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ICHIROYAのブログ

元気が出る海外の最新トピックや、ウジウジ考えたこととか、たまに着物のこと! 

★★★当ブログはじつはリサイクル/アンティーク着物屋のブログです。記事をお楽しみいただけましたら最高。いつか、着物が必要になった時に思い出していただければ、なお喜びます!お店はこちらになります。★★★


「絶対孤独のなかで死ぬ」覚悟があるか?

http://www.flickr.com/photos/12071889@N00/442132738

 

  会社員時代にお世話になった、ある社長Xさんがめちゃくちゃカッコよかった。
 当時、頭は禿げ上がった50代後半の、小太りのおっさん。
 見た感じでは、風采の上がらない冴えないオヤジなのだが、仕事はとにかくできる。
 歳のくせに世間の風に敏感で、新しいものを自分の事業にどんどん取り入れて、イケるとみたら、さっさと増員して、事業を拡大していく。
 
 忙しくても、仕事は夕方の3時か4時にやめる。
 あとはよろしく!と言って事務所を後にし、サウナにいく。
 アブラっぽい身体や顔の皮膚から、老廃物を絞りだしたら、清潔に、パリっとなって、夜の町に出かける。
 そして、同伴出勤。
 夜中まで飲む。

 ひっきりなしに、女の子からメールが入る。
「もてますね!」
「アホ!カネやカネ!こんなハゲブタのおっさん、若い娘が好きになるはずないやろ!」

 そんなXさんに、ある時尋ねたことがある。
「そんな風に毎日女の子と飲み歩いて、奥様とか家族とか、問題おきませんの?」
 そしたら、珍しく真顔になって、こう言われた。
「あのな、人間、絶対孤独のなかで死ぬ覚悟をしたら、なんでもできるもんやで。その覚悟さえ決めたら、嫁も子供も、何をやってもついてくる」


 さて、50代になった僕は、事業でも、遊びでも、Xさんには遠く及ばず、ただただ、「死」というものが近づいて、かなりリアルになってきた。
 そして、「絶対孤独のなかで死ぬ」という言葉を、時に思い出す。

 
 僕の家には、かなりひどい認知症になった嫁の父がいる。
 僕の両親は健在で、なんとかふたりで暮らしているが、様々な問題がおきるようになった。
 そして、ヘルパーさんの話を聞いたり、周囲のひとたちの介護の話を聞いて、ますます自分の死に様に思いを馳せるようになった。


 昔のローマ人のなかには、意志の強い人たちがいて、自分で死期を決めて、絶食して死んだという。
 僕にはそんなことはできない。
 でもやはり、一番の望みは、受け入れていようが受け入れていまいが、「絶対孤独のなかで死ぬ」というような、明確な意志のある状態で、最後を迎えたいということだ。


 もし、万一、嫁に先立たれてしまったら、這ってでも、ひとりで暮らす。
 ずっと、何かの仕事をしながら。 
 そして、仕事場で突っ伏して、ひとりで死ぬ。
 
 
 それが理想だけど、話は簡単ではない。
 いくらひとりで生きていく覚悟を決めても、認知症になってしまったら、自分の意志は霧消してしまい、誰かのお世話になるようになってしまう。
 そして、認知症にならなければよいかというと、そうでもない。
 自立の意志は硬く硬く凝り固まっているものの、加齢に伴う判断力の低下がすすむとどうなるか。
 人の助けを拒絶して、あげく、家をゴミ屋敷にしてしまったり、火事を出して周囲に迷惑をかけたりする危険がある。

 
 社会の高齢化は、ますますすすむ。
 一人っ子同士の結婚なら、夫婦は4人の老人を抱えることになり、4人の死に様をみとらないといけない。
 共働きでやっと暮らしていける今の厳しい社会情勢のなかで、子どもたちに介護の負担を負わせたくはない。
 しかし、結局、ある程度のお金を残してやるということ以外に、できることはないのだ。

  
 少し前までは、「絶対孤独のなかで死ぬ」という覚悟が自分にできるのか、と問うていた。
 しかし、いまでは、「絶対孤独のなかで死ぬ」という意志のある状態で最後を迎えることができるのか、と考えるようになった。
 そして、最近、こんな風にも考えるようになった。

 どんな覚悟をしても、自分の死に様は、自分では、けっしてデザインすることができない、のだと。


    

*チェコ好きさんのブログ記事 アラサー♀が『おひとりさまの老後』を読んで考えてみた。 を読み、触発されて書きました

 

photo by Andrea Kirkby