どれほど優秀なひとも自分の失敗を認められないのはなぜか
それにしても、なんでこうも失敗ばかりしてるんだろうと思う。
毎日毎日、間違ったことをしているような気がする。いや、気がしているじゃなくて、やってしまっている。ときどき、その失敗や自分の間違いの行く末を悶々とベッドで悩んで、目が冴えてくる。
もちろん、もっともっと間違えて、何かを学び、正しい道から外れないように、ちょっとでも、先に進めるようにすればいいのはわかっている。
だけど、やっぱり、失敗するのはこわい。
現実に何かを失うかもしれないし、誰かに迷惑をかけるかもしれないし、なにより、恥ずかしい。
僕らの世界でも、明らかに、成功の度合いは、失敗の数の多さに比例している。
それはわかっている。
失敗にもいろいろとあって、その成否がすぐにわかる場合(ex.正絹と思って高値で仕入れたら実はポリエステルだった!)もあれば、その成否がわかるまでに長い時間がかかるものもある(ex.ああ、僕の19年の会社人生は失敗だった!)。
前者のような致命的でない失敗は何度でも繰り返すことができるが、後者のような失敗の場合、失った19年は帰ってこない。
とくに後者のような失敗、間違いというのは、その渦中にある場合、それが間違っているということがなかなかわからない。
というか、人間はそれがわからないようにできている。
たまたま、数日前に読んだこの記事「The Science of Failure: Why Highly Successful People Crave Mistakes(成功している人々がなぜ失敗を求めるのか:失敗の科学」というコラムに、そのことがわかりやすく書いてあった。
つまり、人間が自分の誤りをわからない理由は、
(1)そもそも、自分の失敗を認めることができない
成功した場合、その原因は自分の実力と思い、失敗した場合、その原因は外部要因にあると思う。たとえば、こんな実験がある。『モノポリー』を、スタート時の持ち金を、(a)2000ドル、(b)1000ドルと、明らかな優劣の差をつけて競わせる。もちろん、ほとんどの場合、(a)が勝つのだが、ゲーム後にインタビューをすると、(a)のひとは自分の持ち金が相手の倍あったということはほとんど忘れてしまっていて、その勝利は自分の実力と答える。(*以前の記事)
失敗が外部要因であると思えば、自分の誤りは、永遠に認識することができない。
(2)失敗は寛大さを奪う
成功体験は、ひとを寛大にする。他人に対して優しくなれたりする。
いっぽう、失敗の体験は、寛大さを奪う傾向にある。失敗を重ねていると、ひとは他人や、自分自身に対して(たとえば、時間やお金)、に対して惜しみなく与えるという態度がとれなくなる。そのことが、さらに成功を遠ざける。
(3)「私はいま間違っている」と認めることは、論理的に不可能だ
「たったいま、自分が間違っている最中だ」と認めることができるということは、「たったいま、自分が正しい判断をしている」ということであり、論理的に不可能である。僕らが言えることは、「あのときの自分は間違っていた」ということだけであり、「たったいま、自分が間違っている」ということは、認めることができない。
さて、以上の指摘は、まったくもって、納得できる。
では、どうしたらいいのだろうか?
19年後に失敗だったと納得するようなことがないように、現時点で自分が間違っているのか正しいのか、どうやって知ればいいのだろうか?
このコラムに書いてあった答えは、
日記を書け。
そこに、なるべく詳しく記録を残し、それを時々読み返して、自分が過去にどのようなパターンで失敗してきたのかを知るようにせよ、であった。
それも良いだろう。そのためというわけではないが、僕も55歳になったのを契機に、『10年日記』というのを書き始めた。おそらく、僕が全力で仕事ができるのもあと10年ぐらいしかないので、一日一日を無駄にしたくないという思いだったのだけど、自分の失敗を書いて、あとで見直すためにも良いかもしれない。
しかし、もちろん、頼りにしている先輩、師匠、親友などのアドバイスを、よく聞く。さまざまな、本、とくに名著として長く支持されている本を読む、というようなことも大事だろう。
おそらく、そちらのほうが、実質的に役にたつような気がする。
それにしても、『自分が間違いの渦中にいるときは、そのことを認められないのが人間である』という前提を肝に命じておかなければ、もっとも核心をついたアドバイスもはねつけてしまうだろう。
ああ、厄介な生き物だな、僕らは。
photo by New Old Stock