一番の幸せってなんだろう~~ワーキング・ハイな瞬間を求めて
「ワーキング・ハイ」なんて言葉はない。
造語にしては、ちょっとセンスに欠けるような気がする。
でも、いま、そのことを書こうとして、思いついたんだけど、書きたい現象にはぴったりフィットする。
50才も超えて、そろそろ先が見えて、残りの人生を、どう使うのが一番良いのか、と思い悩んできた。
何をするのが一番、社会に貢献し、自分にとっても幸せになれるのか、と。
対象を、特定のモノやコトに絞るのは、案外、難しいとわかる年頃である。
これに、人生を賭けてもよい、といろんなモノ・コトを好きになってきた。
しかし、好きなモノ・コトにかける情熱というのは、山登りにも似て、登りばかりかと思っていたら、あるピークのような体験を経て、やがて下りになってしまうのだ。
どれほど、さまざまな方向性の違うモノ・コトに人生をかけようとしてきたか、恥ずかしくってとても書けやしない。
どうやらそちらをいくら探しても答えはない。
好きなものを探しても、そこに答えがないのであれば、得意なことはなにか考えればいいのではないか。
いちおう、10年、食べさせていただいているけど、商売は得意なのか?
ネットショップ経営が得意なのかな、アンティーク着物の目利きが得意なのかな?
文章を書くのが得意なのかな?
わからない。
得意なのかどうかは、他人がきめる。
得意っていうからには、ほかのひとより、ずば抜けて上手い、ってことだろう。
ずば抜けて上手いかどうかなんて、自分ではわからない。
いや、自分ではわからない、と言っている時点で、得意っていうほどじゃないのかもしれない。
しかし、最近、ふと思いついた。
仕事をしていて、頭が高速回転し、キブンがハイになって、つぎつぎにアイディアがでて、自分にはなんでもできると思えるような力強い感覚に満たされた時間。
たまに、「ワーキング・ハイ」とでも言うような時間が訪れる。
そのときの快感、幸福感こそ、自分が求めるものではないのか、と。
文章を書いているときにも、たまにそういう感じになる。
でも、そんな感覚は、文章を書いたり、アイディアを考えたりしているときにしか訪れない、ということはない。
大学4年間没頭したアイスホッケーでも、そういった状態になったことがある。そのときだけ、まるでグレツキーになったように、獅子奮迅の働きをした。
プレーのアイディアが頭のなかにはっきりと描かれ、身体がその通りに動いた。
何十試合のなかで、たった1回だけだったけど。
百貨店時代の仕事でも、経験はある。
たとえば、部下にまかせたイタリア展。部下はいつの間にか仕事に飲み込まれており、にっちもさっちもいかない状態に。すべてがギリギリのタイミング。部下を集め、担当者から、現状を細かく聞き出す。その場で、すべての仕事を、右から左とほかの部下に割り振り、それ行け!と指示。
いつもなら慎重に考えてしまうような案件も、僕の頭は即座に答えをだし、指示は口からなめらかに出た。
まるで『太陽にほえろ!』の、ボス、石原裕次郎の藤堂係長になったキブンであった。
そのときの感覚は、いまも鮮明に焼きついており、忘れることができない。
そういった高揚し、脳内が普段とは違うレベルで活発に動き、万能感、至福感に満たされたような時間。
それを、「ワーキング・ハイ」と言っても良ければ、自分を再び「ワーキング・ハイ」のような状態におくような仕事、そのような仕事のやり方こそ、僕が、残りの人生で求めるべきものなのではないだろうか。
どんな時に、自分は、「ワーキング・ハイ」を多く経験してきただろうか。
どんな方向に進み、どんなやり方をすれば、「ワーキング・ハイ」な、特別に創造的で至福感に満たされた体験を得ることができるだろうか。
まだ、明確な答えはないけれど、疑問の堂々巡りではなく、一歩、残りの人生を考えやすくはなったような気がしている。
ところで、写真は、 鷲見時子さんの郡上紬。高額品は仕入に気合が必要です。気に入ってくれるかたみつかったら、めっちゃハイになるんですけど~!
よろしくお願いします!
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