「絶対孤独のなかで死ぬ」覚悟があるか?
会社員時代にお世話になった、ある社長Xさんがめちゃくちゃカッコよかった。
当時、頭は禿げ上がった50代後半の、小太りのおっさん。
見た感じでは、風采の上がらない冴えないオヤジなのだが、仕事はとにかくできる。
歳のくせに世間の風に敏感で、新しいものを自分の事業にどんどん取り入れて、イケるとみたら、さっさと増員して、事業を拡大していく。
忙しくても、仕事は夕方の3時か4時にやめる。
あとはよろしく!と言って事務所を後にし、サウナにいく。
アブラっぽい身体や顔の皮膚から、老廃物を絞りだしたら、清潔に、パリっとなって、夜の町に出かける。
そして、同伴出勤。
夜中まで飲む。
ひっきりなしに、女の子からメールが入る。
「もてますね!」
「アホ!カネやカネ!こんなハゲブタのおっさん、若い娘が好きになるはずないやろ!」
そんなXさんに、ある時尋ねたことがある。
「そんな風に毎日女の子と飲み歩いて、奥様とか家族とか、問題おきませんの?」
そしたら、珍しく真顔になって、こう言われた。
「あのな、人間、絶対孤独のなかで死ぬ覚悟をしたら、なんでもできるもんやで。その覚悟さえ決めたら、嫁も子供も、何をやってもついてくる」
さて、50代になった僕は、事業でも、遊びでも、Xさんには遠く及ばず、ただただ、「死」というものが近づいて、かなりリアルになってきた。
そして、「絶対孤独のなかで死ぬ」という言葉を、時に思い出す。
僕の家には、かなりひどい認知症になった嫁の父がいる。
僕の両親は健在で、なんとかふたりで暮らしているが、様々な問題がおきるようになった。
そして、ヘルパーさんの話を聞いたり、周囲のひとたちの介護の話を聞いて、ますます自分の死に様に思いを馳せるようになった。
昔のローマ人のなかには、意志の強い人たちがいて、自分で死期を決めて、絶食して死んだという。
僕にはそんなことはできない。
でもやはり、一番の望みは、受け入れていようが受け入れていまいが、「絶対孤独のなかで死ぬ」というような、明確な意志のある状態で、最後を迎えたいということだ。
もし、万一、嫁に先立たれてしまったら、這ってでも、ひとりで暮らす。
ずっと、何かの仕事をしながら。
そして、仕事場で突っ伏して、ひとりで死ぬ。
それが理想だけど、話は簡単ではない。
いくらひとりで生きていく覚悟を決めても、認知症になってしまったら、自分の意志は霧消してしまい、誰かのお世話になるようになってしまう。
そして、認知症にならなければよいかというと、そうでもない。
自立の意志は硬く硬く凝り固まっているものの、加齢に伴う判断力の低下がすすむとどうなるか。
人の助けを拒絶して、あげく、家をゴミ屋敷にしてしまったり、火事を出して周囲に迷惑をかけたりする危険がある。
社会の高齢化は、ますますすすむ。
一人っ子同士の結婚なら、夫婦は4人の老人を抱えることになり、4人の死に様をみとらないといけない。
共働きでやっと暮らしていける今の厳しい社会情勢のなかで、子どもたちに介護の負担を負わせたくはない。
しかし、結局、ある程度のお金を残してやるということ以外に、できることはないのだ。
少し前までは、「絶対孤独のなかで死ぬ」という覚悟が自分にできるのか、と問うていた。
しかし、いまでは、「絶対孤独のなかで死ぬ」という意志のある状態で最後を迎えることができるのか、と考えるようになった。
そして、最近、こんな風にも考えるようになった。
どんな覚悟をしても、自分の死に様は、自分では、けっしてデザインすることができない、のだと。
*チェコ好きさんのブログ記事 アラサー♀が『おひとりさまの老後』を読んで考えてみた。 を読み、触発されて書きました