壊れていく83歳の母と85歳の父
おふくろは完全に壊れてしまった。
記憶の中に生きていて、僕らが何かを尋ねたときだけ、現実の窓がかすかに開く。
おふくろの中ではそのふたつの世界はつながっていて、現実と空想の境がない。
いろんな心配ごとを思い出すらしく、「ほら、誰かが私らのこと言ってる」とか「この部屋が暑いのは電気料金を別に払っていないからだ」とか「昨日、綾部に行ってきた(おふくろは立てない)」とか「死んでしまったと思った前の主人がきてくれた(1回しか結婚していない)」とか「綾部の親戚が私の悪口を言っている」とか。
もう嫁のことはわからないし、孫の名前はごっちゃになっていて、ひ孫のことは生まれたのか生まれていないのかすら理解できない。
心配していることについては、「だいじょうぶ、だいじょうぶ」となんとかなだめて、それを空想に過ぎないことを納得させる。
「綾部になんか、最近行ってへんで。思い出とごっちゃになってるんや。おかあちゃんは、綾部の親戚に迷惑かけてへんって」
しかし・・
「この前、駅の前にあるお地蔵さんが、亡くなったん」
「お地蔵さんって、石のお地蔵さん?」
「そうや、亡くなりはってんけどー」
「へえ、お地蔵さんって亡くなりはるんや」
「そのお地蔵さん、私に、親しくしてくれてはったから、亡くなったあと、私のところに来てくれたん」
「・・・」
「で、お地蔵さんに、たずねたん。死ぬのん、しんどいですか? そしたら、お地蔵さんがゆうてはった。なんにもしんどない。こっちのベッドから、こっちのベッドへ移るみたいなもんや。痛くもしんどおもない」
「・・・」
「私、それ聞いて、安心した。それやったら、何にも心配することないなって。それまでは、夜中とか死んだらどうしよって心配でしかたなかったんやけど、それ聞いてすーっと心配が消えたわ」
僕は嫁と顔を合わせる。
嫁はおふくろの骨と皮ばかりになった腕を撫でて言う。
「そうですよ。そのお地蔵さんの言う通りですよ。みんな、いつかは死にます。でも、死ぬことは、お地蔵さんの言う通りで、なにも心配することじゃないですよ。なにも心配いりません」
おやじがどんどん壊れていく。
僕の家が泥棒に入られて一切合切を盗まれたらしい、とおやじが妹に電話した。
驚いた妹が電話をしてきたので、さらにそんなことは起きていないと答えた。
おやじに確かめると、たしかに僕から電話があったという。そして、僕らしき人物がそのような事態に陥って、非常に困っているという話をした、と。
「なんや、いちろーと違ったんか。ふ~~ん、良かったなあ」
どうやら、オレオレ詐欺の電話がかかってきて、20分も30分もかけて芝居をうたれたけど、ケチが骨の髄まで沁みこんでいるおやじは、偽の息子の窮地を信じ切ったものの、「大変やなあ」と言うばかりでカネを出すという具体的な話にならず、ついにあきらめた詐欺師が何も得ずに電話をおいたということらしかった。
おやじはまだひとりで暮らせるというが、体調のすぐれないときもあり、救急車を呼んだりしている。
嫁が「大変ですねえ、おからだ、本当に大丈夫ですか」とやさしく声をかけて、小さく丸くなったせなかを撫でると、すぐに泣き始める。
そんなおやじからまた最近電話があって、もう自分は株の管理を続ける自信がないから、すぐに家にきて、全部預かって帰ってくれという。
長い間、株の売買を一番の楽しみにしてきた、ケチが信条のおやじ。
そんなおやじから、株を預かってくれなどと言われる日がくるとは。
おふくろは壊れてしまった。
おやじも壊れてしまいそうだ。
僕と妹にできることは・・・
僕と妹がするべきことは・・・
おふくろは昭和6*1年生まれ。83歳。おやじは昭和4年生まれ。85歳である。
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*1:当初間違えて2年と書いており、井上さんに間違いを指摘していただきました。