My Sweet Memory of Baseball ~ 甘酸っぱい野球の思い出
日本ブームに沸くインドで、あの野球アニメの名作「巨人の星」が、リメイクされることになったというニュースを最近読みました。
野球は、ご当地の国民的スポーツ、クリケットにおきかえられるそうです。
僕らの世代の男性は、誰もが「巨人の星」にまつわる想い出をもっていて、あの頃の甘酸っぱい想い出をよみがえらせながら、そのニュースを聞いたひとも多かったのではないでしょうか。
うちの父も星一徹のように、とても厳しい父で、とくに、勉強に追い立てられました。
野球の練習の相手になってくれることもあり、休みの日には、必ず高速道路の下の空き地に連れて行ってくれて、僕の投げる球を受けてくれました。
そのころ、少年野球チームもあったのですが、勉強に打ち込んでいたらそんなチームにはいる時間はないやろ、という風で、チームにはいることは許されませんでした。
キャッチボールのときには、父はキャッチャー役で、僕の投げる球を受けてくれます。
そんなときも、父は、星一徹のように厳しくなり、なんでも全力でやれとばかり、ちゃんと力のこもった球を投げないと、叱られます。
小学校4年生か5年生の頃です。
僕は将来、プロ野球のピッチャーにもなれるのかもしれない、と思っていました。
まだ、いろんな夢想と現実がないまぜになっている時期です。
ひょっとして自分は特別な能力に恵まれた存在でかもしれない、などと夢想するかたわら、父に対しても、
ほんとうは、若いころ、阪急ブレーブスのピッチャーだったけど、
肩をこわして退団し、なにか深い理由があって、そのことを僕には内緒にしてるのかもしれない
と夢想していました。
さて、少年野球のチームのユニホーム姿を垣間見ながら、父を相手に練習していた僕ですが、町内でもうひとつ少年野球チームをつくる必要が生じました。
なぜ、そうなったのかわかりませんが、とにかく、町内の生臭坊主のおっちゃんが監督となり、少年野球チームに所属していない野球のできそうな子を集めて、あらたなチームをつくってトーナメントに出ることになったのです。
そのころ、どういうわけか、以前からあった少年野球チームのなかで、
おやじさんとだけ練習している和田っていうのが、凄い球を投げるらしい
という噂が立っていたのです。
生臭坊主が僕のところへ来て、凄いらしいな、チームに入れと言いました。
それまで父を相手に投げていただけで、バッターに対したこともないのに、凄いといわれて、僕はすっかりその気になってしまいました。
そのトーナメントは1回きりということで、父もチームへの参加を許してくれました。
憧れのストッキングとユニフォームもつくってくれました。
そして、はじめての新チームの練習の日。
生まれたはじめて野球のユニフォームに袖を通して、どれほど胸を高鳴らせたでしょうか。
真新しいストッキングが心地よくふくらはぎをしめつけます。
少年の僕はきっと神々しいほどの喜びを顔に浮かべていたでしょう。
グランドに集合した僕らを前に、生臭坊主の監督は、
守備を見るから、ひとりずつ外野につけ、と命じました。
僕はレフトに走り、ノックを待ちます。
生臭坊主は、おもいっきり高いフライを打ち上げました。
いつも高速道路の下でキャッチボールだけしていたので、それほど遠距離で、高くに打ち上げられたボールを受けたことがありません。
遠くに見えるボールに向かって、そろそろと足を踏み出し、グローブをかまえます。
ボールはゆっくり頂点に達したかとおもうと、みるみるスピードをあげ、近くなって、
あっ、と思ったときには、ボールは僕のはるか頭上を飛び越えていってしまいました。
生臭坊主は、次も、その次も、僕のいるレフトにフライを打ち上げました。
ボールの着地点にはいってグラブにボールをおさめようと、どれだけがんばっても、無情にも、
ボールはことごとくバンザイをしたグローブの上を越えていくのです。
レフトの守備位置からホームまではかなり距離があり、つぶやいた程度の言葉が聞こえるはずがありません。
でも、荒い息をしてなにがなんだかわからずにいた僕には、ホームベースで生臭坊主が呟いた言葉が、はっきり聞こえたのです。
どこが凄いねん。ぜんぜんあかんやんけ。
鮮やかに扉が開いて、残酷な現実が姿をあらわし、僕を飲みこんだ瞬間でした。
トーナメント1回戦、僕は6番セカンドで出場し、幸運なポテントヒットで、打点1を上げましたが、自分が星飛馬ではなく、父がブレーブスOBでないことも、はっきりと理解しました。
その後、二度と野球のユニフォームに袖を通すことはありませんでした。
50数年で星の数ほどの挫折を味わっても、あの日のことは今も鮮やかによみがえります。
ところで、この仕事を始めたとき、サイトの名前、会社の名前は、ICHIROYAとしました。
日本向けに事業をするなら、もうちょっと素敵な名前にしたと思いますが、海外の方、特にアメリカの方に覚えてもらうために、当時、海を渡って活躍を始めていたイチロー選手の名前を意識して命名しました。
父が僕につけた名前も、「なんでも一番になれ」と「一郎」だったのですが。
今年の開幕戦でも、マリナーズのイチロー選手は5打数4安打1打点と大活躍したそうです。
イチロー選手に惜しみないエールをおくるとともに、
イチロー選手と、同じようにグラウンドに立ち、同じ青空のもと、同じような夢を見た幾多の少年たちのそれぞれの夢の終わりに、
乾杯。