「ウソ」から始まって「真実」に変わるのが、「働く」ってことでは?
僕だけでなく、ひとは人生で二度迷うのだと思い始めた。
いぬじん (id:inujin)さんが最近働くことに関しての記事を書いておられるのだけど、そのなかにこのように書かれていた。
しかし、僕は本当に面倒な人間なので、何か新たなことを見つけようとしても、それは本当に人生を賭してやりたいことなのか、と自問してしまい、そのたびに、いや、そこまでのテーマじゃあないなと思ってしまうわけである。
いぬじんさんのお歳を正確には知らないのだけど、「おっさん予備軍」もしくは「中年の入り口」あたりにおられる方のようで、ちょうど僕が10数年前に会社を辞めるかどうかで悩みに悩んでいた頃と同じようなテーマを考えておられるなと思った。
いぬじんさんも書いておられるように、高校卒業時の進路を決める時、あるいは最初の就職の時に、みんな悩みに悩むのだけど、中年頃になってもまた、オレの人生コレでよかったのか?みたいな悩みが大きくなるのも、よほどの人でない限りありふれた道行なのかなと思う。とくに昨今、変化が激しくて終身雇用が崩壊しつつある状況では、それも当然かなと思う。
いぬじんさんはこの記事で、このような決着を書いておられる。
だったらどうすればいいのか。
そこで「ウソ」の出番なのだ。
そもそも、「努力をして成長すれば、輝かしい未来が待っている」とか「お金をちゃんと貯金していれば老後も困らない」とか「ローンを組んで家を買うのが家族思いの良い夫」とかいうのも、基本的には「ウソ」である。ただ、国民の多くがそのウソに合意することによって、これまでうまく機能してきただけの話だ。
ポイントは、そのウソに対して、自分はもちろんのこと他の人も「乗っかりたい」と思うウソをつけるかどうか、そこだけなのである。僕が「働くことは、参加すること」と言っているのは、「ウソに参加すること」という意味も含まれている。
仕事なんて、しょせん、ウソなのだ。
言っておられることはよくわかるのだが、それを「ウソ」と言うべきなのかなと思って、ちょっと考えこんでしまった。
いぬじんさんもおっしゃっているように、世の中には「お金を稼ぐために自分ができることをすればよいと割り切っているひと」もいれば、「自分がしたいことをして、社会に貢献し報酬ももらいたいひと」もいる。
いぬじんさんは後者で、「自分がしたいこと」がみつからないから、そこは「ウソ」をついてでも「社会に参加する」ことが「働くこと」であるというようにおっしゃっている。
結局のところ、「自分がしたいこと」「ライフワーク」をみつけたいのにみつからないのにみつからない、どうしたらよいのかという古典的な問題に行き当たる。
そこをいぬじんさんは「ウソと割りきって参加していく」と書いておられるし、つい思い浮かべるのはベストセラーのタイトル「置かれた場所で咲きなさい」である。
天職をもって生まれてきたようなひとがいる。
以前の記事で紹介したこの先生は、過酷な子供時代を過ごしたあと警察官として順調に出世していたのに教師に転職された。この方の文章を読んでいると、たしかにこの方は「教師」になるべく生まれてきたのだなと思う。
だけど、たいていのひとにはそういった「天職」は与えられていないのが現実だと思う。だから、「世の中のために◯◯がやりたいんです!」と絶叫しても、周囲のひとたちを納得させることは難しくて、「そりゃ、それはいいことだけど、なぜお前なの?」という反応に跳ね返されることになる。
「自分がしたいこと」を、誰よりもうまくできるなら問題は一気に解決する。しかし、プロ野球の例を引き合いに出すまでもなく、たいてい上には上がいて、報酬をいただけるほど上手くやれるひとはほんの一握りだ。
ちょうど、いぬじんさんと同じようなことを考えていたとき、かつての鬼上司の古屋さんと話をさせていただく機会があり、そんな話になった。
敏腕広告ディレクターだった古屋さんも今では退職して、「草うし」の普及をライフワークに取り組んでおられるのだけど、その古屋さんがこんな風に語ってくれた。
「ライフワークって、これしかない!って簡単にみつかるもんじゃないんじゃないかな。これかなと思ってやってみる、うまく行くときもあれば、いかない時もあり、やっぱりこれじゃないと思ったりする。そうやって、いわば半信半疑でも続けていくうちに、やっとライフワークになっていくもんだ」
古屋さんのこの言葉は大きかった。
すとんと腑に落ちた。
そういえば、伊能忠敬が日本の正確な地図を作った始まりは、「日本のために正確な地図をつくりたい」ということをライフワークとして設定したわけではなく、「当時の世界的な科学の最先端の問題、地球の直径は正確にはどれほどかを自分で測ってみたかった」という強烈な好奇心だった。
それが紆余曲折を経て後世に残るライフワークに結実したのだった。
そもそも僕などが「宇宙旅行を一般的にしたい」とか「世界の貧困をなくしたい」といかに熱烈に思ったとしても、何にもできない。
やっぱりそこには、それに相応しいひとの階段があり僕は一段目にもいやしない。
もちろんそんなことができるのなら、すぐにでも「人生を賭して」とりかかるほど「やりたいこと」になるだろう。
でも、「やりたいこと」は「やれること」から選ばねばならず、「やれること」のなかから、「わくわくして熱中できるもの」を設定することは、論理的に考えてとても難しいことなのだ。
結局のところ、「やりたい『こと』」を探すのはほどほどにして、「やりたい『よう』にやる」こと、「自分が納得するように、信じるとおりの『やりかた』にすること」「その仕事がもっとも価値を持ちうるような『方法を模索していく』こと」が、ライフワークテーマへの近道ではないか、と思うのだ。
自分の話で恐縮だが、僕の仕事は古着屋であり誰かにうらやんでもらえるものではない。
でも、努力すれば、お客様族や従業員や取引先をちょっとでも幸せにすることができるし、古い染織品を後世に残すということにおいてより意義のあるアクションもできる。
僕の仕事が誰かの「やりたいこと」にあげられることはなくても、「やりたいように」「自分が信じるように」「ちょっとでも関係者を幸せにするようなやりかたで」やろうと努力することはできる、と思っている。
いぬじんさんの言う「ウソ」という言葉は、僕らの置かれている状況をうまく表していると思う。
だけど、「ウソ」で始まって真実に変わるのが、ライフワークであり、働くということなのではないのかなと、最近、僕は思っているのだ。
photo by Kevin Cole