『販売の会社』が生き延びる唯一の道は・・・
先週、ある方がある会社のことをこんな風におっしゃった。
「いや、あそこは『販売の会社』ですからね、徹頭徹尾。販売会社っていうのは、どこもそんなものかもしれませんよ」
「しかし、実質のトップは立派なことをおっしゃってますよね」
「いや、強力な販売会社のトップは、どこもそうなんじゃないですかね。〇〇〇も、〇〇〇も、現場は厳しいノルマに追いまくられてますよね」
「・・・・」
なんとなく、気分が沈みがちなのはあの話からかもしれない。また、間が悪いことに、きのうもある会社の話を読んで、そんな実例がひとつ増えてしまった。
販売力のある会社というのは、どこも、その販売方法を定式化していて、その定式化した販売手法を「一定時間」「一定数量」で「厳しい目標」を持たせて実施すると、かならずある程度の売上ができるようになっている。
その販売手法を詳しく聞くと、その洗練度合に驚くほかないのだけど、「厳しい目標」を背負わせ続けると、現場は「お客様」のためにではなく、たんに目標をクリアするためだけに走り始める。
そうなってしまうとお客様がローンを払えなくなろうが、大損しようが、破産しようが、自社に利益をもたらすものが多ければ『可』となり、それが唯一の基準となってしまうのだ。
もちろん、関与しないのはお客様の利益だけではなくて、社員や取引先もそうで、自社に利益をもたらさないものは、短期で使い捨てる。
そして、滑稽なことに、そういう販売力で大きくなった会社のトップは、しばしば『お客様のために、〇〇文化のために』と大きな声できれいごとを並べる。
そういう話は、いっぱい転がっている。
ネットでも、そんな実態を書いた記事がときどき注目される。
しかし、そういう会社が徹底的に指弾されることはない。そもそも、大きな利益を上げて成長している会社であり、実際のところ、その会社から利益を受け取っているひとも多いからだ。
客としても、取引先としても、相手が猛獣であるということを知って、ちゃんと対処できる人間には、そういう会社は便利だ。実際のところ、カネがついてくるし、相手に食われそうになったら、うまく身をかわせばよい。
だが、この種の猛獣を相手に、うまく立ち回って自分の利益を確保できる人間のほうが少数派だ。だからこそ、そういう会社がうまく回って大きくなっていく。
結局、この弱肉強食の社会では、会社を大きくして、より社会に大きな貢献をしようとすれば、そうするよりほかないのだろうか?
もし、僕が新卒でそんな会社に入ってしまったら、辞めることはとりもなおさずドロップアウトしてしまうことで、なにがなんでもその競争を勝ち抜いてみせなければならないのだろうか?
目の前の多少の理不尽には目をつぶり、組織の重要な決定に関与できるようになるまでは、ただ、黙ってその試練に耐え、やがては会社を、社会を変えてやると、できそうもない理想の火をもやし続けることが唯一生き延びる道なのだろうか?
ああ、わからない。 55年も生きてきて、まだ、わからない。
photo by Miguel Pires da Rosa