人を信じるチカラと求心力
photo by markus spiske
マネージャーになってまだ間もない時のことだった。
あるスタッフが売場からしばらくいなくなった。てっきりサボっていたと思った僕がきつい口調で問い詰めたら、その時どうしても必要な業務を倉庫の隅でやっていたことがわかった。
それ以前に、喫茶店でサボっているスタッフをみつけたりしたこともあって、僕はイライラが募っていたのだ。
その時以来、こう考えることにした。
サボっているか、どこかで必要な仕事をしているかわからない時は、とにかく、必要な仕事をしていると信じよう、と。
そうやってスタッフを信じて得られるもののほうが、疑ってしまうい失うもののほうが大いに違いないと。
例外もあるにはあったが、おおむね、そういう姿勢に変えてから、売場はうまく回り出した。
部下を信じる。
仮にそれでダマされることがあっても、稀なことだ。
信じることで、得られるものを最大にする。
以降、それが僕のマネージャーとしての「信念」となった。
いや、しかし、話はそんなに簡単ではない。
たとえば、僕はいま、小さな会社をやっているが、12年の間には、僕の見ていないところで、業務時間中にほかのサイトを見ていた人がいたし、僕の指示を無視した作業をしていた人もいた。
小さな会社だから、生き残るためには、最高の効率が求められる。また、僕の指示がきちんと守られることは、ある意味、生命線だ。
100%信じればマネージメントはうまくいくと思った僕のスタイルは、小さな会社ではうまく機能しないようだった。
以前、イギリス海軍提督ホレーショ・ネルソンのリーダーシップに関する記事を読んで、こんな記事を書いた。
ネルソン提督のリーダーシップが破格だったのは、彼が人並み外れた『部下を信じるチカラ』を持っていたからだという話である。
その時、もしそうだとしたら、僕は、そしてたいていの普通のリーダーは、『部下を信じるチカラ』が足りないことで、最大のリーダーシップを発揮するチャンスをのがしていることになる。
しかし、巷には、こんなにも、裏切りは溢れている。
誰かを見なくなったなと思ったら、なにか悪いことをしてクビになったらしいよ、という話は日常茶飯事だ。
ほんとうに、ネルソン提督のように、盲目的に100%信じることができれば、相手かからは100%返ってくるのだろうか。
100%返ってこないのは、みんな、信じるチカラが足りないのだろうか。
きっと、それは『求心力』という別の力が作用しているのだな、と最近気づいた。
政治の話の中で、この言葉をよく聞くが、それは、大きくなったり、失ったりする。
それは、人々がそのリーダーに、ついて行こうとする思いの強さ、大きさのことだ。それは、その人についていけば、楽しいことがありそうだとか、生きる意味が見いだせるとか、お金が稼げるとか、名誉を得ることができるとか、そういう期待がつくり出すものだ。
リーダーというのは、常に同じ大きさのリーダーシップを発揮できるわけではなく、求心力の大きさとともに変化する。
幾多の戦いを勝利に導いてきたネルソン提督のような人には、一貫して求心力が備わっており、その人が100%部下を信じたときには、120%のものが返ってくるのであろう。
鶏と卵の話にも似て、どちらが先かということではなく、車の両輪のように支えあっているのだと思う。
求心力がないにもかかわらず、ネルソン提督の真似をして、部下を100%信じれば、たやすく裏切られる。
そういうことではないだろうか。
もし、僕たちが、よりよいリーダーになりたいのであれば、人を信じるチカラと求心力を、『同時に』究極まで、追い求めるしかない。
きっと、そういうことなのではないかと、最近思っている。