1980年代前半に聴いた懐かしの洋楽リスト
昨日に続いて懐かしい洋楽を紹介しようと思うのだが、なぜこんな記事を書いているかといえば、ディスコでパーティをさせていただこうとしているのだが、プロのDJのチャッキーさんが進行と選曲をしてくださることになった。
チャッキーさんが、僕のようなイケてないおっさんの意向を優しい笑顔で汲み取ってくださり、どんな曲がいいのかリストをくださいとおっしゃってくださったのだ。
昨日、1976年から書き始めたら、懐かしい曲を次々にみつけて、途中で時間切れとなってしまった。
今日は、1980年代をすべて書き出してみようと思ったのだが、1985年以降には、思い出の詰まった曲が極端に少なくなっていることに気がついた。
1985年といえば、僕は会社に勤めて2年目、バス・トイレタリー用品売場におり、長女が生まれた年だ。
音楽を主食のように暮らしていた青春時代は、就職し、結婚し、父となることで、幕引きとなっていたのかもしれないなあと、感慨深く思った。
やはり、今も胸に焼き付いている音楽は、中学生の頃、1972~1973年頃からの12~13年間のものである。
みんなそうなのかな。
ということで、パーティは1975年~1985年の曲でお願いしようと思ってます。*1
1980年 昭和55年 21才 大学3年 原宿で竹の子族が出現
"Call me" ブロンディ
ブロンディ、ほんとうにカッコ良かったなあ。翌年には”The Tide Is High"という大ヒットもあった。
大学3年の時といえば、学校には行けず、とにかく、ホッケーとアルバイトばかりやっていた。
あとは、誰かの下宿にこもって、麻雀。
ホッケーのほうは4回生が少なく、3回生のわりには出場機会をもらえたのだが、自身のプレーも戦績もおもわしくはなく、麻雀もついつい暗刻を揃える初心者の癖が抜けず弱いまま。
おまけに、失恋の痛手を2年も3年も抱えたままで、まるで、洞窟の中にいたような気分だった。
で、ブロンディのカッコよさには、惚れ惚れした。
僕の住んでいる下宿では、みんなむさ苦しい部屋になっていたが、ひとり、大きなアレカヤシや籐のソファを置いて照明にも凝っている男がいた。
僕もそんな部屋にして、クリストファー・クロスでもかけて、女の子を招き入れたいなと、夢想だけしたものだ。
”風立ちぬ” クリストファー・クロス
”スターティング・オーバー” ジョン・レノン
ジョン・レノンが殺されてしまったのは前年の12月8日。”スターティング。オーバー”を含むアルバム『ダブルファンタジー』の発売がその約1か月前の11月10日(日本)。
ジョンがあんな風にあっけなく亡くなってしまったことに、ショックを受けたはずだけど、当時の思い出はない。
でも、この曲や『ダブルファンタジー』はよく聴いたなあ。
1981年 昭和56年 22才 大学4年
”プライベート・アイズ” ホール・アンド・オーツ
同名のアルバムも大好きだった。
プライベートアイズとは、探偵の意味。ちょうど、この頃、僕も探偵のアルバイトをしていた。
張り込みや尾行をして証拠写真を撮る。たしか、現場に出ている時の時間給は2000円で、ウハウハしながら現場に行った。
だけど、2000円もらえるだけのことはあって、辛く厳しい仕事ではあった。
尾行の相手からは気づかれて悪態をつかれるし、遠くにマンションのドアを見ながら厳冬期に何時間も張り込む辛さは格別だった。
そういえば、ある時、駐車中にホール・アンド・オーツなんかを聴きながら張り込みしていて、いざという時にバッテリーがあがってしまい、相手を逃したこともあった。
いや、しかし、ホール・アンド・オーツは大好きだった。
”Just the two of us" グローヴァー・ワシントン・ジュニア
大人の音楽が好きになったのは、ボズ・スキャッグスと、このグローヴァー・ワシントン・ジュニアからかな。
音楽っていうのは、肩肘はらずとも、こういう楽しみ方もあるのだな、としみじみ感じさせてくれた曲。
たぶん、女の子を車の横に乗せて、カーステレオから流れる曲はどうあるべきか、それが夜の高速なら、とくにどうあるべきか、などということを考えて、こういう曲に行き着いたというのが、真相かも。
まあ、それも、妄想に終わってしまったのだが。
1982年 昭和57年 23才 大学留年中 東北新幹線(大宮駅-盛岡駅間)、上越新幹線(大宮駅-新潟駅間)開通。
”Eye Of The Tiger” サバイバー
この曲はシルヴェスター・スタローン自身の依頼で作曲されたもので、「ロッキー3」の主題歌として使用されていたもの。ちなみに、「ロッキー」の公開はこの5年前の1977年4月。
勇ましいこの曲が流行ってはいたけど、僕は大学5年生で、本来2回生までに終わらせるべき、英語、ドイツ語などの単位をとるために、知らない顔ばかりの1・2回生に混じって授業に出席していた。
アイスホッケーも卒業しており、ほかにすることと言えば、アルバイトしかない。
すでになくなった、河原町今出川の喫茶レストランに入っていることが多く、スパゲッティやカレーを作ったり、そこの2階でバイト仲間と夜通し騒いだりしていた。
その店は夜間はバイトだけで運営していた。やんちゃな学生ばかりだったので、問題もおきた。僕は一番年上であったし、オーナーから信頼されていたので、いつの間にか中間管理職のような立場におかれており、組織で働くことの大変さを垣間見た。
ちょっと渋い、ジョン・クーガー・メレンキャンプも好きだったな。
シカゴのヒットもあった。
”Jack & Diane” ジョン・クーガー・メレンキャンプ
”素直になれなくて” シカゴ
ちなみに、Chicagoといえば、”黒い炎”(1972)の大ヒットがあるChaseと並んでブラスロックの雄であり(”長い夜”(1970)、”Saturday In The Park”(1973)などのヒットがある)、中学時代の愛聴バンドであった。懐かしい顔のリバイバル、しかも以前とは違う音での再会に驚いた。
1983年 昭和58年 24才 就職!社会人1年生 東京ディズニーランド開園。日本海中部地震発生。おしんブーム。
誰もが知っている名曲”見つめていたい”のヒットはこの年だった。
ネクタイをして、鍋やトイレマットの販売をして、ああ、これが仕事というものかと思っていた。
で、すぐにエプロン売場の女性と恋に落ちて、翌年には結婚しようということになった。
その頃、この曲が流行っていたはずなのだ。
ちょうど、思い出の曲になりそうなタイミングである。
だけど、なぜか、”見つめていたい”と妻の姿はだぶらない。なんせ、すぐにでも結婚したくてそれどころじゃなかったのかもしれないけれど。
”見つめていたい” ポリス
でも、今日はじめて知ったのだけど、このシンプルなラブソングと思っていたこの曲には、もうひとつの意味があったらしい。ちょっと、驚きだった。
僕はその行が頭に浮かんだ状態で夜中に起き、ピアノの前に座り30分くらいで書いたんだ。曲自体は何百とある他のものと比べても普通だけど、歌詞は面白い。心地よいラブ・ソングのように聞こえる。その時はどれだけ悪意があるかは気付かなかったんだ。僕はその時ビッグ・ブラザーについて考えていたんだと思う。(独裁者による政府の)監視と管理だよ。 — スティング[1]
メン・アット・ワークも好きだったバンド。
”Down Under" メン・アット・ワーク
1984年 昭和59年 25才 結婚! グリコ・森永事件。
世間的にはプリンスの年。「パープル・レイン」が発売され、プリンスは頂点へ。
でも、僕はプリンスはダメだった。
ブルース・スプリングスティーンは以前から好きだった。『明日なき暴走(Born To Run)』は1975年、7枚目の『ボーン・イン・ザ・U.S.A.』が大ヒットしたのがこの年。
”Dancing In The Dark” ブルース・スプリングスティーン
結婚した。
結婚式の披露宴では、衣装直しで、アイスホッケーの防具とユニホームに着替えて出た。うけたように思ったが、会社のおしゃれな同期には、あんな場所で信じられんと呆れられた。
僕と妻にとっては人生の大きな節目の年であったけど、この年ぐらいから、洋楽のヒットチャートを見ても、感慨深い曲は見当たらなくなっている。
こうやって書いてみて感じたのだが、異性に対する満たされない思い、成就しない思いが、その時時の好きな音楽を、より胸の奥深くに刻みこむのかもしれない。
結婚して子供もできて父になれば、音楽との距離が開いてしまうのも、やむ終えないことなのかな、とふと思った。
*1:
ブログ読者の方でパーティ参加希望の方がおられましたら、メールください。ご招待します!