ぼくの「燃えよ剣」物語
剣の道を志したことがある。
50才のときである。
5才ではない、50才のときである。
人間ドックであれやこれやと、身体の至らぬところを指摘され、生活改善を求められたせいもある。
しかし、それだけではない。
日本人として、日本人の男性として、心技礼一体となった鍛錬に身をおき、凛とした求道の姿勢、無の境地に至らんと欲したのである。
インターネットで検索して、近所に剣道クラブがあることをみつけた。
おもに、子供のための剣道クラブのようである。
しかし、大人の初心者も歓迎と書いてある。
さっそく、門を叩いた。
放課後の、中学校の体育館。
中学生までの男女の子供たちが数十人。
周囲の壁際には、お母さんたちが、十数人。
男女の先生が数人。ふたりの男性が、主として指導される先生のようだ。
座って見学するように指示され、その日から何かさせてもらえるのかと期待していた僕は、すこしがっかりして、体育館の板間に正座してちびっこ剣士たちを見守る。
ちびっこといえども、防具をつけて、練習を始めれば、堂々たる剣士たちである。
が、彼らのほんとうの凄さを知ることになるのは、もっとあとのことである。
僕の目の前のちびっこに、先生が稽古をつけ始めた。
先生は、「腰が入っとらん!」「もっと、来い!」「へなちょこ!」などと叱咤して、そのちびっこを跳ね飛ばす。ちびっこは、ころころ転がされて、それでも、起き上がって先生に打ちこんでいく。
なんども、なんども、そのちびっこは、僕のすぐ目の前に転がされてくるが、なんとか起き上がっていく。
ここに、実は、先生の深い配慮があったようなのである。
つまり、「ここまでやるぞ、あんた、ほんとうにやれるのか?」と。
僕のほうは、剣の道に早く踏み込みたい一心で、そんなことは露とも感じない。
僕は入門を許されてしまい、
翌週から竹刀を振ることになった。
もちろん、初心者は別メニューである。
始めたばかりの小学生数人と、そのお母さんのひとりの初心者グループにはいる。
先生は、やさしくも厳しい、女性剣士の方である。
最初はとにかく素振りと足さばきである。
自分の半分ぐらいのサイズのちびっこたちといっしょに、一生懸命、竹刀を振る。
さすがに、50才である。
身体は思ったようには、動かない。
ちびっこたち、お母さんに負けまいとして、懸命にがんばるが、いかんせん、頭の中のイメージと、身体に現れて、先生の目に映る僕の所作は、まったく合致していないようである。
それでも、その頃は幸せであった。
稽古は週2回であるが、稽古の日は楽しみであり、稽古のない日は、毎日素振りをした。
藍の香りのする袴と上着の剣道着を買い、少しずつ剣士らしくなってくる。
防具も、長年使うものと思い、けっこうな額のものを、発注した。面をかぶることを許される頃には、それも手元に届くだろう、とわくわくする。
成人男性が入門した、ということで、先生の期待も過大であり、ひょっとしてゆくゆくは指導者のヘルプぐらいの役には立つかも、と思っておられるようであり、また、周囲で見学されているお母さんがたも、興味津々のようで、やさしくしてくださる。
しかし、僕には腰痛がある。( 腰痛のことを書いた記事 )
腰をかばいかばいの稽古である。
先生には、腰痛のことは言ってあるが、どの先生もはっきりとはおっしゃらないが、「剣道で鍛えれば腰痛は治る」という考えの持ち主のようなのだ。
そのころ、腰痛の状態はあまりよくなく、たとえば、「腹筋!」と、仰向けに寝て、手を頭に起き上がろうとしても、まったく起き上がれない。
それを目にした初心者チームのちびっこたちの視線も厳しい。
しかし、しかし、である。
2回ほど、ぎくっとやってしまった僕である。
また、あのようなことがあると、仕入もできず、仕事がとまってしまい、お客様にもスタッフにもたいへんな迷惑をかけてしまう。
ご飯を食べれてこその、剣の道なのである。
いくら皆の視線が気になっても、ぎくっときては困るのである。
さて、その頃から、だんだん、稽古の日が苦痛になって、稽古のない日が、とてつもなく幸福な一日に思えるようになる。
ちびっこの仲間たちや、お母さんたち、先生の皆さんの視線がとても気になる。
稽古も、後半の時間は、初心者チームも、全体練習にはいる。
全体練習では、ふたつのグループにわかれ、一定の時間互いに打ち合い、先生の合図で、いったん後ろに下がり、ひとつ横にずれて、また、次の相手と打ち合う方式である。
そうなると、50才であれ、腰痛であれ、初心者であれ、自分だけ休むわけにはいかないのである。自分だけ、脱落すると、相手のいない一人ができてしまい、全体に迷惑がかかってしまう。
入門するまえに、ランニングなどをして、多少身体は慣らしていたのだ。
稽古が苦しいのは仕方がないが、ちびっこ達にとことんついていって、ぎくっときたらとか、身体を壊してしまったらと、気がきではない。
そうこうしているうちに、中国だか韓国だかでオーダーメイドしてくれた防具が届いた。
ああ、来てしまったか、
すでに、そんな心境である。
この日のために用意したコンタクトレンズをはめ、暗い気持ちで真新しい防具をもって稽古にいく。
ちょうどその頃、クラブは大きな大会があって、芳しい成績を上げれずに終わっていた。
その日、先生たちの様子は明らかにふだんと異なっていた。
いつもならとうに終わっている打ち込みが終わらない。
つぎつぎに相手を替えて、また、打ち込みである。
声が小さくなったり、元気がなくなると先生の喝が飛ぶ。
で、延々終わらないのである。
先生たちは、その日、子供たちに、全員に特大級の喝を入れていたのである。
ふだんの稽古でも限界ギリギリを耐えていたのだ。
しかも、初めてつけた面のせいで、息も苦しい。
僕はまさに死にかけている。
子供たちの体力は永遠に続くかと思わせるほどである。
元気が落ちることもなく、延々と稽古が続く。
周囲で見ているお母さんたちにも、「いつもと違う!」とふだんとは異なる緊張感が伝わり、体育館の雰囲気はピンとはりつめている。
列から離れて休みたい。
が、どうして、こんなときに、僕だけ、脱落して、皆に迷惑をかけることができようか。
が、ついに、僕はあきらめて、列から出た。
僕は死にはしなかったが、僕のなかで何かが死んでしまった。
先生たち、お母さんたち、クラブの皆さん、結果的に、わずか2,3か月でやめることになってしまい、ほんとうにご迷惑をおかけし、申し訳ありませんでした。
お手本になるどころか、ダメな大人の見本になってしまいました。
でも、いまの僕には、稽古を続けさせていただくのは、ほんとうに、無理だったんです。
慙愧に耐えない思いです。
いまでも現役の剣士の大学時代の友人にこの話をすると、彼がこう慰めてくれました。
子供は不死身。
中高年が子供といっしょに剣道を学ぶのは無理。
ああ、5才に戻れたらなあ!
きっと今頃、全日本選手権の常連になり、無の境地にいたっているに違いにない。
あいかわらず、だめだめの、「燃えない剣」の顛末でした。