year at a city hall.
Now it is common to have pictures taken at studio wearing Furisode before the ceremony.
Guess, what is the textile of this Furisode?
Silk? or Polyester?
It is difficult to distinguish from the photos, but actually it is polyester and easy to take care of.
Now, most of you may already know well about character and difference of textiles such as silk, cotton, 'Jinken'(rayon), polyester and so on. We will write about the materials of kimono.
Ichiro(the president of ICHIROYA) wrote 'How to know the material of kimono' on his blog 3 years ago. So let us introduce it in English in serial (1)-(4).
We are including the burning test video (Youtube) too. We hope you enjoy the video too.
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How to know the material of kimono (ICHIROYA's definitive edition)
First of all, you have to understand the basic things what is fiber made of before distinguishing.
At the same time, the specific terminologies in kimono business which are spoken incorrectly need to be corrected.
(1) silk
Both 'exquisite silk' and 'silk' are silk. YES!
You understand such a thing, right?
Then, how about 'synthetic' and 'blend' ?
Actually, these two words are mixed up in kimono business.
'Synthetic' is an artificial fiber in other words. Fiber is made of yarn and yarn is made by human. Basically, synthetic has some different kinds.(details will be mentioned later)
'Blend' means it is woven with plural materials.
For example, jinken (rayon) and silk blend is common. As for old ones, jinken (rayon) warp and silk weft is popular combination.
According to the definition of words, 'asa and cotton' and 'basho and asa' should be called blend. But in kimono business, 'blend' indicates materials made of both 'artificial fiber and natural fiber'.
Even so, 'blend' is often used as synonymous with 'synthetic' unconsciously.
Now let's see, what is fiber made of?
Strictly speaking, what is yarn made of?
"The yarn is made of protein or cellulose or one of the oil."
If you understand this, it is easy afterward.
First, What is a thing made of protein?
Yes, silk is the representative one.
The secretion which comes from silkworms is made of protein.
Wool which is hair of sheep is definitely protein.
By the way, what will happen when I put protein on fire?
Let's remember an explosion scene of comedy movies and dramas.
Faces are sooty, and hair gets frizzily, not flare up.
The movie below is my burning test of silk, both the warp and weft yarn.
https://youtu.be/5OQnn691e7M
Followings are the features of silk burning test.
*The fire goes out soon, and does not spread.
*The black ash is easily crushed by fingers.
However, most of fabrics dyed in black do not create such a black ball after burning because of the dyestuff. In addition, the flame is delivate, does not blaze up.
If you are checking such fabric to know it is silk or 'Jinken'(rayon) , you should judge it from texture by touching it, because there is no easy method to determine those two fabrics.
短編小説17 『星の振袖』
photo by Jukka Hernetkoski
妻の純子が天体望遠鏡を買った。
「藍子の勉強のためにもなるし」
純子は言うが、ビクセン・ポルタII とかいうその天体望遠鏡は、れっきとした大人の天文観測入門機らしく、子どもが簡単に扱えるものではない。
結婚して10年、2年目に生まれた長女、藍子は、まだ小学校の2年生である。
僕は憤慨した。いや、それ以上に、真っ暗な底なしの穴に吸い込まれたような不思議な気分になった。
第一に、数万円ものお金を夫婦どちらかの趣味に使うのなら、僕の了解があってしかるべきだ。だって、僕にしてもそんな金額を趣味に黙ってかけたことはないし、そういう場合はいつも、ボーナスを見据えて半年近い根回しをしたうえに、幸運にも説得が成功した場合にのみ、許されてきたのである。
第二に、いったい、いつから純子は星や宇宙に興味を持つようになったのか。彼女の一番の趣味と言えば、結婚前から続いているアンティーク着物である。結婚前、デートにはときどき、着物で現れた。彼女がよく着ていたのは銘仙と呼ばれるカラフルな織りの着物で、大正時代や昭和初期のおしゃれな女性たちがファッションセンスを競ったものであるという。結婚式では、着物はレンタルを使わず、自分でみつけてきた黒の振袖を着た。孔雀や雀とともに、薔薇やタンポポなどの洋花が染められた艶やかなもので、ところどころに精緻な刺繍が施された、そういうことには詳しくない僕をも驚かせる、たしかに豪華極まるものであった。
子どもができて、仕事を辞めてからは、育児に忙しく、また、金銭的にも余裕がないことから、彼女のアンティーク着物趣味は下火になっているようであった。藍子が小学校へあがってからは、また、徐々に着物を買うようになっていたが、再開した仕事も近所の専門商社のパートの事務職で、小遣いに回すほどの余裕があるほどではない。しかし、そこは母になり年を取ったことで鍛えた顔の皮膚(ツラノカワ)の厚みを武器に、値切ったり、ヤフオクで掘り出しものを探したり、自分で手直ししたりして、安価に楽しむ術を身に着けているように見えた。
が、そこへ突然の天体望遠鏡である。
なぜ、急に、天体観測なのか、という僕のごく当然の問に、純子の答えは明確ではない。
「月のクレーターとか、土星の輪とか、木星の模様とか、見てみたくなったの」
「だから、なぜ、急に、そうなんだよ」
「理由なんかないわ。ただ、見たいと思っただけ」
「突然にか?」
「そうなのよ。自分でも不思議なんだけど」
テーブルの向かい座った純子の表情に、不思議と陰がない。自分でも、突然、身内から湧き上がって、天体望遠鏡を注文させた自らの欲望を、持て余しているようでもある。
「ごめんなさい。もう、無駄遣いしないから」
だが・・
――― 男ができたのか。
ついに疑念がアタマの中ではっきりとした言葉になった。一般的に、結婚して10年目の夫婦がどんなものであるか、僕にはわからない。すくなくとも会社の先輩たちの話を聞いていると、色褪せない桃源郷でないことはわかる。が、純子のこころが、僕に向いておらず、どこかほかの方向にふらふらと漂っているような気がするのである。
「昔とは違うよね」
「それはお互い様よ」
そんな会話をしたこともある。
――― お互いさまなのか。
そう思って自分の純子に対する気持ちを、あらためてみつめなおしてみる。そうなのかもしれない。純子から僕を見ると、僕のこころも純子から離れて漂っているように見えるのかもしれない。
わからない。ほんとうに、それだけのことなのか。
誰に導かれることもなく、たんなる倦怠が、純子を宇宙に導いたのか。いや、やはり、いくらなんでも、唐突に過ぎる。彼女は根っからの文系の人間で、小説やファッションや身近の人間に深い興味を示すけれど、宇宙がどうなっているのかとか、相対性理論っていったいどういうこととか、そんなことに好奇心を燃やすタイプではけっしてないのだ。
「ねえ、来て!」純子がベランダから僕を呼んだ。「月のクレーターが、はっきりと見えるわよ!
「見たくないよ」
僕はそう吐き捨てて、ビールを煽った。
ベランダでは、僕を呼ぶのを諦めた純子が望遠鏡を覗き込んでいた。
そして、大きな満月がちょうど僕からも見える角度に上がって、燃えていた。
望遠鏡の巨大なダンボールを折りたたんで大型ゴミに出し、その不穏な望遠鏡が家のうちにともかくも居場所をすえた頃。
深夜、目覚めた僕は、妻のベッドが空であることに気づいた。
スマホを確かめると、午前2時前である。
――― また、望遠鏡を覗いているのか。
いったんはそう思ったものの、その夜は雨で、厚い雲におおわれているはずであることに気がついた。しばらく、ベッドの上で息をひそめていたが、妻が帰ってくる気配はない。
僕はそっと起き上がってベッドから出た。
寝室からキッチンに出る。キッチンはライトが消されたままである。そっと歩いて誰もいないリビングを横切り、廊下に出る。トイレのライトもついていない。子ども部屋のドアをそっと押し開ける。藍子は暗闇を怖がるので、オレンジ色の小さな常夜灯が点けられている。薄い布団が藍の身体の形に盛り上がっている。純子はいない。家にいるなら、残るは和室だけである。そっとドアを締めて和室に向かった。
和室と廊下を隔てる引き戸の中央の隙間から、うっすらと明かりが漏れていた。
和室も常夜灯が点いているようだ。
忍び足で近づいて、隙間に目を近づけた。
和ダンスの前に、純子の姿が常夜灯の灯りにぼんやりと浮かび上がっていた。
黄色っぽい花柄のパジャマ姿で、足をきちんと揃えて背を向けて座っていた。
純子の表情は見えない。身体の前に着物でも広げているのか、ゆっくりとそのものを撫でているような動作をする左手が見えていた。
異様。
はじめて見る純子の違和感を感じさせる行動と姿であった。
たまらず、僕は力を込めて引き戸を引き開いた。柱にあたった引き戸は、ぱあんという乾いた音を立てた。
妻が振り向いた。
その顔は・・・
いつもの純子の顔であった。そこには、驚きも、後ろめたさも、なにも特別なものはなかった。
「ゆっくり開けてよ、びっくりするじゃない」
「こんな夜中に、なにしてんだよ。こっちこそ、びっくりするじゃないか」
「眠れないから、好きな着物、出して、見てただけよ」
「こっちは、若年性認知症にでもなったのかと思って、肝を冷やしたよ、まったく」
純子は笑顔を見せると立ち上がり、蛍光灯の紐を二度引いて明かりを点けた。
部屋には白い明かりが溢れかえり、僕は眩しくて目を細めた。そして、明かりに慣れたころ、純子は足元に広げていた着物の肩あたりを取ると、裾を投げ出して大きく拡げた。
着物には素人の僕にも、その素晴らしさはわかった。
それは黒地の振袖で、ホンモノのアートや美術品、工芸品にだけ宿るオーラを発していて、それが僕の心臓を射抜いたのだ。
漆黒の地に描かれているのは、星々であった。大きく細密に描かれた月のクレーター、土星の輪や木星の模様も華やかに再現されている。星雲や流れ星がその間を埋めている。そして、アールデコ調の「さそり」や「うお」や「かに」や「ひしゃく」模様に加えて、ロケットや飛行船、複葉機など、空を飛ぶものがレトロなタッチで色とりどりに描かれている。さまざまな技法による刺繍も全面に施されていて、その意匠に華やかさと立体感を与えていた。
純子が言った。
「古いのよ。ほら、飛行機とかロケットの絵でわかるでしょう。大正頃につくられたもの」
―――そうなのか。大正期にも、こんな突飛なデザインを好む女性がいたのか。
純子の説明に僕は驚嘆をさらに深くした。
「私もこんなアンティーク振袖、見たことない。博物館級よ」
「有名な人の作品なのか?」
「落款はないわ。それに、当時の染織会の有名な天才たち、たとえば、皆川月華とか野口真造とかの作風とは、ちょっと違うの。誰の作だかわからないけど、とんでもない作品であることは間違いないわ」
「買ったのか?」
純子は頷いた。
「いくらだよ?」
「10万円」
「10万円?」
――― どれほどの逸品だろうが関係ない。望遠鏡だけでなく、こんな振袖まで、僕に相談することもなく、買っていたとは、いったいどういうことだ。
「この前、もう無駄遣いはしないって約束したばかりじゃないか。なんの相談もなく、いったい、どういうことなんだ? 」
「ごめんなさい。でも、この振袖は望遠鏡の前、先月に買っていたのよ」
激しい怒りがこみ上げて来た。
「たまたま、持ち主と縁があって譲ってもらったのよ。でなきゃ、最低でも50万、アンティーク着物の業者の手に渡ったら、100万は軽く超える値段になるはずよ」
僕が怒る理由がわからないとでもいうような表情で、純子はそう言った。
「50万とか、100万って、お前の希望的評価だろ!」
「そんなことないわよ。だって、私の結婚式の時のアンティーク振袖でも、20万近くしたのよ。あれはあれで、素晴らしい仕事の逸品だったけど、天才のひらめきのない、ある意味普通の振袖だったわ。でも、これは違う」
「そんなに凄いものなら、なんでその人は、お前に、たった10万円で売ってくれたんだよ」
「なぜか知らないけど、私のこと気に入ってくれたんじゃないかしら。お金じゃないって。あんたに持って欲しいんだって」
「そいつって、男なのか」
「そうよ。だったら、なに?」
――― やっぱり、男ができてるんじゃないか。博物館級の振袖をたった10万で与え、天文観測の趣味を吹き込んだ男。しかも、純子は隠しもしない。隠す気がないということは、離婚の覚悟までできているということではないのか。
「誤解のないように言っとくけど、その人は70歳を超えたお爺さんよ。先々月の若冲の展覧会で会ったの。たまたま、同じ絵で長く止まったり、していたみたいで、ずっと一緒になって、最後にソファに座っていた時に、声をかけられたのよ。その時、私、一番お気に入りの大正ロマンの着物に、蝶の柄の丸帯をしてたんだけど、『古いお着物でしょう、素敵ですな』って」
「70歳を超えるお爺さん」と聞いて、僕はいくぶん冷静になった。
純子の話によれば、かなり混んでいた展覧会で、純子が前後の来場者に気を使い、礼儀正しくしていたことも、その老人に気に入られた理由らしかった。ともかく、老人は純子を気に入り、貰って欲しい古い着物があると打ち明けた。都合のついた翌週のある日、ふたりは博物館併設のカフェで会い、風呂敷に包まれたその振袖を見せられた。老人は「貰って欲しい」と言ったが、純子はそれが博物館級のものであることにすぐに気づき、貰えないと断った。
「この振袖はあなたのものになる運命だ。でも、わかっていただけないようだ。貰っていただけないなら、買ってくださればどうかな?」
「これに見合うだけの金額を出す余裕がうちにはありません」
押し問答になった。
そして、結局、純子は10万円でその振袖を譲り受けることになったというのである。
僕は半信半疑でその話を聞いた。
たしか振袖は、未婚女性の正装のはずである。純子はそれを着る資格はない。僕と離婚でもしない限り。
「藍子が二十歳になったら、成人式に着られるのか?」
「生地は透けているでしょう? 絽っていうのよ。この振袖は、夏用。だから、成人式には無理。それに、あまり丈がないから、藍子が私ぐらいの身長でとまればいいけど、あなたの血をひいて普通に大きくなったら、小さ過ぎて着られないかも」
「我が家の誰も着られないかもしれないものに、10万円使ったってことか?」
僕の至極まっとうな問に、純子は無言で何度も頷くだけであった。
七月の上旬、もうすぐ七夕という平日の夜。
テーブルに遅い夕食を並べた純子が、待ちきれなかったとでも言うように訊ねた。
「ちょうど、藍の収穫時期なの。徳島のXさんの藍染の工房へ見学に、着物友達と行くのよ。私のN-BOXで、一泊二日。いいでしょ」
「そりゃかまわないが、急じゃないか」
「収穫は天気と相談だからね。今週末の土日は、晴れでいい天候らしいわ」
「藍子はどうするんだよ」
「あなたが見ておいてくれたらいいじゃない」
「俺も、ゴルフなんだよ」
「じゃあ、実家に頼んでみる」
週末を巡る話はそれで終了となった。
もちろん、僕にとって、それは終わらない話であった。
――― ついに、一泊二日の旅行か。
天体望遠鏡と振袖に象徴される純子の不審な態度への疑問は、振袖の元のオーナーが老人だったと聞かされても、すべて溶解したわけではなかった。とにかく、話に現実味と納得感がないのである。ここ何か月かの心ここにあらずといった純子の様子は、僕にすればただならぬものであった。
なにかを隠している。
ほんとうに「70才を超えるお年寄り」である保証もないし、その人がかなりの年配の人であったとしても、なにか特別な魅力をもった人である場合だってある。僕は純子の着物友達を知らない。彼女がひとりで行くのか、向こうで誰かと会うのか、確かめようがないのである。もちろん、帰ってきた彼女に、仲間と工房の前で撮った写真を要求することはできる。だが、それだって、事前にどこかで撮ったものを用意しておいて言い逃れるということだってできるかもしれない。
僕は人よりとくに猜疑心の強い人間ではない。つきあいはじめて結婚し、すでに12年は経っているが、純子の言葉を強く疑い、なにがなんでもそれが本当か確かめなければならないと思ったのは、これがはじめてのことであった。
翌日、週末のゴルフを断った僕は、営業先を回る合間に電気街に寄り、GPS発信機を買った。ネットで調べた通り、それを車のどこかに仕込んでおけば、いつでもスマホで位置の確認ができるのである。
これさえあれば、もう一台の自分と家族用の車、オデッセイでも、純子に気づかれることなく尾行できる。
金曜日の夜、遅くに帰宅した僕は、玄関のドアを開けるまえに、駐車場に入って、純子の軽、N-BOXのスペアタイアのホイールの裏に、黒い布テープでタバコの箱程度のサイズの発信機を貼り付けた。
その日の朝、ゴルフバッグを積んで、純子より早く、5時に家を出た僕は、1時間強をかけて、藍子を実家へ送り届けた。
藍子のためにも、いい父であり、いい家庭人でありたいと願って、仕事でも家でも頑張ってきたはずである。
藍子の無垢な笑顔が胸に沁みた。
車に戻り、スマホのアプリをオンにする。
地図が表示され、純子のN-BOXが、自宅から最寄りの高速入り口へと向かう途上にいることがわかる。縮尺を最小にして大きな地図で表示させると、点が動き車が確かに走っていることがわかった。
どこで仲間を拾うつもりだろう。すでに移動した経路が線で表示されている。駅や誰かの家など回り道をした様子はなく、家から高速入り口へは最短経路を通っているように見える。それとも、その経路の途上を待ち合わせ地点として、すでに仲間を拾ったのだろうか。
僕はゆっくりと車を発進させて、高速の入り口に向かった。
急ぐことはない。純子は徳島へ行くと言っていた。
おそらく、それは本当だろう。
車にはETCもついているので、まったく別の目的地へ向かうとすれば、わざわざETCカードを抜いたり、動作しないように壊してしまうような不自然なことが必要となるからだ。
だから、あまり急ぐ必要はない。
明るい昼間にあまり近づくと、きっと尾行がばれてしまう。
そのために手配したGPS発信機である。距離を詰める必要はない。が、まったく距離を考えなくてもよいかといえば、そうでもない。発信機は車についているので、サービスエリアなどで車を置いて、誰かの車に乗り換えられてしまえば、帰りを待つしか手がなくなってしまう。
道路はさほど混んでおらず、最初のサービスエリアでの休憩で、僕は純子の車に追いついた。充分な距離を離して駐車した僕の車から、白いN-BOXから降りてくる軽いサマーワンピース姿の純子が見えた。
純子はひとりであった。周囲を警戒するような素振りもみせなかった。
純子はそこでひとりで昼ごはんをとった。
その後も何事もなく僕は純子の車を追い、橋を渡って四国の地を踏んだのが、昼の2時であった。その約30分後に、僕らの車は徳島市街に入った。
徳島市街に入ってからは、離されることも覚悟して距離をとった。案の定、信号で離され、車の姿は見失った。
スマホの経路を辿って走っていると、ほどなく点の動きが止まった。そのまま通り過ぎれば、降りてきた純子に見られるかもしれない。僕はスピードを落として、その位置の少し手前で、シャッターの降りた店舗の前に車を停めた。ハザードをつけっぱなしにして、その場に車を残し、純子が車を停めたはずのところまで小走りに近づいた。
純子のN-BOXは、旅館「すくも」の専用駐車場に停められていた。旅館は昭和中期頃に建てられたに違いない、趣のある2階建ての小さな和風建築であった。
僕はいったん車に取って返して、車を近くの有料駐車場に入れた。駐車場から旅館の玄関は見えない。車を捨てて、路上で玄関を張り込むことにした。
この旅館で誰かと落ち合う予定なら、やがて、出てくるだろう。
――― 出てくる? ほんとうに出てくるのか? 部屋にこもったまま、明日の昼まで出てこなかったら・・・しかも、男と出てきたら・・・
そういう最悪の場合もあるかもしれないと思ったからこそ、GPS発信機まで入手して、こうやって純子のあとを追ってきたのだ。
もし、そうだったら、それまでのこと。別れるまでと思って。
だが、頭のなかで、その想像に色がつき、生々しくと動き始めると、それは僕の胸を深く鋭く刺した。
そして、僕ははっきりと悟った。倦怠の霧が厚く覆い隠していた僕の本心を。
真っ赤に染まった夕焼けは、その日、徳島の空では、僕の血の色であった。
すでに2時間経つが、純子は出てこない。すくなくとも、着物友達といっしょに、藍の収穫を見に行くという話が、嘘であったことは間違いない。
絶望を胸の奥に押し込もうとしていたそんな時、黒い着物を着た女性が旅館の玄関から出てきた。
顔を確かめる前に、すぐに後ろ姿になった。袖が長い。振袖だ。
そして、その柄は・・・
星だ。
月面や土星や木星や、天の川や、ロケットや飛行船や複葉機を描いた、あの振袖だ。
純子が、既婚者の純子が、あの振袖を着て、いま、ひとりで旅館を出たのである。
純子は駐車場に向かうと、自分のN-BOXに乗り込んだ。
純子の車は徳島市内の繁華街に向かうものと思い込んでいた。
が、GPSの示す点は、南下していた。やがて、その点は国道55号線に入り、海沿いに出て、そのまま南下を続けた。
その延長線上にあるのは室戸岬である。
わざわざ振袖に着替えて向かうところなどあるのだろうか。
穏やかな太平洋を望む海岸線の道は見通しがよい。空も海もその青さ、明るさを失っていて、完全に日が暮れるまでわずかの時間しか残されていないのがわかる。が、それまでは、大きく距離をとるほかはない。
スマホを睨みながら55線を南下して、2時間も経っただろうか。すっかり日が暮れて、僕は純子のN-BOXのテールランプを遠くに視線に捉えながら車を走らせていた。
あと数分で室戸岬の先端に達するというころ、突然、純子の車が道路脇に停車した。おそらくそこが目的地なのであろう。僕はそこで急減速して、車を路肩に寄せた。すぐにライトを消す。
50メーターほど先、海側に突き出た路肩のスペースに、純子の車が止められている。
後ろの車の不審な動きを気づかれたかもしれないが、それまで、まったく尾行を気にしていた気配はない。絶対に、気づかれてはいない、僕は確信していた。
やがて、運転席のドアが開いて、純子が出てきた。
街灯もほとんどない、闇夜の中である。黒い振袖を着ているはずだが、それが見えようはずもない。
純子は車の後ろを回ると、風に長い袖と裾をはためかせながら、堤防の上を歩いた。
そして、浜に降りると、そのままゆっくりと、海岸線に向かって歩き出した。
僕も車を降りた。
純子のいる浜に向かって、全力で走る。
潮風が強い。
純子! 叫んでみるが、その声は風に押し戻されて、とうてい純子には届きそうにない。
見る間に、純子は波打ち際に歩み寄っていた。
――― 海に入って死ぬつもりだ。
なぜか、僕はそう思った。
――― 死ぬな!
僕は声を限りに叫びながら、堤防を走り、浜に飛び降りた。
そして、岩混じりの砂浜に足を取られながら、純子の元へと走った。
純子は波から少し距離を置いたところで、立ち止まり、空を向いて目を閉じていた。
間に合った、僕は後ろから肩を掴んで、揺すぶった。
「純子、なにしてるんだ!」
純子はゆっくりと目を開いて、僕を見た。
「あれ、来てたの」
「来てたのはないだろう、心配で着いてきたんだぞ。どういうことなんだ」
純子はゆっくりと右手を上げて、空を指差した。
その時、僕ははじめて気がついた。
満天の星であった。
その時まで、見たこともないというな星の数であった。いつの間にか漆黒の空には深い奥行きがあり、そこには無数の輝きが散りばめられていた。たしかに、僕らの星は、その星々の中にあるのだが、そのことが実感として迫ってきた。宇宙には、1000億個の1000億倍から2000億倍の星がある。そこで見上げている夜空は、それをはっきりと教えてくれるのだった。
僕は息を飲んでその夜空、いや、宇宙を見上げた。
「凄いでしょ、星。ネットで調べたんだけど、私達の家から、もっとも近くて、最高に星が見える場所は、ここなのよ。調べた通りだったわ」
「星が見たかったなら、そういってくれればいいじゃないか」
「うん、ごめん。でも、私も見たかったけど、それだけじゃないの。ほんとうに星を見せたかったのは・・・・」
純子は袖口を内側からつまむんで、星空の抱くように両袖を拡げた。
振袖の星模様のところどころに施された金銀糸が、星々の光に呼応するように、きらきらと輝いていた。
「この振袖」
「振袖に?」
「アタマ、変って思うでしょ。だから、言えなかったのよ」
僕らはそこで、まだかすかにぬくもりの残る砂浜に腰を下ろした。
静かに寄せる波の音を背景に、純子が、その星の振袖を譲って貰った時のことを話した。
それはたしかに、奇妙な話であった。
その振袖は、自分の父の兄弟のひとりが、東京友禅の職人に指示して作らせたものだと、老人は言った。
――― 生糸の相場で財をなした自分の叔父が、花嫁となる相手に、この特別な振袖を別注した。花嫁は当時の進歩的な女学生で、天文学にも興味を持ち、いまでも活動を続ける由緒ある『日本天文クラブ』の第一号の女性会員だったという。そんな宇宙と星の好きな彼女のために、この振袖は、金に糸目をつけず、結婚式のために特別に制作されたものなのであった。しかし、叔父は出征となり、結婚は延期された。結局、叔父が終戦後も戦地から帰ってこなかっただけでなく、新婦も空襲で命を落とした。
そして、この星の振袖だけが、着られることもなく、残された。
叔父の遺品を整理した父は、この振袖の存在を聞かされており、大切に保管して子どもであるその老人に託した。が、今になってみると、老人には着物の価値を知ってそれを大切に後代につたえるにふさわしい子どもや孫はいない。どうすべきかと思い悩んでいる時に、純子と会ったのだと言う。
だが・・・
星の振袖を譲るかわりに、条件があると老人は言った。
それは、その振袖にとって良いと思えることはなんでもやってくれ、ということであった。
古い着物の保管にはそれなりの注意が必要であることは、純子はよくわかっている。
が、「なんでも」とは、どういう意味かと、不思議に思った純子も訊ねた。
―――それは、君次第だ。君がそうと感じることをやってくれれば、それでいい。振袖がきっと喜ぶ。
「変な話でしょ」と純子が強い潮風に目を細め、めくれた裾を押さえた。
「そうだな」と僕。だが・・・
――― 『振袖が喜ぶ』とは?
「あなたに相談したら、きっと、そんな変な取引はやめておけ、きっと裏があるからって言ったでしょう?」
「たぶんな」
「でも、私、この振袖に参っちゃったのよ。ほんとうに、こんな逸品、どこを探してもないわ。見せられた途端、欲しくて欲しくて仕方がなくって・・・」
純子のそういう気持ちは、わからないでもなかった。純子はもう何年も、アンティーク着物の展覧会へ行ったり、本を読んだり、自分でも買い集めて着ることを楽しんでいたのだから。
だが、真偽の定かでない、奇妙な話であることは間違いない。
しかも、純子の行動も、常軌を逸しているようにも見える。
「つまり、そういう成り行きだったから、その振袖に、大正時代の頃のような、満天の星空を見せなけりゃ、と君が考えたってわけだな」
僕は頭のなかでこんがらがった糸を解きほぐすように言った。
「そうね、たぶん、そうだわ。『わたしが』そう考えたから、こうやって、ここにこの振袖を連れてきたに違いないわ」
「たぶん、ってどういうことだい?」
純子は答えなかった。
僕にも、純子の答えに想像がついていた。
この星の振袖にはなにかが宿っていて、そのなにかが、純子を、そして、ひょっとすると僕をも、ここへ導いたのかもしれなかった。
だが、それを口に出すことも、それをあえて口に出してから否定することも、なにか大きなものを冒涜しているように感じられた。
僕は純子の肩を抱いた。
そして、黙って水平線の上に広がる無限の宇宙と星々を見つめた。
ともかく、純子が今まとっている星の振袖がなにものであったとしても、どんな謎をはらんでいるとしても、目の前に広がっている大宇宙の存在の謎に比べれば、たいして不思議でもない。
それよりも、僕と純子との関係が、いままで通りであることに思い至って、僕は深く安堵の溜息をついたのである。
短編小説16 『MGB』
photo by Ian Southwell
「お前の骨は拾ってやるから、安心しろ」
安木部長はたしかにそう言ったのだ。
今は平成の時代で、昭和が終わってから、すでに二十年数年以上、世の中は流れているはずである。だが、僕の勤めるこの会社、ある大手通販専門会社では、どうやら時の流れは止まっているらしい。
「わかったな」
なんでもお見通しだというような鋭利な視線で僕を射抜いた安木部長は席を立った。
はいとも、いいえとも、僕は答えられずにいた。
いや、ひょっとしたら、無意識に、僕は小さく顎を引いてしまったのかもしれない。
答えを聞くまでもない、ドアを開けて面談室を出て行った安木部長のグレーのスーツの広い背中がそう言っていた。
呆然とソファに座ったまま、僕はすぐに腰をあげることができなかった。
翌日、新規サイトの概要を取締役のひとりにプレゼンするのである。新規サイトは、ある最新のインクジェットプリンターを利用して、オンデマンドでファッションアイテムを作ってお届けするという計画である。何万、ひょっとしたら何十万というデザインを提示し、モデリング技術によって着装写真を作成し、それで商品ページをつくる。お客様からサイズや色を含めたオーダーをもらった時点で、弊社に導入予定のインクジェットプリンターで生地に柄を印刷し、それを国内の協力縫製工場に回して、商品を仕上げる。アイテムによっても異なるが、計画では、注文からお届けまで、1、2週間で完結する。
デザインは著作権の切れた古いものでもよいし、若手のデザイナーに依頼し、販売数に応じてデザイン料を支払うということもできる。
売れないものにまでデザイン料を投資する必要はなく、なにより、ファッションビジネスのネックである在庫をもたなくてすむようになる。モデリング技術を使うので、モデルに着せて写真を撮るためのサンプル一着分すら、つくる必要がないのである。
この新規サイトの事業計画書を書いたのは僕であるが、実質の起案者、発案者、そして、それを推し進めようとしているのは、僕の上司、山岸課長である。
鬼上司だ。
今回の企画書も、すでに10回以上書き直しを命じられた。翌日までに、まだ、修正しなければならない宿題が残っている。
山岸課長はゴジラのような顔をして、自分にも部下にも関連部署にも、とうてい達成できないような目標を掲げる。そして、しばしば、口から火を吹きながら、前に進む。いつも崖ギリギリのエッジを。僕ら部下は、弱音を吐き、あるときは泣きながら、そして、肝を冷やしながらついていく。で、いつも、最終的には、山岸課長は目的地に達する。それが最初思い描いていた通りのものでない場合も多いが、ぎりぎりのところ、当初の目標を達成したといえるところまでは、必ず連れて行ってくれるのである。
ようやく、ゴジラは笑う。
満身創痍になりながらも、僕らは山岸課長を畏怖とともに見上げ、やっと終わった、仕方がない、またついていくか、と安堵の溜息をつくのである。
もちろん、いろいろと言う人もいる。議論の過程でプライドをずたずたにされ、はっきりと、嫌いだ、憎んでいるという人も多い。
だが、僕は山岸課長が大好きであった。
仕事だけではない。山岸課長はとてもおしゃれな人で、同年代の社員はもちろんのこと、会社にいる若手を含めて比べても、ベストドレッサー賞ものであった。たとえば、車は1970年代のイギリスのツーシーターオープンカー、MGBに乗っているのである。
あんな山岸課長の下で耐えているな、他部署の人にたびたびそう言われた
が、山岸課長も僕を買ってくれているということが、僕の組織人としての誇りでもあったのだ。
あの、とんでもなく高いレベルを常に部下に求める山岸課長に、仕えて、耐えている。それだけでも凄い・・・
僕と山岸課長の上司である営業企画部長の安木部長は、山岸課長とは正反対の人である。
アイディアとか、独創とかとは無縁の人で、いわゆる「調整型」の大人の組織人であると言ってよい。
それだけではない。企業人に必要な強さも持っている。数年前の業績不振時に、サイトやカタログの整理をやったのだが、人員整理を含めて、無事着地させて、いったんは赤字体質から脱却させたのは、当時、事業改革室の室長であった安木部長の手腕に負うところが大きいと言われている。
まったく異なるタイプのふたりだ。もちろん、仲はよくはない。
山岸課長の理想と、安木部長の現実が、いつも激突する。
ふたりが直属の上司部下の関係になってから、もうすぐ一年。
これまでは、お互いになんとか正面衝突を避けて、小さく譲歩しあってきたのだが、ついに、恐れていたその日がやってきた。
安木部長は、新規サイトのプランに懐疑的だ。
とくに、導入予定のインクジェットプリンターによるプリントの品質に不安があると言う。
たしかに、染色堅ろう度が、うちの基準をやや下回る部分があるのである。
山岸課長は力説した。
これはまったく新しいファッションビジネスの業態であり、染色堅ろう度が劣ることは、お客様に啓蒙しながら販売すれば、問題はない。それに、革新著しいプリンター技術は、その問題も近い将来、必ずクリアするに違いない。とにかく、今、先頭を切って、うちがやるということが、何よりも大事なのだ、と。
「そんな言い訳が通用するのか? クレームのヤマになったら、新サイトだけでなく、本体も揺らぐぞ」
安木部長はそう言ったのだが、山岸課長は、ふんと鼻を鳴らしただけであった。
――― リストラしか知らない、わからず屋の、臆病者め。
きっと、そう思っていたに違いない。
いつものように、安木部長は山岸課長のこの提案を否定はせず、動木(とどろき)取締役に相談するから、その人にプレゼンせよと言ってその場を納めた。
そして、その取締役へのプレゼンの前日、山岸課長が退社した後に、僕は安木部長に呼ばれて、「骨を拾う」話をされたのだった。
――― お前が書かされた新サイトのプランはだめだ。社長や取締役会に諮ったら、舞い上がって採用されるかもしれない。だが、あのプランは、あまりに楽観的でリスクが高すぎる。やっと立て直した会社を、潰してしまう。明日、説明の後に、俺がお前の意見を聞くから、プリントの堅牢度にやはり問題が残っていて、今、取り組むには時期尚早だ、と言うんだ。
僕は、はい、とも、できません、とも言えなかった。言いたいことはあったが、それはすでに山岸課長がプレゼンの時に、安木部長に話していた。
それに、安木部長は僕の意見を求めているのではなかった。
僕の意見がどうであれ、山岸課長を裏切れ、と言っているのである。
そして、その見返りに、将来を約束されている自分が、僕の会社での将来を保証してやると。耳慣れない「骨を拾う」という言葉の意味が、想像どおりのものなのだとすれば、である。
鋭利な刃物のような眼差しで突き刺し、僕の心を殺したと確信したのであろう、安木部長は多くを語らず、応接室を出て行ったのである。
山岸課長の宿題を仕上げて家に帰った時には、11時を回っていた。妻の佳子が夕食にカツを用意して待ってくれていた。
僕はいつものように缶ビールを一本開けて、ニュース番組をつけた。
向かいに座った佳子は、僕の様子を探っていたようだが、やがて言った。
「ねえ、今、話、聞ける?」
――― 聞けない。
とは言えない。
僕が捉えられている罠がどんなものか、リアルに説明するためには、何時間も要る。
僕はテレビから視線を引き剥がして、佳子の方を向いた。
「純ちゃんがね、公立高校、やっぱり、あそこで挑戦したいみたいよ。だめだったら、私立になるかもしれないけど、うち、家計大丈夫かしらね。家のローンもあるし、私、もうちょっとパート増やさなきゃだめかしら」
「俺の給料は・・・」
僕は目を瞑った。
――― 山岸課長の下にいれば、副業などしている暇はない。転職? より条件の良いところに移るほどのスキルを身に着けているか、自分をほかの会社の人事部に売り込むことなどできるのか、まったく自信がない。会社で頑張って給与を上げてもらうしかない。立ち直ったとはいえ、会社は水面ぎりぎりだから、ボーナスや定期昇給に期待はもてず、唯一望みがあるのは、昇進して役職給与をもらうことだ。山岸課長についていけば、会社を劇的に生まれ変わらせることができるかもしれない。会社での出世や昇給も手に入るだろう。だが、それほどの成果をあげることができないまま終わるとすれば、山岸課長のこれ以上の出世はなく、安木部長の手を噛んだ僕の会社での将来は、真っ暗なものになる。安木部長の言う通りにすれば、安木部長が引き上げてくれるかもしれない。おそらく、会社の中でふたりの出世の見込みを秤にかけるとすれば、誰もが安木部長に軍配をあげるだろう。だが、心酔している山岸課長を裏切った自分を、いつまでも背負っていかなければならないのだ。山岸課長に睨まれ、憎悪されながら、この会社で働き続けるなどということに、僕の神経は耐えることができるのだろうか。
「悪い・・・ちょっと、会社でたいへんなんだ。その話は、週末まで待ってくれないか」
「会社がたいへん、って、いつもじゃない。私なんかと、話をする時間はないのね」
佳子は怒って席を立った。
もし、上司たちをタヌキとキツネのどちらかに分類するとしたら、動木取締役はタヌキそのものであった。
応接室のソファに座ったのは4人。僕と僕の隣に山岸課長。僕の向かいが安木部長で、その隣に動木取締役。
3人のただならぬ様子に、動木取締役はつまらない冗談をひとつ言ったが、その冗談は完全に黙殺されて、緊張の糸はさらに張り詰めた。
安木部長に促されて、山岸課長がプレゼンの前振りを始めた。
「このプランは、ファッションビジネスの新しい業態を切り拓くものになります。そもそも、ファッションとは、人と異なるものを、だけど、多くの人がかっこいいと思ってくれるものを着たい、それに応えるものかと思います。たくさんの顧客のそういった要望に応えるためには、膨大なアイテム数が必要となります。が、ビジネスとしては、少数の売れ筋アイテムに集約しなければ、利益は望めません。このオンデマンド・システムであれば、その背反するニーズとビジネスを両立させることができるのです―――」
僕はまだ迷っていた。
どうすべきか・・・
この会社に大卒で入れてもらって、今日まで8年間、自分なりに一生懸命働いてきた。誰のためとか、出世のためとか、そんなことを強く意識したことはなかった。お客様と会社のことをまっすぐに考えていれば、そういうことは自然と解決するものと思っていた。
なぜ、こんなことになってしまったんだろう?
大好きな上司を裏切って、有力者に取り立ててもらうか、有力者に背を向けて、心酔する上司の冒険にかけるか。
正直に言って、僕は、今回のプランの成否に対して、いまだに、確たる判断がつかないのだ。
もちろん、このプランには胸躍るし、大きな可能性を秘めているとは思う。だが、安木部長が言うように、品質面での弱点があり、それがどの程度お客様に受け入れられるのか、既存のビジネスにどんな影響をあたえるのか、大いに不安でもある。
お前の意見はどっちだ、と訊ねられたら、どちらを答えても、本気半分、嘘半分となる。
それでも、僕は、どちらかを選ばなければならないのだ。
そんな日がやってくるとは・・・
「おい、栗田、なにぼんやりしてるんだ。説明しろ」
山岸課長の怒りを抑えた声に、我に帰った。
「では、お手元の資料を元に説明させていだきます―――」
プレゼンはうまく行った。大きな不安を抱えていたのだが、不思議と口は滑らかに回った。
時に顔を上げた確認する動木取締役の表情は柔和で、同意の頷きをみせているように思えた。
――― このまま、承認されて、安木部長のあの質問はなくなってくれ。
そう願いながら、僕はプレゼンを終えた。
山岸課長がソファの上で腰の位置を変えて、補足説明を始めた。
動木取締役は、やはり深く頷いている。
山岸課長に促されて、僕は手提げバックから、プリントの見本を出して、動木取締役に手渡した。
「発色、精密さ、パソコン画面との色の一致、どれをとっても、問題ありません」と山岸課長。
動木取締役がいくつか質問をして、山岸課長がそれに答えた。
動木取締役は自らの結論や感想は言わないまま、ついに安木部長に水を向けた。
「どうなんだ?」
「ファッションビジネスの未来は、たしかにこういう形になるとは思います。そういう意味では素晴らしいプランです。ただ、やはり、染色堅ろう度が心配です。山岸君は売る時に丁寧に説明するから大丈夫だと言いますが、お客様はそういう説明をじっくり聞いてくれるものでしょうか。おそらく、そこは聞き流して、使ってみたあとに、色移りしたというようなクレームが頻発するんじゃないでしょうか」
山岸課長は無表情だった。
予想されたコメントだった。
そして・・・
「で、栗田は、本当のところ、どう思ってるんだ? この染色堅ろう度で、後々問題になる心配は、ほんとうにないのか?」
隣の山岸課長が驚いて、僕に振り向いたのがわかった。
「僕は・・・」
乾いてネバネバした口から、心臓が飛び出しそうであった。
そんな成り行きで、僕は山岸課長を裏切った。
そのプランは、取締役会に諮られることもなく、お蔵となった。
半年間、針のむしろのような状態に置かれた後、僕は安木部長の配下の重要ポジションの係長に異動昇進した。
そして、何年も経った後、順調に昇進の階段を登った僕は、あろうことか山岸課長の直属の上司になった。
裏切り者の部下としての半年間も、かつて心酔した上司の上司としての何年間も、僕は厚い仮面を被って、なんとか生き抜いた。
山岸課長も、僕と同じく、いや、僕より何倍も厚い仮面を被ってしまい、本心を見せることはなくなった。
だが、話はまだ終らない。
僕らの会社は、その後ジリ貧で、縮小均衡を続けたあげく、大手小売業に救済合併されてしまったのである。
すでに取締役になっていた安木取締役も、営業企画部長になっていた僕も、宣伝課長に止め置かれていた山岸課長も、全員がリストラで会社を去ることになった。
当時主流にいた安木取締役や僕は、いわば会社を傾けた戦犯である。
40歳を過ぎていた僕は再就職を目指して走り回ったが、専門的なスキルがない中高年の再就職活動は困難を極めた。いくら応募しても、書類選考で振るい落とされ、面接にまでも達しないのである。
私立大学に通う娘の学費をどうすべきか、預金通帳の残高はいよいよ危険水域まで減っていた。
そんな時、山岸課長から携帯に連絡があった。
待ち合わせの場所に洗われた山岸課長は、あいかわらず愛車の古いMGBに乗っており、ピカピカに磨き上げられたクロームメッキが眩しく輝いていた。
僕はかつてのように助手席に乗り込んだ。
山岸課長は、企画会社を立ち上げていた。
しかも、すでにいくつかの一部上場企業のクライアントを得て、事業は順調であると言う。
細いハンドルを握り、忙しそうにギア・チェンジをしながら、山岸課長はこう言った。
「うちに来いよ」
驚いた。
裏切った僕を、誘ってくれるのか。
「冗談でしょう。僕は、あなたを裏切ったんですよ」
「そうか、そんなこともあったか」
山岸課長はちょっと天を仰いだ。
「雨だな」
雨の一粒が僕の頬に落ちた。掌を返すと、そこにも、ひとつふたつ。
フロントウインドウにも雨粒が斑点を描き始め、山岸課長はワイパーのスイッチを入れた。
「俺も、お前も、このMGBみたいなもんだ。急に雨が降ってくれば濡れるし、エンジンはオイル漏れ、幌とかあっちこちの部品がつぎつぎに寿命でいかれちまう。不便極まりない、世話のやけるポンコツだ。もちろん、今の車には、快適性でも、走りでも、ぜんぜんかなわない。でもな、いいところもあるんだ。それを説明するのは難しいんだけどな。まあ、俺も、お前も、このポンコツMGBみたいなもんだ。だろう? で、誰がなんと言おうと、俺が気に入ってりゃ、それでいいだろ? だから、来いよ、俺の会社に」
僕は泣いた。
本降りになりそうな雨に、山岸課長が車を止めて幌を上げる場所を探しているあいだ、顔に振りかかる雨が、僕の涙を隠してくれた。
そこで、目が覚めた。
どうやら、僕は泣いていたらしい。目をこすると人差し指が濡れていた。
意識がはっきりしてくるにつれ、さきほどまで僕を包んでいた幸福感が薄れてきた。
薄い掛け布団の手触り、少し汚れた白い天井、早朝の明かりがその隙間から差し込んでいるカーテン、隣のベッドから聞こえてくる佳子のかすかな寝息。現実の世界の輪郭がくっきりと立ち上がり、やがて、僕ははっきりと理解した。
プレゼンで山岸課長を裏切り、会社で昇進したものの、会社自体が傾き、それでも山岸課長に声をかけてもらえた、都合10年以上に渡る物語は、すべて夢の中でのことであった。
現実には、何も起きていない。
そのプレゼンは、今日の、今日の2時からなのだ。
僕はまだ、どちらを選ぶか決断してもおらず、否が応でも、数時間後に、その決断を迫られるのである。
僕は芋虫のようにベッドの上で固く身を縮めた。
まるで、そうすれば、また夢の中に戻れるかのように・・・
いったい、僕はどうしたらいいのだろう。
いったい、僕はどうしたらいいのだろう。
Kimono Flea Market ICHIROYA's News Letter No.653
Dear Ichiroya newsletter readers,
Hello, this is Yumi here. As Mei chan mentioned before, I’m new to this job.
As you know, we have ten thousand of items such as Kimonos, Obis, fabrics, accessories and so on at Ichiroya, and especially, various kinds of brilliant Kimonos and Obis have been fascinating me a lot every day. I just even feel like I would love to stare at them and touch them without doing anything actually. (I’m sure you also understand what I mean once you access Ichiroya website!! ) It is Obis that I love the most in particular. I don’t see them only as Obi to tie for Kimono fashion, but also as materials to make something original . They are thick enough to create something new and I see them quite practically as well. On top of that, they have elaborated designs and embroideries to dazzle my eyes.
Well, I just wanted you to please try various kinds of dress included Kimono !!
Now it’s your time to take an action !
http://www.ichiroya.com/item/list2/335870/ (sorry, this one has just been sold)
http://www.ichiroya.com/item/list2/335866/
http://www.ichiroya.com/item/list2/335869/
http://www.ichiroya.com/item/list2/335868/
Why don’t you pick up a piece and create something special only for you ?
短編小説15 『散髪屋のジョー』
ありふれた土曜日の夕方、僕はいつものように理髪店「城(じょう)」へ散歩がてら出向いていった。
いつもは電話で予約してから行くのだが、その日はなぜか電話は鳴り続けるばかりで、誰もとってはくれなかった。店主の城以外に、男の子がふたり、女性スタッフがひとりいる。皆が洗髪中で誰も電話をとれないなどということはないはずだ。そんなことははじめてだし、きっと電話線か電話機のトラブルかと思い、とりあえず行ってみることにしたのである。
西の空が赤みを増し、汗ばんだ腕や首筋をなでる夕暮れ時の風が心地よい、六月の上旬の一日だった。
遠くからストライプ電飾看板が回っていないことに気がついた。シャッターも降りたままになっている。
理髪店「城」が突然に休むことなんてありえない。
理髪組合が決めた休みである月曜日と第二第三火曜日、それに年末年始とお盆にほんの2、3日の追加の休み。それ以外に理髪店「城」が僕の期待を裏切ることはありえない。何年も、何年も、ずっとそうだった。
店の前に立って驚いた。
やはり、店名と電話番号の書かれたシャッターが降りたままで、電飾は光りも回転もしていない。
途方にくれた僕は、まず自分のアタマを疑った。
曜日を間違えているのか。いや、会社に行っていない今日が、月曜日であるとか、火曜日であるはずがない。あるいは、ジョー(いつからか、店主の城さんのことを、僕は心の中で「ジョー」と呼ぶ)から臨時の休業を聞いていたのに、忘れてしまったのか。いや、それもない。もし、いつものように理容椅子リラックスしすぎて、眠りの世界にはいってしまい、夢うつつで聞いていて忘れていたとしよう。それなら、張り紙のひとつもあっていいはずである。
理髪店「城」は、張り紙のひとつもなしに、臨時休業するような店では、けっしてない。
いったい、何年前から、理髪店「城」に通っていただろう。
今の家に引っ越す前、ショッピングセンターの裏にある大規模マンションに住み始めた頃に、その広い駐車場に隣接する場所に建った3階建てのビルの1階に、理髪店「城」をみつけたのだ。ショッピングセンターの中にも理髪店はあったのだが、いつも混んでいて子どもたちも多かった。理髪店「城」に入ってみると、ゆったりした店内に、静かなジャズが流れ、店主の城は余計なことは言わず、望み通りの髪型にカットしてくれた。髪を切った後には、窓際に設けられたリラックススペースで、コーヒーのサービスもあった。そのテーブルは太い木製の天板を磨いたもので、ウェッジウッドのイヤープレートが飾ってあり、広いガラス越しに木漏れ日が静かにこぼれおちてきて、なんとも言えない豊かな気分になるのであった。
ショッピングセンター内の理髪店より、やや高い目の価格設定ではあったが、僕はとても満足し、以降、かならず理髪店「城」に行くことになった。
数年は通ったに違いないと思って数え始めてみたら、マンションから引っ越してきてからすでに10年、そのマンションに住んでいたのが10年程度だから、合計20年の間、一度も浮気せずに理髪店「城」に通っていたことになる。
20年。
正確にその長さを数えてみて、心底驚いた。
その日まで、理髪店「城」はなんの心配もなく、ただ必要な時にずっと存在していたので、どれほどの期間お世話になってきたのか、考えてみたこともなかった。
20年前、僕はまだ30代前半で、ふたりの子どもたちも小学校にあがる前であったはずである。
店主のジョーは、僕とほぼ同年代の男性だったから、この20年間、30代前半から50代へと同じように歳をとってきたことになる。熊のプーさんのような、ちょっと小太りで、いつも優しい笑顔で出迎えてくれたジョー。
その理髪店「城」が、閉まっているのである。
僕は途方に暮れた。いったい、どうしてしまったのか。こんなに髪は伸びてしまっていて、会社のセレモニーを控えて、その週末になんとしてでも散髪をしないといけないというのに。いったい、僕はどこへ行けばいいのか。ほかに行くべき理髪店など、まったくアテがないではないか。
言うまでもなく、店名は店主の苗字「城(じょう)」から取られていた。
僕が名前を呼ぶときは、「ジョーさん」もしくは、「店長さん」であった。
ジョーは僕のことをよく知っていた。
というのも、ジョーは理髪の技術も一級だったに違いないが、営業力が抜群であったからだ。
散髪中の話題のほとんどは、僕のことであった。
僕はたいてい会社や家庭のわだかまりをいくぶんこじらせて、あのどっしりした理容椅子に腰掛けて目を閉じる。「あの厳しい上司、お元気ですか?」とか、「上のお嬢さん、高校受験どうでした?」とか、「肌が荒れていますが、ちょっとストレスためておられるんじゃないですか」とか、「夫婦の日ですね、笑うしかないですね」などと、そのこじれた糸を解きほぐすように、ジョーはいつも話の水を向けてくるのであった。
もちろん、すぐにリラックスモードに入いる僕は、つらつらと愚痴をこぼしはじめる。
ジョーは恐ろしく記憶力が良いのか、あるいは、客が帰った後にすぐにメモでもとっているのか、いや、ひょっとしたら、話の内容をそのまま録音して聞き返しているのではないかと思えるほど、そういう話を覚えていて、話は重複することなく、先に先にと進んでいく。営業力のある人や、多くの部下を抱えるポジションにいる人のなかにそういう人がいることは知っていたが、ジョーはどんな手段を使っているにせよ、正確に話したことを覚えていて、話を継いでくるのである。
そして、たとえば、ジョーが短いお盆休みにどこかへ旅行に行った時など、僕が趣味で集めているぐい呑みを買ってきてプレゼントしてくれたりするし、毎年いただいていた理髪店「城」の年賀状には、必ずその時々の僕の状況に関係する励ましやいたわりの言葉が添えられていた。
そういうことは、僕に対してだけではなく、営業活動として、すべての客に行っているに違いなかった。
もちろん、そう思えるほどには、僕も世慣れていた。
しかし、彼のその営業力たるや、僕の勤める一般的には有名有力と思われている大企業にも、彼ほどの営業力のある人はいないと思わせるものであった。
世の中の多くの会社員の人たちと同じように、僕も中間管理職としてひどく苦労し、気分的に迷走に迷走を重ねた時期があった。
その頃、自分の店を持ち、職人として自立しているジョーのことを、どれほど羨ましく思ったことだろう。
「ジョーさんが羨ましいな。僕も脱サラしようかな」
ジョーは熊のぬいぐるみのような顔でニコリとすると、言うのだ。
「僕は安田さんが羨ましいですよ。誰もが知ってる大きな会社に勤めて、大きな商売してるんでしょう? 僕なんか、何年頑張っても、相変わらず、豆みたいな商売です」
「いや、でも、自立しているっていうのは、それだけで最高なんだよ。商売の額が大きくたって、会社の看板で商売してるだけで、僕がいなくなっても、すぐに替りが現れる。でも、ジョーさんの場合は、ジョーさんでなければっていう、お客さんばかりだ。僕には、その方が、ずっと羨ましいけどな・・・」
「いや、でも、ワクワクするようなことがありませんよ。これまでもずっと、これからもずっと、この場所のこの店で、同じ仕事です・・・なんだか、この場所に監禁されているような気になる時もありますよ。美容室と違って、競争が少ないから、無理しなくてもいいっていうのはありますけど、無理して頑張ったところで、この店に来てくれる可能性のあるお客さんの数は限られてますしね」
僕はちょっと無礼かと思ったけど、つい口に出して聞いてしまった。
「つまり、安定してるけど、大儲けはできないから、退屈ってことかな?」
「ええ」
「店を増やしたら?」
「僕はひとりしかいませんしね。それに、もし、店をつくることができたとしても、お客さんは限られてますし、新しいお店を作っても、ほとんどのお客様は、それまで通ってた店を乗り換えたりしてくれないでしょう?」
なるほど。僕にしても、理髪店「城」を見限って、ほかの理髪店に行くことなど想像もできない。
「そうか・・・将来に目標とか、夢は?」
「そうですね・・・安田さんとか、いま通ってくださっているお客様と一緒に、静かに、元気に、身奇麗なまま、歳を重ねていけたらいいなとは思っていますけどね」
「教科書的だなあ」僕は笑った。
「もうちょっと、派手なのないの?」
ジョーはバリカンのあとをハサミで整えていた手をちょっと止めて考えているようだった。
そして、言った。
「どかんと大金を儲けて、どこか暖かいところで、ビーチに座って、ずうっと、のんびりしていたいですね。プーケットとかで・・・」
僕と理髪店「城」との20年に渡る関係は、そういった、表面上は蛋白なものであったが、僕が物理的にも心理的にジョーに負っていたものは、かなり大きなものであった。
そして、店がなくなってはじめてわかったのだが、それは完全に一方通行のものであった。
僕はジョーのことをほとんど知らないことに改めて気づいた。
どこに住んでいるのか、家族がいるのか、出身地はどこか、どうやって店を開いたのか、なぜこの地だったのか、趣味はなにか、どんな車に乗っているのか、店にいた女性を含むスタッフとの関係は。
理髪店「城」とジョーは、いつでもそこにいたから、安心しきった僕は、たまに話題をジョーのことに振ってもはぐらかされたまま、いつか聞いてみようと先延ばしするだけで、真剣に聞いてみようとも思わなかったのである。
その日、僕はやむなく他の理髪店を探して行った。
案の定、その理髪店は僕の好みではなく、僕は未練たらたらで、その後も、わざわざ遠回りして、理髪店「城」のあった店の側を通った。が、やはり理髪店「城」のシャッターがあれ以来、二度と開けられることはなかった。
理髪店「城」が閉店したことは、誰の目にも明らかになった。
その頃知ったのだが、認知症になって介護が必要になり引き取って一緒に暮らしていた妻の父を、ヘルパーさんが連れて来てくれるのは理髪店「城」だった。ヘルパーさんが、認知症の人にも優しく対応してくれた理髪店「城」の閉店を嘆いた。
それにしても、いったい、なぜ、理髪店「城」は突然閉店したのか。
僕と同年代のそろそろシニアと呼ばれる年代に近づいているジョーが、急病で亡くなったということはありえた。あるいは、亡くなりはしないにしても、入院が長引いていることも考えられる。
あるいは、老親に急な介護が必要となり、故郷に急遽帰ったということもありあえるかもしれない。
なにか情報があるかもしれないと、何度もネットで検索してみたが、やはり情報はない。せめて、ジョーのフルネームや、出身地をなぜ聞いておかなかったのかと、悔やまれた。
それにしても、ジョーの顧客に対するそれまでの対応からして、一言の連絡も張り紙もない、ということは最悪のケースを想定しなくてはならないかもしれなかった。
僕は徐々に理髪店「城」がこの世から消滅したことを受け入れつつあった。
その日から3か月、3軒ぐらいの理髪店や美容室を巡り、どうにかその中の一店に落ち着いたころ、見知らぬ男性が、夜、帰宅後の我が家に訊ねてきた。
驚いたことに、地元警察の刑事一課の刑事であった。
キッチンで食べかけていた遅い夕食を中断して、刑事をリビングルームに招き入れた。垢抜けしないスーツ姿、そう見えたおそらくその最大の理由は白い靴下のせいなのだが、十分イケメンで通る若い刑事は、来訪の理由をこう説明した。
「ここ1年ぐらい、所轄で空き巣が増えてましてね。なんだか、狙いすましたように、能率よく高額品をいかれてるんです。たとえば、3か月前には、億を超える価値があるという古い中国の掛け軸が、いかれました。被害者の言うとおりの価値があったのか、今となってはわかりませんが、その方の祖父が中国から引き上げる時に持って帰ってきたものだとかで。複数の古物商の鑑定の結果、間違いないそうです。僕は空き巣や窃盗を担当してるんですが、所轄の空き巣を調べていくうちに、いくつかの高額物品の空き巣に、共通点があったことに気がついたんです。ほら、ショッピングセンターの駐車場に面するところに、『城』という理髪店があったでしょう。何人かの被害者は、その店の客で、ちょうど、店で散髪してもらっている間に、被害にあっていたんです。あなたも、理髪店『城』の常連でしたよね。通話記録から、あなたのことがわかりました。で、お勤めとか、家族構成とか、前科とか、だいたいのことも調べさせていただきました。いや、あなたに何か疑いをかけているってわけじゃないんです。あの店で散髪をしてもらっている間に、高額品を家に置いているとか、そういう話をしたことはないですか?」
家にある高額品と言えば・・・昇進したり、結婚10週年など、時々の記念に買い集めてきた、アンティークのロレックスのコレクションがある。
―――その話をジョーにしただろうか?
僕がアンティークのロレックスをして椅子に座れば、ジョーが見逃すはずがない。必ず気がついて話題にするだろう。確信はない。でも、おそらく、訊ねられて、古いロレックスをいくつか持っていることを話した。別のタイミングで、おそらく、日曜日の午前中は、たいてい妻は教会に行っていて留守だという話も。
僕は慌てて立ち上がり、寝室に走り、ここ半年ほど開けてみなかった、タンスの小引き出しを開けた。
僕の唯一の現物財産のロレックスのコレクションは、まだ、そこにあった。
寝室の戸口に刑事が立って、安堵の息をついている僕を見つめていた。
「だいじょうぶでしたか?」
「ええ」
「確たる証拠はないんです」とリビングに戻り、ソファに深く身を沈めた刑事が言った。
「空き巣の方はその物理的な手口から、だいたいあたりがついているんですけど、どうやってホシが確実な情報を得ているのか、不思議だったんです。安田さんも、理髪店『城』で散髪してもらっている時、城にいろんな話をしましたか」
「ええ、たしかに・・・」
「どうやら城はその情報を元に、被害者が散髪に来ている間に、仲間を家に向かわせて、めぼしいものを奪わせていたようです。そうでなけりゃ、中国の古い掛け軸の一件も、あれだけ狙いすましていかれるはずがありません」
「で、ジョーは、いま、どこに?」
「バンコク行きの飛行機に乗ったところまではわかっていますがね。空き巣の実行犯のホシの方は押さえているが、今のところ、証拠はないし、こいつは海千山千でね。起訴まで持っていけるかどうか・・・ともかく、城をしょっぴいて吐かせないと、拉致があかないんですよ。けど、城の逃げた先がタイだから、犯罪者引き渡し条約も結ばれていないし、インターポールに依頼するにしても、証拠が薄弱でね」
――― プーケットにいるかもしれませんよ。
僕はそう言いかけて口をつぐんだ。
ジョーが悪人である、窃盗犯の仲間であって、自分の客から億を超える価値のある掛け軸や、そのほかの金目のものを盗んだという話は、すんなりと僕の胸には落ちなかった。
僕にとって、そしておそらく、すべての理髪店「城」の常連にとって、ジョーは、いつでも思いやり深く話を聞いてくれる素晴らしい友人であった。
いや、友人であると思っていたのは、客であることの傲慢さ故だったのかもしれない。
「同じ場所、同じお客様、同じ仕事、大きく稼ぐチャンスは一切ない。まるで牢獄」と、たしかにジョーは僕にこぼしたことがあった。
ひょっとして、顧客にとって20年以上もかけがえのない存在だった理髪店「城」は、ジョーにとっては、本当に牢獄のようなもので、これからの20年も同じ生活が続くということに、窒息しそうになったのかもしれない。
まるで盲導犬か、女王陛下の執事みたいに、馴染み客である僕らはジョーを扱っていたが、ジョーの気持ちをリアルに想像してみたことはなかった。
そうでなければ、たとえば、僕が、ジョーの名前すら、住んでいたところすら、その家族構成すら知らなかったはずがないではないか。
刑事の言うところによれば、ジョーのプロフィールを知らないのは、僕だけでなく、長年の常連客は等しく、僕と変わらない状況だったそうだ。
刑事はめぼしい情報を手に入れることなく、我が家を後にした。
それにしても、僕には、ジョーが、素晴らしい友人であったという事実を、完全に否定することができなかった。
すくなくとも、きっと何度もチャンスのあったはずの、僕のロレックスのコレクションは、手付かずで残されていたのだ。
盗品の中国骨董ならば、タイや周辺国で換金するのはさほど問題はなさそうである。それ以外にも、相当な額を盗み集めたのであろう。
それを空き巣の実行犯と折半するとして、いくら手元に残るのだろう。せいぜい、一億円か。
はたして、50才前半の僕らにとって、一億円を懐にした、プーケットの海岸での、死ぬまでのリラックスタイムというのは、どれほどの価値があるのだろう。
会社勤めの牢獄から逃れられない僕にしても、魅力がゼロとは言い難い。だが、友や仕事や日本の自然や故郷をすべて捨てて、それを取りに行くかといえば、かなり怪しいものになる。
いったい、ジョーは、ほんとうにそんなことを自ら望んだのかな、僕は納得いかないままに、その事件のことを考えるのをやめた。
一年後、海外から薄い封書が届いた。
宛名は僕のものがローマ字で書かれていたが、差出人の欄はどうやらタイ語らしく、まったく読めなかった。
封を切ると、一枚の写真が出てきた。
誰あろう、あのジョーが、派手なシャツを着て、ケープで身体をおおった色黒の男性の髪を切っているところであった。
裏返すと、そこにはこう書いてあった。
「楽園で、結局、また、散髪屋になりました」
あの刑事に電話をするべきとわかっていながら、僕はいまだに電話をできずにいる。