小説家になるという夢
あと2週間前後で、2作目の本が発売されるようだ。
著者の責任として、また、頑張って売る努力をしないといけない。
本の内容は、(1)僕と妻が会社を辞めてなんとか自立するまでの実話と、(2)普通の人が自分のビジネスをみつけるときのヒントの2本立てになっている。
(2)の方は普段ブログを読んでくださっている方には、重複する内容になっている部分も多いが、半分以上を占める(1)の方は、このブログには書いたことのない話がほとんどだから、楽しんでいただけるのではないかと思っている(数年前に別のブログサービスで書いた内容を加筆訂正したもの。当時はほとんど読んで貰えなかった)。
前回も、多くの皆さんが、宣伝してくださったり、ブログで紹介してくださったり、あるいは献本先を教えてくださったりした。
ほんとうにありがたかった。
今回は、ブログなどで紹介記事を書いやろうと思ってくださる方には、献本させていただければと思っている。ただ、そのためには住所を教えてもらう必要があり、匿名で書かれている方が多いなか、どうしたものかなとも考えている。(ただし、それはアマゾンのレビューを書いて欲しいというわけではない。アマゾンのレビューは、どういう仕組なのか知らないが、もともとつながりのある人のレビューは削除されるようだ。どちらにしても、アマゾンのレビューは知人友人からではなく、中立な人からいただければと思っている)
そもそも、そう言っていただける方がどれほどおられるかわからないが。(もしおられたら、メールでご連絡ください)
ところで、「小説家になる」ことが、若いころのひとつの夢であった。
いま、その夢が形を変えて蘇っている。
今の夢は、
「長編小説を書いて、それを商業出版すること。それがある程度売れて、次回作も書くチャンスが訪れること」
である。
昔のように、「小説家になって、それを専業とする」という夢はない。
自分の人生を「老後」とみなすこともできようかという、それなりの歳なので、「専業とする」意味があまりないからだ。
また、書くことは楽しい体験でもあるけど、とても苦しい時間でもある。
今のように、染織品に触ったり、スタッフや同業者といろいろやりあっている時間があってはじめて、僕の中ではモノを書く時間とうまく釣り合っているのである。
着物の仕事で達成したいこともいくつかある。
だから、あくまで、夢のひとつにすぎないのだが、たしかに、その夢は僕の心にしっかりと根をおろしている。
最近、なぜ、僕は小説が書きたいのかなと思い、なんとなく理解したことがある。
つまり、僕は生来、「評論家的な立場」が好きではないのだ。
どこか外部からああだこうだ言うより、地面で自ら土を耕したい質なのである。どちらが偉いとか、評論家は不要であるという話ではなく、僕の性分の話である。
だから、何かを書くにしても、批評したり、議論したりすることは苦手で、たぶん、そのせいで、僕のブログはこれ以上読者を増やすことはないだろうし、幸運にも出させていただくことになった2冊の本、それは、実用書・ビジネス書の分類に含まれるものだが、2冊目がヒットしてかなり売れるようなことになったとしても(楽観的!)、その分野での本はもう書けないだろう。
僕の頭にある小説は、大衆小説あるいはビジネス小説に分類されるものだ。
それを書くという行為は、批評や評論ではなく、僕にとっては、まさに自ら泥の中を這いまわって、自分でモノをつくることだ。
小説というフォーマットは、ノンフィクションやエッセイでは書けないことが書けるということもある。
だが、本質的には、それが「自らモノをつくること」だから、僕はそれがしたいのだと、最近痛感するようになった。
ところで、以前ブログ記事で、まだ書き上げていない(いま原稿用紙350枚ぐらい。500枚の予定)小説に興味のある出版社さんがおられるか尋ねたら、出来上がったら読んでみましょうという出版社さんが現れた。
おかげで、さらにモチベーションがあがって、毎日少しずつだが、書き進めている。
そんな毎日で、また、感じることがある。
僕は以前、たしかに小説家を志していたはずなのに、なぜ、あんなにもあっさりと諦めてしまったのだろう、と。
僕が生涯に完成させた「小説」は、長編が一編、中短編が10編にも満たない。
たったそれだけしか書いてこなかったのに、なぜ、僕のなかでは、「小説家になるのが夢」だったのだろうか、と。
今から考えれば、さまざまな理由がある。
書きっぱなしで、いっさいのフィードバックが得られない環境下だった。
書きたいテーマがなかった。書くほどの体験も、世界観もなかった。
出版に値するものが、自分に書ける自信がなかった。
大学を出て会社に入り、そこで出世して、ある程度のお金を稼ぐというレールから、降りる勇気がなかった。
子供ができたり、お金が必要になったり、会社の仕事が面白くなったり、同僚に負けたくないと思ったりした。
そして、忙しかった。
いや、それはいいわけだろう。
たしかに、忙しすぎて、とても時間のとれそもない時期もあった。だが、そうでない時期、ちょうど今ぐらいの忙しさの時もあった。
今とその時の違いは、当時の僕が、まだ多くの時間が残されているように思っていたこと、今の僕が、もう多くの時間は残されていないことを痛感していることである。
とにかく、今から思えば、書く時間、物語をつくろうと努力する時間が決定的に不足していた。
この歳になり、背負う荷物が軽くなり、いよいよ人生の終着点が見えてきた今になって、僕はようやく、かつてのその夢の痕跡を掘り返し、書くことを続けてみることにした。
そして、やっと、こうして3年以上、ブログをとにかく毎日書き続けることに執着し(途中、何度もやめそうになりながら!)、なんとか、本を出版させていただくなどもして、ふと気がついてみると、かつての夢が、本物の輝きを発して僕の掌にあることに気がついたのである。
まともな小説を、まだ書きもしていないおまえが言うな、ということではある。
だけど、かまやしない。
今こそ、僕は大声で、僕の「夢」を叫ぼう。
「小説を書くぞ、みんなが途中で読むことをやめることができないような、とっても面白い小説を!」と。
photo by Hannah Conti