短編小説20『86』
Photo by Toyota Motor Europe
母が入居する介護施設『やまぶき』の駐車場には、オレンジの86が停まっていた。
妻の車CX3の助手席から降りた妻は、その86に歩み寄るとナンバープレートをまじまじと見つめた。低木の垣根に接している後部に回り込んで首を伸ばし、やがて私の元へ歩み寄って言った。
「この車だわ」
先週、介護施設から帰る途中に、無謀な運転のオレンジの車のせいで事故にあいかけた。「この車」がその時の車を意味していることは、いつも妻に察しが悪いと言われている私にもすぐにわかった。
『やまぶき』はM市の郊外にあって、高速の出口からM市の市街をかすめてたどり着くまでには、しばらくカーブの多い里山の中の道を走らなければならない。
先週、用事で行けない僕の代わりに、妻がひとりで『やまぶき』に向かっている時、右回りのカーブから飛び出してきた対向車がすべって、妻の車に衝突しかけたという。思わず左にハンドルを切ったおかげで、妻の車はあわやガードレールに接触というところであった。
妻は車には疎い。CX3も、鮮やかなワインレッド、ヨーロッパ風のデザイン、車高の高さと取り回しの良いサイズでみずから選んだ車であったが、頭のなかにはポルシェとフェラーリの区別もない。その車が86であったということは、ドライバーは運転好きに違いなく、カーブで滑っていたのではなく、ドリフトを決めてカーブを回っていった可能性もある。妻の車がガードレールにあてずに済んだところを見ると、車線のはみ出しもわずかなものだったのかもしれない。
だが、公道でのドリフトは違法である。妻が危うく事故を起こしかけたことは間違いなく、改めて怒りが湧き上がってくる。
「なぜ、この車だって断定できる?」
「だって、こんな形、色だったし、ナンバーがほら・・・」
妻の視線の先には、ある数字を4つ並べた、ひと目見たら忘れようのないナンバープレートがついていた。
「一瞬見ただけだから自信なかったけど、やっぱり間違いないわ」
『やまぶき』の駐車場は、建物の手前にあるアスファルト敷の場所の他に、建物の裏側にも整地しただけの場所がある。
私が停めて、86も停まっているその場所は、アスファルトの駐車場である。
来客のものだろうか?
それとも、職員のものだろうか?
怒りとともに、戸惑いが広がる。
相手はどんな男だろうか?
一週間前の危険な暴走行為をたしなめたとして、相手は聞く耳を持つだろうか?
見たところ、この86はノーマルのようだが、暴走族のメンバーのような男だったら・・・妻をなだめるだけにしておいたほうが、面倒がなくて良いのではないだろうか?
考えがまとまらないまま、私は86を後にして『やまぶき』の玄関に向かった。
『やまぶき』の玄関でブザーを押し、中から3か所につけられた鍵を開けてもらう。
扉を引き開いたところには、見慣れない女性職員がいた。
白髪交じりの髪をなんとかなでつけて、眼鏡をかけてようやく外向きの顔にした、そんな感じの中年女性。城田の息子ですと言うと、ご苦労さまですと、少し微笑んでスリッパを私達のためにふたつ降ろしてくれた。
来訪者用のノートを開いて、名前を記入する。
ほぼ2週間おきに自分の名前がある。その合間に、私たちより近くに住んでいる妹の名前が、書かれている。
母は要介護5。そういえば、母の年齢も、ちょうど86才。
まだ頭がしっかりしていた数年前に、家のアプローチの階段で転んで、激しく足を折った。何十本ものボルトを入れる手術を乗り越えて、なんとか杖で立ち上がれるまでにいったんは回復したものの、車椅子となり、その後、妄想をともなう認知症を発症。
いまでは、昼間も寝ていることが多く、起きて話している時も、会話はまったく通じない。
一時、妻の父を家に引き取っていたことがあった。だから、この状態の母を引き取って自宅で介護することが、私たちに、もしくは、妹家族にどれだけ大きな負担になるかわかっていた。実際のところ、不可能である。だが、この施設におまかせさせていただいているのを良いことに、2週間に一回しか顔を見に来ないというのも、薄情ではないか、そう思うこともある。私よりずっと面倒を見ている妹はそのあたりはクールで、まだ先は長いから、無理のない程度でいいのよ、と言う。
たしかに、ノートを見ていると、入居者の数のわりには、訪問者の名前は少ない。私たちの名前が、そのリストではやや多いように思える。それに、介護施設に来た時に、ほかの入居者の家族が来訪しているところに、ほとんど会ったことがない。
その日も、来訪者は、私たちだけであった。
記帳をすませると、ダイニングルームに入った。
正面のよく目立つところに、職員の顔写真と名前やプロフィールの書かれた紙が貼ってある。さきほどの女性の名前が、「南祐子」であることがわかった。
南さんの横に、茶髪の若い男の顔写真があった。
ほかの顔写真は、見たことがある面々だったが、この男性もはじめて見る顔である。
プロフィールによると、名前は「前島祐介」。
そして、その下に、「趣味・車」と本人が書いたらしいやや乱暴な文字。
ちょうど昼食時にかかっており、ダイニングルームには7、8人の入居者が座り、4人のスタッフが食事の補助などをしていた。
母も車椅子のままテーブルの前に座って、目をつむっていた。
そして、もうひとつのテーブルに、その前島という若者のものに違いない茶色の頭が見えた。
私たちは50代後半で、妻と小さな会社を経営しているため、母の介護に生活の大半の時間をかけることはできない。
母の介護に、国が手を貸してくれることで、私たちも母もなんとか生きていくことができる。
が、若い介護職員を見ると、ときどき、こんなことでいいのかと思う。
母の食事の介助や下の世話を若い人にさせて、自分たちは少なくても嫌いではないビジネスをさせてもらっている。
介護という仕事の尊さはわかっているつもりだし、若い男性の中にもそれを天職とする素晴らしい人間性の人たちもいると、理解しているつもりだ。
だが、心のどこかに、申し訳ないという思いが居座っている。
しかし。
前島という若い男性職員の趣味は車で、走り屋たちにもっとも支持されている手頃な86というスポーツカーに乗っている。前島くんは、厳しい違いない介護の仕事の傍ら、好きなことも楽しんでいる。
最高に楽しいスポーツカーをと、トヨタとスバルのエンジニアたちが火花を散らしながら作り上げた86。
その86が、私にとってまるで免罪符のように思えたのである。
妻も職員紹介に気がついて、「趣味・車」と書かれたあたりを指差して、怒りを宿した目で私を見た。
若い頃の自分か、自分の息子に、母の介護を押しつけているのような罪悪感とそれをすこしやわらげてくれた86。しかし、その相手に危険にさらされた妻だ。説明もせずに、わたしのそんな思いを共有してくれるはずもない。危険な運転で妻の背筋を凍らせ、一歩間違えば後続車に追突するなどの大事故になっていた可能性もあるのである。妻のことを考えれば、あの86の持ち主にちゃんと抗議すべきなのである。
母の横に小さな椅子を置いて、私は職員のひとりから、食事の介助を引き取ることにした。
母は目をつむったままである。
開けようにも接着剤のように目やにが張りついている。
妻が職員からウェットティッシュをもらい、閉じた目にこびりついた目やにを拭ってくれる。最近、ほとんどの時間を眠っているという母の目やには簡単にはとれない。
妻が声をかける。
「お母さん、息子が来ましたよ、ほら、目を開けて、コウタを見てやってください」
母は目を開こうとするが、かすかに開けても、また閉じてしまう。まぶたを開けたところで、老人性色素斑の目が、ちゃんと私の顔の輪郭を認識してくれるのか、怪しいものなのだが。
スプーンで、ごはんをほんの少しすくい、「唇につけて、ごはんだよ、口を開けて」と声をかける。
母はゆっくりと唇を開く。その隙間に白いごはんを押し込むように入れると、母は咀嚼を始める・・・
「どうせ、あたしらは、ただの金づる。こうやって、生かしといたら、カネになるしな。まあ、家畜みたいなもんやな」
ひとつ離れたテーブルで、そんな声が上がった。
その声の主を知っている。
白髪交じりパーマをあてたばかりのような髪、怒りを滲ませている渋い表情、太い身体。
その女性は、施設の中に響き渡る大きな声で、いつも世の中への呪詛の言葉を唱えているのである。
「死んでも、すぐに次が入ってくるしな。タグチさんの時も、次の日には部屋が空になって、後釜がすぐに入ってきたから、びっくりした。息子も娘も、子供らはみんな鬼や。ここがどんなとこか知ってて、世話になった親を放り込んで、知らん顔。まったく、訊ねても来ん。お前らはみんな鬼や、人間とちゃう」
「悲しくなるから、そんなこと言わんといてください」
その声の主を辿ると、その声は、彼女のそばに座っていたあの茶髪の青年、前島くんのものであった。
「ほんまのことや」
「そんなことないですって」
前島くんはスプーンを別の入居者の口に近づけながら言った。
残念ながら、彼の反論には力がない。
しかし、どう言えば、いったい誰が、彼女の言葉を完全に否定できるのか。
彼女の子供たちは、彼女の言葉通り、まったく訊ねて来ないのかもしれない。見たところ身体の機能に問題のなさそうな彼女は介護度も低く、彼女は自分の家で暮らしたかったのかもしれない。
私たちが母の部屋に訪れている時、彼女のそんな呪詛の言葉を何度も聞いたが、誰もやめさせようとはしなかった。
入居者も、職員も、訪問者も、彼女の言葉を聞くのは辛いに違いないのだが、かといって、誰も彼女を黙らせることができない。
ましてや、新入りの前島くんに、そんなことを期待しても無駄だろう。
私と妻は顔を見合わせ、食事の間はその言葉を聞き続けなければならないと、暗い覚悟をした。
が、その時、玄関を開けてくれた南という新しい女性職員が近づいて、その女性の横に座った。
「なに言ってはるんですか」
彼女は優しく声をかけた。
「みんな知ってるけど、言わんことを教えたってるんや」
「まあ、素敵」
南さんはそう言うと、女性に抱きついた。
「好き。ぎゅっとさせて。ほんとうに好き」
南さんは女性の広い身体に両腕を回して身体を密着させている。
「好き、好き」
女性は呪詛の言葉を中断し、腕を振りほどこうともせず、迷惑そうな、それでいて嬉しさを隠しきれないような表情をしている。
「ごはん済んだね。じゃ、ちょっと、私と散歩行って」
「嫌」
「そんなこと言わんと。こんなに好きなんよ」
彼女は立ち上がった。そして、ちょっとだけやでと言うと、南さんに手を取られて、ダイニングルームから出ていった。
その時、彼女の表情からは呪いが消えていた。
部屋から出ていく時、南さんはダイニングに残った私たちに、なんの素振りも見せなかった。それが、さも当然の行為であるかのように。
食事の後、母を部屋に連れていき、持参した和菓子やプリンを食べさせようとしたが、母は目をつむったまま、開いた唇を震わせるばかりで、何も食べず、私たちを認識もしなかった。
「素敵な職員さんが入ったのね」と妻が言った。
「そうだな」と私。
私たちの思いは同じだったに違いない。それを口に出して確かめるまでもなかった。
母をベッドに寝かせ、部屋を後にした。
いつものように見かけた職員さんに礼を言った。
とりわけ、南さんに礼を言いたかったのだが、彼女の姿は見当たらなかった。
鍵を開けて玄関を出て、細い庭を歩いて駐車場へ向かった。
一進一退を繰り返す母の状態は思わしくなかったが、南さんのおかげで私たちの胸には暖かなものが宿っていた。
それは、肯定的で、力強く、私たちを支えてくれるもののように思えた。
庭の出口の門に差し掛かった時、あのオレンジの86がゆっくりと動き出すのが見えた。
普段なら、そのままやり過ごしたかもしれない。
が、私は走り出した。
南さんほどのことは、私にはできないかもしれない。
でも、その程度のことはできるはずだ。妻の気持ちに落とし前をつけ、誰かを事故に巻き込むかもしれない危険な運転はやめさせるのだ。
私は鉄の門を開け、全速で走った。
86はゆっくりとテールを見せ、出口に向かっていた。
駐車場の出口から、ノーズを出して左右を確認している時、追いついた私は後部のウインドウを叩いた。
一瞬、発進しかけた86は急ブレーキで止まった、
そして、運転席側の窓が降り始めた。
急に全速で走ったため、また、極度の緊張のため、心臓が口から飛び出しそうであった。
運転席側に向かって歩み寄った時。
ウィンドウから顔を出したのは、茶髪の青年前島くん。
ではなく、南さんであった。
「どうかされました?」
私は用意していた言葉を、すべて失った。
86の持ち主は南さんであった。
奥の駐車場に車高を下げたNワゴンが停めてあったのに後で気がついた。きっと、そちらが前島くんの車なのだろう。
私たちは南さんの対応に感謝の言葉を述べた。
そして、すこし悩んだあげく、思い切って先週の出来事が南さん本人だったかどうか、訊ねた。
「あのときの・・・」南さんは驚きを見せた。
86から降りてくると、妻に深々と頭を下げ、「ほんとうにごめんなさい」と言った。
先週、タグチという入居者が所内で亡くなったのだが、亡くなる直前に南さんを呼んで欲しいと、連絡が入った。
間に合わないかもしれないと思った南さんは、ついスピードを出してしまい、昔の走りをしてしまった。怖い思いをさせたのはわかっていたが、妻の車が無事に停車したところを確認したので、申し訳ないと思いながら、そのまま走り去った。
「昔の走りって」
「暴走族じゃないわよ」
南さんは少しずった眼鏡を人差し指で押し上げると、つけ加えた。
「いまじゃ流行らないけど、若いころ、ハチロクで、峠を走っていたのよ」
妻と私は、走り去る86の垂れ目のテールライトを見送った。
私が南さんにかけた最後の言葉は、「運転にはくれぐれも気をつけてください」であった。
その特別な一日を締めるには、なんとも間の抜けた台詞であった。