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ICHIROYAのブログ

元気が出る海外の最新トピックや、ウジウジ考えたこととか、たまに着物のこと! 

★★★当ブログはじつはリサイクル/アンティーク着物屋のブログです。記事をお楽しみいただけましたら最高。いつか、着物が必要になった時に思い出していただければ、なお喜びます!お店はこちらになります。★★★


Kimono Flea Market ICHIROYA's News Letter No.658

 

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Danny Choo | Flickr

Dear Newsletter readers,

This is Mari at Ichiroya.
By the time you read this newsletter, we are about ending up our annual summer holidays, "Obon Yasumi". "Obon" is just like "Day of the dead". Generally speaking, "Obon" is about 8/13-17, the period of time we believe that spirits of dead come back to this world. It is
common that all the family members gather, visit graves of our ancestors and pray. We welcome our ancestors at home by having parties. We also have "Bon Odori"(Obon dance party) in each region. It is popular to wear Yukata to dance "Bon Odori".
We have many customers in Hawaii who wear Yukata for "Bon Odori" in their community.
We will be back with fully charged energy after our "Obon Yasumi"!

************************************************************************************


It has been while since we talked about how to distinguish different types of fabrics. Mitsue talked about silk. Then, Mei talked about wool and cellulose.
Now, let's talk about how to distinguish those fibers sach as cotton, asa (ramie)
and 'Jinken'(rayon) which are made from cellulose.
They all burn just like paper.
*The fire spreads.
*We can crash cinders.

Cotton and asa (ramie) are short fibers.
They were made by twisting 1mm to 5mm short fibers. On the other hand, 'Jinken'(rayon) has both long and short type fibers. However, it is more
common to use long fibers to recreate smooth texture like silk. You can
see the difference by looking them with microscope.

Like I mentioned earlier, cotton and asa (ramie) are both short fibers.
It is common that asa (ramie) is relatively longer fiber and smooth on its
surface. Cotton is twisted shorter fibers and fluffy.
'Jinken'(rayon) has smoother surface than those two which gives artificial
impression.

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Noto-jofu

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Ohmi-jofu

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Nara-sarashi

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Yumigahama-kasuri

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Mashiko-momen

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Bingo-kasuri

The top three images are asa (ramie).
The bottom three images are cotton.
Can you see the difference in between the smooth and fluffy surface?

However, the asa (ramie) which was machine spun is difficult to distinguish.
The following is the image of "Yaeyama Koufu"(Yaeyama mixed weave).
The weft is cotton, warp is machine spun asa (ramie).
It is hard to recognize the difference in between them.

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"Yaeyama Koufu"(Yaeyama mixed weave)
     Weft: cotton, Warp: machine spun asa (ramie)

'Jinken'(rayon), which is formed by longer fiber, is easier to distinguish.
The following is an enlarged image of a vintage transparent Ro summer kimono.

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 'Jinken'(rayon)  x50

You can see the sleek and artificial texture of the thread.
Actually, the sleek texture is easier to see with the actual textile.

However, there are variety of textiles sach as "Yaeyama Koshoku" which is
blend of cotton and asa (ramie), cotton which is woven with asa (ramie) like
very thin threads.
In conclusion, we need to judge the difference in between asa (ramie),
cotton and 'Jinken'(rayon) as a whole by their textures, checking threads with microscope and so on.

(Continued to next newsletter)

近況短信

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 いよいよ夏休みですね!
 弊社も、13日(土)から21日(日)までお休みをいただきます。
 期間中、ご不便をおかけしますが、なにとぞ、よろしくお願いします。
 スタッフ一同、リフレッシュして、また、頑張ります!
 いくつかご連絡と近況を報告。

■予告していましたアンティーク着物のオンデマンド注文サイト「kimonotte(キモノッテ)」ですが、いろいろと予期せぬことがあり、8月末ごろ~9月初旬のオープンに変更しました。現在、最終の製品モニターをスタッフでおこなっているところです。

■「kimonotte」で採用しているインクジェットプリンターとモデリングシステムは、ほんとうに画期的で、今後大きな潮流になると思います。ただし、課題もありますので、そのあたりは、また、オープン後にお知らせしたいと思っています。

■もうお気づきかと思いますが、ICHIROYAサイトの改良をいくつかおこなっています。後払い、Amazon Paymentの導入、クレジットカード払いの場合のカード番号再入力不要(ご希望の方のみ)など、お買い求めやすくなっていると思います。また、検索機能の充実なども9月以降取り組んでいきます。

■ICHIROYAサイトは、今年から、日数の経ったものはお安くマークダウンしておりますが、今後もマークダウンは継続し、また、さらに新商品の追加数を増やし、より、バラエティに飛んだ商品内容にしていきたいと思います。スタッフの増員や教育が必要ですので、すぐにとはいかないかもしれませんが、秋の最重要課題として、がんばります。

■僕個人のブログ、創作活動ですが、週1回の短編小説を書いて、20本になりました。ちょうど、21本目で、詰まっています。また、20本の過程でさまざまなことを学んだんですが、「内容が面白い」という以前に、「タイトルやあらすじだけで、強烈に面白そう!」でないと、小説は読んでもらえないな、と痛感しています。書き続けることは変えませんが、発表の仕方(いつどこにどんなものを出すか、ネットか賞への応募か)を含めて、しばらく考えなおしたいと思います。不定期で、ある程度は、こちらにも、アップするとは思いますが・・・なお、20作のうち、まずまず好評をいただいたのが、下記のふたつです。もし、お暇なら読んでくだされば嬉しいです。

 

kyouki.hatenablog.com

 (↑「小説家になろう」でも、ポイントをいただきました)

kyouki.hatenablog.com

 では、みなさんも、よいサマーバカンスを!

 

Kimono Flea Market ICHIROYA's News Letter No.657

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                                                                                             photo by  mrhayata


短編小説19 『はうす!』 (『犬になる』改題)

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                                                                                          photo by  Brian Lauer

 

『ある朝、植田昭一が気がかりな夢から目覚めたとき、自分がベッドの上で一匹の犬に変ってしまっているのに気づいた』

 いや、カフカを気取っている場合ではない。

 正確に言うと、「犬に変わってしまった」のではない。我が家で飼っていたラブラドール・レトリバーのゴンの身体に、僕の心が転移したらしいのである。朝、目が覚めて何気なくベッドから降りて伸びをしたら、目の前の景色がいつもと違っていた。目の高さに妻、夏子のベッドのマットレスの側面がある。妻はどうしたのかなと確かめようとしたら、ベッドの上の様子が視覚に入ってこず、見えないのである。僕は顎をベッドの上に乗せて、くしゃくしゃになったシーツの山の間から夏子を探した。

 待て。

 そんな視線から、ベッドを見たことはない。

 ふと、手元を見たら、見慣れたゴンの手、というか、前足がフローリングの上にあった。前足を動かしてみる。前足をひねって、爪と肉球を見た。顔に近づけると、ゴンの肉球のあいだのあのすえた匂いがした。

 不思議と、嫌な匂いではない。

 いや、その時に気がついた。

 ありとあらゆる匂いが、僕の周りの空間、その部屋に満ちていた。色とりどりのカードを空間にばらまいたような、匂いの数々。ベッドに漂う妻の汗の匂いや、フローリングの床のあちこちで点々と匂いを発している僕の靴下の匂い、洗いたての枕カバーに残っている石鹸の香り、クロゼットの中に押し込まれた封を切ったドッグフードの匂い。そういった覚えのある匂いはほんの一部で、部屋は僕の知らない匂いで満ちていた。まるで匂いの万華鏡の中にいるようであった。

 全身鏡を貼ってあるクロゼットの前に行った。

 鏡の向こうに現れたのは、やはり、ラブラドール・レトリバーのゴンであった。

 もちろん、僕は動転した。

 だが、カフカの『変身』の主人公のグレゴリーのように、立ち上がるにも、多すぎる足にどうしたらよいかわからないという状況ではない。幸い、身体は軽く、何キロでも走れそうであるし、筋肉には力が満ちている。

 ともかく、妻と長女に事情を話さなければと思い、僕はリビングに通じるドアを開けようとした。

 ドアの取手を見上げる、そいつを押し下げて、ドアを引っ張れば、ドアは開く。床を蹴って、前足をドアについて立ち上がる。右前足を取手にかけるが、滑りやすく、肉球でこんもりした掌は、取手をつかむことができない。それに、やっとの思いで取っ手を押し下げてみても、左前足に体重をのせてドアにもたれかかっているので、ドアを手前に引くことができないのである。

 何度かトライしてみて、今の自分にはドアを開けるができないことを思い知った。

 

 僕はそこに寝そべって、右前足に顎を乗せ、大きな溜息をついた。

 世の中は不条理と不思議に満ちている。

 が、よくよく考えてみると、自分の心がゴンの身体に転移したということにも、一筋の条理が通っているような気もするのである。

 

 数年前、大きな犬を飼いたいと、妻と娘が言い出した時、僕は保護施設からゴンを引き取ってきた。ラブラドールの子犬なら引き取り手も多かろうと思ったのだが、ゴンはすでに子犬の姿はしておらず、すでに中型犬の成犬の大きさで、僕が選ばなければ、やがて処分される運命だったように思われた。ラブラドールなら、黒かブラウンで、できればメスというのが、我が家の希望ではあったので、ゴンはまったくそんな条件を満たしていなかった。家に連れ帰った後の家族の反応が不安であった。 

 それでも、ゴンの一途な瞳に見上げられた僕は、ゴンを引き取ることに決めた。

 ともかく、ゴンを見殺しにすることはできない、と強く思ったのであった。

 そうやって僕に選ばれて、命をもらったことに、ゴンは大層感謝しているようであった。

 ラブラドールという犬種は人懐っこく、家族どころか、優しくしてくれる人すべてに、ぶんぶん風を切って尻尾を振り愛想をふりまく。ある程度個体差もあるだろうけど、柴犬などのように飼い主だけに忠誠を誓う犬種ではなく、ともかく、誰かれ構わず、人間一般が大好きである。

 しかし、ゴンは「僕の犬」となった。家族の誰よりも、僕の側にいることを好み、僕の命令をよく聞いた。ラブラドールのくせに、忠犬ハチ公を彷彿とさせる犬に育ったのである。

 ゴンはソファに座る僕の横に上がってきて、太ももに顎を乗せてくつろいで、溜息をついたものだ。

「お前はいいな、幸せで・・・」

 長年連れ添った多くの他の夫婦同様、信頼の糸は繋いだまま、妻と時々激しい口論になる。そんな時、ゴンを横に座らせて、僕はよくぼやいた。

「俺はお前と入れ替わりたいよ。ゴンはいいよな。夏子にガミガミ言われたり、聞きたくない話を延々と聞かされずに済む。それに、お前がつきあう人間は、お前のことを、『打たれ弱いやつ』とか、『君は”兵の将たる器”だけど”将の将たる器”ではないな』とか、言わないだろう? 会社に行かずに、寝て暮らしても、ちゃんと食べるものも出てくるし。お前はわかっているのか、自分がどれだけ幸せか」

 ゴンは目の下に白目を見せて僕を見上げて、同情心に満ちたような表情をする。

 

 さて、僕は、50代の自営業者なのだが、いつごろからか、慢性的な頭痛や吐き気に悩まされることになった。働き過ぎて疲れているのかと軽く考えていたのだが、ある日、右手に持ったペンを落とし、力が入らなくなっていることに気がついた。嫌な予感がして、精密検査をしたら、脳腫瘍、しかも、やっかいな、『神経膠芽腫』というものであることがわかった。

 もって、一年。それが医師の見立てであった。

 歳も歳だし、そんなこともあろうかと、中小企業経営者向けの保険に入っていたので、僕が死んでも、妻には十分な財産が残るようにしてある。会社はたたまなければならないので、社員には申し訳ないが、これも運命だから仕方があるまい。

 僕は、妻と会社を整理縮小しながら、闘病生活に入った。

 達観したような台詞を口にはしても、やはり、まだ生きたい。

「俺はまだ、生きたいんだよ、ゴン」

 ゴンにだけはしみじみと弱音を吐いた。

 

 きっと、そのせいだ。

 ゴンは僕のために、その身体をくれたのだ。

 奇妙奇天烈であるには違いないが、それなら、少なくとも条理の糸はつながる。

 余命一年の僕に、命を救ってもらったゴンは、そのお礼に自分の身体をくれたのだ。

 ゴンはまだ6才である。ラブラドール・レトリバーの平均寿命は12年程度と言われているので、6年分の命をくれたことになる。

 余命1年を人間・植田昭一として生きるのが良いのか、余命6年をラブラドール・レトリバーのゴンとして生きるのが良いのか。

 なんだか、ありがた迷惑のような気もする。

が、つらつら考えてみるが、簡単には答えはでない。

 ただ、たしかに、僕は何度も、ゴンの生活を羨んで、入れ替わりたいと話していたのだ。

 恩返しをしたいゴンが、犬にしては賢くても、人間としてはたいぶん足りない、その頭で懸命に考えて、その話を真に受けたとしても、なんら不思議ではない。

―――ふう。そういうことか。ゴンめ、粋なことしやがって。

 「くぅ」

 僕は泣いた。

 泣いたと思ったが、もちろん、犬の僕の目から、涙は出ない。

 

 その日、昼過ぎに足音がして、夏子と大きなおなかをした長女が帰ってきた。

 ようやく寝室のドアが開けられ、僕は無意識に尻尾を振りながら、ダイニングルームにはいって、妻と長女の身体に寄り添った。

 飛びついちゃいけない。そう思ったので、なるべく妻の顔に近づけ、差し出された指を舐めた。

 妻はその場でしゃがみこんで、僕の身体を抱いた。

 僕は妻にキスをしようと、いや、口を舐めようとしたが、妻は顔をそむけた。

――― おいっ

 立腹したが、すぐに自分が犬であることに気がついた。

 仕方がないところである。

 かつての僕も、家族も、ゴンの口には細菌がいっぱいいるからと、口を舐めさせることはやめていたのである。僕はやむなく、妻の指の間を舐めた。僕の舌は長く、妻の指にからみつくように動いた。ここは茶化して話す部分ではないとわかっているのだが、妻の指を舐めたことがあっただろうかと考えて、すこし興奮したことを白状せねばなるまい。僕の尻尾は、昭和の扇風機のようにぶんぶんと風を切っていたに違いない。

「パパ、もう駄目かもしれない。あの発作から、なにも喋れなくなった・・・きっと、腫瘍が大きくなって・・・もうだめなんだわ」

 夏子の目が透明の膜で盛り上がり、涙となって頬を伝った。

「身体は元気だかって、ベッドに縛りつけられてるのよ・・・」

 僕は涙を舐めた。

 僕の長い舌から逃れるようと嫌々しながら、夏子は泣き続けた。

 そうか、いよいよ、僕は、人間としての僕、植田昭一は、意識もなくなり、拘束されたまま、いよいよ死ぬのか・・・

  

 しかし、発作に襲われた人間の僕を、早朝から救急車で病院に届けてきたために、僕、つまり、ラブラドール・レトリバーのゴンの身体を持った僕の、朝食と散歩が忘れられている。

 そういえば、僕は猛烈に空腹だったし、排便排尿がしたかった。

 夏子の涙は、僕の喉をちょっと潤したが、いかんせんしょっぱすぎたし、化粧品の変な味と匂いがした。

 自分の感情を僕にぶつけて満足したらしい夏子は、立ち上がり、ダイニングテーブルの椅子に大きなお腹をさすりながら腰を下ろした長女に、声をかけた。

「お昼まだだったわね。なにか食べられそう? 素麺でいい?」

「うん、いいよ。昨日のおかずの残りもあるしね」と長女。

 なんでもいいが、僕のご飯を思い出してくれ。

 喋りたいが、もちろん、人間の言葉は出ない。どうしてよいかわからず、ふたりの間で行ったり来たりして、顔を見上げた。

 妻と長女は素麺と冷蔵庫から出してきた昨夜の残りの揚げ物とナスのおひたしをはさんで、テーブルで向かい合った。

「途方に暮れるわ。いったい、どうしたらいいのかしら。会社のことも、なにからなにまでわからないし・・・」と妻。

「税理士の田端先生が、全部ご存知なんでしょ。田端先生は信頼できるの?」と長女。

「それは大丈夫だけど・・・お葬式とかも、どうしたらいいんでしょ。業界の人、たくさん来るのかしらね。そこで、私、挨拶とか、しないといけないのかしら。ぞっとするわ」

「そりゃ、仕方ないでしょ。でも、そういうことは、葬儀社の人が全部やってくれるから、心配しなくていいんじゃない。ねえ、ほんとうに、借金とかないのよね」

「さあ、ないとは思うけど、わからないわ」

「どこかから、変なオンナが出てきて、養育費払えって言われたり」

「馬鹿なこと言わないで。そんな甲斐性のある人なら、私の人生も、もうちょっと、わくわくしたに違いないわ」

「わん!」

 つい、口をはさんだ。

 僕が聞いているんだぞ。

 甲斐性がなくて悪かったな。

わくわくする人生でなくて、すまなかったな。

 僕が死にかけているというのに、甲斐性がないたら、葬式の挨拶が嫌だとか、よくもそんなつまらないことばかり言えるな。

 ゴンは、僕のために、自分を犠牲にして、身体まで差し出してくれたんだぞ。

 それに比べてお前たちはどうだ。

 妻は一瞬僕に振り向いて、僕の頭を撫でた。

 そして、すぐに話に戻り、

「あんたの出産と、お葬式が重なったら、最悪ね・・・」

「そんなこと言ったって、仕方がないでしょ」長女が諌めた。

――― 出産と重ならないように、早く死ねと言うのか?

 腹が立った僕は、キッチンの隅に行き、座って、我慢していた放尿を開始した。

「あっ!ママ!ゴンが、あんなとこでオシッコしてる!」

 長女が叫んだ。

 

 もちろん、それから数日というもの、「ゴンの中にいるのは僕だ」と妻と長女に伝えようとした。

 僕はベッドの枕元に充電のために置かれたアイフォンに、メッセージを書いてみようとした。ロック解除のための妻の暗証番号は覚えていたが、爪でも肉球でも番号を押すのは難しかったし、いらついて歯を使うのだが、それも狙いどおりにはいかず、アイフォンはよだれだらけとなった。妻はびしょ濡れのアイフォンをみつけ、ひどく立腹した。

 僕を座らせて、目の前にアイフォンを突きつけて、「やったの!?やったの!?」とがなりたてる。僕はただ首をすくめて嵐が過ぎるのを待った。犯人は僕であると確信した妻は、今度は「ダメでしょ!」という言葉に変えて、金切り声を20回も30回も浴びせた。

 幸い、我が家では、体罰はない。

 体罰でしつけると、よい性格に育たないと教えられてきたからだ。その替りに、こうやって、何十回も耳のそばで叱責を聞かされなければならないのである。

 アイフォンを諦めた僕は、与えられている水に鼻を突っ込み、その水で、床に文字を書いてみた。文字は大きくなる。水には色はついておらず、僕の意図を理解しない妻は、すぐに拭きとってしまう。また、あの金切り声である。「ダメでしょ!」「ダメでしょ!」。妻や長女が目を離したすきに、文字を書いて、メッセージに気づいてもらおうとしたのだが、そこに文字があるという想像力を働かせることができないふたりには、ただの水である。  僕はまた、こっぴどく叱られた。

 ちょうど、季節は春。隣の公園に散歩に行った時、桜の花びらが芝生一面にそのピンクの花弁を敷き詰めたことがあった。

 妻は石のベンチに座り、物思いにふけっている。

 おそらく、僕との結婚が正解だったのかどうか、かりに不正解だったとしても、今から取り返せるだろうかと考えているに違いない。

 桜の木にリードの端をつながれた僕に、最高のチャンスが来た。

 僕は、花びらを鼻先でのけて文字にしようとした。

「ゴンは昭一」

 20分もかかっただろうか。やっと出来た文字、桜の花びらの黒板に書いた文字。犬の僕にもちゃんと読めた。僕は、めったに声を上げて鳴かないのだが、その時は、文字のそばで、鳴いてみた。

 その声に妻はなにか異常を感じたらしく、はっと我に帰り、僕の方を見た。

 その時、上空に漂っていた春の嵐の気まぐれか、一陣の突風が吹き降りて、花びらでつくった文字を消し飛ばしてしまった。

 妻の夏子が歩み寄って来た時には、苦労してつくった文字は、すでになかった。

「なによ、花に桜の花びらがついていわよ」

「くぅ」

 妻は僕の花についていたピンクの花弁をつまみあげて、口をすぼめて雲行きの怪しくなった空に吹き飛ばした。

 

 残念だったが、突風に桜の花びらの文字を吹き飛ばされた時、僕はしみじみと思ったのだ。

 ゴンの中にいるのは僕だと、家族に知らせないほうがいい。

 こんなありえない話を、もし、知らせることができたら、家族親族関係者だけでなく、医学会やマスコミや、2ちゃんねるやはてなブックマークやツィターや、要は、世界中を巻き込んだ大騒動になるだろう。犬に人間の心が転移した。その真偽を巡って、僕はマスコミや世間の好奇に追い回され、検査機関に閉じ込められて、動物実験に使われるだろう。いや、それならましなほうで、記者会見を開けとか、とにかく世間を騒がせたことを謝罪せよなどと突き上げられるに違いない。

 せっかく、ゴンがくれた6年の命を、そんなことで費やしてしまいたくはない。

 ゴンに言ったように、家でのんびりと、家族の周りで暮すことができるのだから、それをありがたく楽しむほうが、ずっとマシだ。

 ゴンにしても、そのつもりだったから、どうやってか、僕に身体をくれたに違いないのだ。

 桜の花びらの件があって以降、僕は、言葉によるコミュニケーションを取ろうとすることはやめたのだ。  

 

 ところが、いよいよ終わりかと思われた人間としての僕、植田昭一は、医師の言うところでは、「奇跡の回復」を遂げて、家に帰ってきたのである。

 大きくなる一方だった腫瘍が、発作を起こして担ぎ込まれた時を境にいつの間にか縮小に転じ、いまでは、ほとんどその形はCTには映らないと言う。

 いったん、意味不明のことを唸るだけだった人間、植田昭一は、少しずつ、言葉と記憶を取り戻しており、すでにある程度喋ることができるらしい。

 入院中、僕はもちろん、見舞いに連れて行ってもらったことはない。

 だから、ふたりがそんな話をしているところを小耳、いや、人間のときよりも大きくて、よく聴こえる耳だが、ともかく、聞いた時、僕は動揺した。僕の抜け殻が退院して、家に帰ってきた時、どんな顔をして対面すれば良いのだろう。 

 そして、人間、植田昭一は、たしかに帰ってきた。

 自分の足でしっかりと歩いて。

 たしかに、僕である。

 いや、少なくとも、僕の身体がそこに立って、ラブラドール・レトリバーの僕を見て、微笑んでいる。脳の障害を負った人は、表情を失うこともあるのだろうが、僕の抜け殻は、表情も普通で、その笑顔に違和感はない。

 鏡の中や写真でしか見たことがない僕の姿が動くところを見るのは、とても新鮮であった。違和感は拭えないが、間違いなく、僕の身体だったものではある。

 僕は恐る恐る近づいた。

 僕の抜け殻はその場にしゃがんで、小さな声で、妻や長女には届かない声で「パパ!」と言った。

 そいつは僕を覚えていた。

 僕は「わん」と答えた。

 

 そして、その時、人間、植田昭一に強く抱きしめられて、僕は突然、理解したのだ。

 人間、植田昭一の身体の中にいるのは、ゴンの魂だ。

 犬時代のゴンが、僕のことをなんと呼んでいたのかは知らないが、ふたりの会話から、僕を『パパ』と呼ぶと学んだのであろう。

 ゴンは、どうやってか、自分の身体を僕に与えて、自分は、余命一年と宣告された僕の身体とともに死ぬつもりだったのである。

 ところが、なんの因果か、人間、植田昭一の身体は医学の常識を覆して、奇跡の回復を遂げてしまった。それはひょっとすると、僕の魂があまりにもストレスに弱く、さまざまな悩み事に満身創痍になっていたからで、深く考えず、素直で、衝動のままに「今」を生きてきたゴンの魂が、病気の原因を取り除いてしまったのかもしれなかった。

 僕は人間、植田昭一の身体、つまりゴンに身を預けて泣いた。

 くぅ、くぅ、くぅ。

 しゃくりあげて号泣しているつもりだったが、涙は出ない。

 ゴンの無私の愛が嬉しかった。

 そして、そうならば、それがゴンの恩返しの行動なのだとしたら、僕は救われる。

 きっと、また、ゴンは、僕を人間、植田昭一に戻してくれるに違いない。

 流れない涙は、安堵の、流れない涙でもあったのである。

 

 低い視点のせいであまり見えないのだが、テーブルの上には、焼きたての大きなステーキが3枚並べられているのが、匂いでわかった。

 僕は、ゴンがいつもしていたように、テーブルの側に座り、右前足をテーブルの橋にかけ、鼻をテーブルの端に押しつけた。肉の芳しい匂いに、クラクラとし、よだれが止めどもなく出てきて、前足の前に水たまりを作った。

 よだれを垂らすなんてはしたないが、出てくるものは仕方がない。

「奇跡の生還、おめでとう!」長女がそう言って、ワイングラスに入れたシャンパンを高く掲げた。

「ほんとうに!」妻が言って、グラスを合わせた。

 植田昭一の身体の中にいるゴンは、ワイングラスで乾杯などしたことがないのだろう。妻にワイングラスを持たされて、戸惑っている。その目は、湯気を立てるステーキに向けられており、いまにも口からかぶりつきそうであった。

「だめよ、乾杯してから」と妻。

「これはシャンパン。言ってみて」

「シャン・・パン」

「これは、ステーキ」

「すすすすテーキ」

「ママ、焦らなくてもいいんじゃない」と長女。「なんせ、生きて帰ってきたんだから。それだけでも儲けモンだわ。言葉もゆっくり、焦らずに、思い出してもらえれば、思い出といっしょに、いつか全部思い出すわよ。子どもが生まれるころには、きっとなにもかも普通に戻っているわ」

「すすすすテーキ」

 そう繰り返す僕の人間の身体の口は半開きのままで、端からよだれが垂れていた。妻がティッシュを一枚引き抜いて、よだれをふきとった。

 乾杯!

 3人はグラスを合わせて、シャンパンを飲んだ。

「だめよ!お酒だから、一気に飲んじゃ!」

 長女が、ゴンの身体の腕を制した。

 話の途中だが、主語が混乱して困る。今後、僕が「ゴン」と言った時は、それは「僕の人間の身体と、その心の主体であるゴンと呼ばれた元ラブラドール・レトリバー」のことであるので、了解して続きを聞いていただきたい。

「さあ、お肉はどうでしょうね」と妻。

 僕の身体はにぎらされたフォークを不器用に肉に突き立てて、口に運び放り込んだ。

 くちゃくちゃ。

「美味しい?でも、口は閉じて」と妻。

 『口を閉じる』の意味がわかったのか、ゴンは口を閉じて、肉を咀嚼している。

 その表情には至福の色がある。

「おいしい、おい、しい」とゴンは言った。

「自分から、言ったわよ!おいしいって!」と妻。

「ほんとうだ、家にいたら、いろんなこと思い出すの、早いかもね」と長女。

 おいしいに決まっている。

 僕の生還がよほど嬉しかったのか、匂いや形から判断するに、それはいままでほとんど家で食べたことがない、最高級のサーロインステーキであった。たまの祝い事には、熊本県から、草で育てた美味しい肉を直送してもらうのだが、締まり屋の妻は、いつも最高級のものは避けて、ふたつめのランクのものを選んでいたのだ。だが、今日はよほど嬉しかったらしく、ついに、あこがれの最高級品を発注したらしい。

 食いたい。

「うーぅー、わん!」

 つい口に出た。

 ゴンは、僕に目を向けた。

 その表情には、怒りが浮かんでいた。

――― どうした?

 僕は戸惑って、右前足を床に下ろした。

 そして、ゴンは、僕に信じられない言葉を投げつけたのである。

「はうす!」

  

 「また言葉を思い出した!」、

 長女と妻は、すごーい、と言ってはしゃいでいる。  

 僕はその場にいたたまれなくなって、ダイニングの角においてあるドッグハウスに入って、寝そべった。

 どうやら、僕は、残りの人生で、あんな旨い肉を食べることはできないことになったらしい。

 人間だった僕がゴンに与えていたのは、せいぜい安物の硬い肉の脂身であって、どうせ味もわかるまいと、人間様がデイナーに食べるようなまともな肉は与えなかった。きっと、妻も長女も、ゴンも、僕に、美味しい肉は与えてくれまい。

 どうしても食べたければ、妻が料理中に隙をみせた時に、さっと奪い取るしかない。

 ゴンめ。

 人間様でいることの旨味、あんな最高級の肉を食える幸せを知ってしまって、金輪際、身体を元に交換する気などなくなってしまったのではないか。

 僕に向かって、「ハウス」とはなにごとか。

 どうやったら、元に戻ることができるだろう。

 どうやったら、ゴンがその気になってくれるのだろう。

 しかし、ここ何日か、複雑なことや、将来を考えることが、なんだか、とっても面倒くさくなってきていた。

 それは、僕がラブラドール・レトリバーの身体に慣れてきた証拠なのかもしれなかった。

「くぅ」

 とにかく、あの肉が食えれば、それでいいのだが・・・

 

Kimono Flea Market ICHIROYA's News Letter No.656

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                                                                                       photo by  Ad Blankestijn

Dear Ichiroya newsletter readers,

Hello! this is Nagisa from Ichiroya. How have you been in this hot weather? I feel I want to go to the sea in summer. A white beach, salty scent and sound of waves. They make me feel refreshing. And above all, I love diving in the sea! Actually, I have a diving license. (I got it in March last year. Yes, I am a beginner diver yet. haha) I went to New Caledonia to attend my friend's wedding last February. And then, we enjoyed scuba diving and snorkeling in the beautiful sea registered world heritage site. High transparency, various vibrant fishes and colorful LIVING corals! There is a terribly beautiful world. That was an unforgettable experience to me.

 

One more thing, in Japan, lots of summer festivals are held in many places. Gion Matsuri is one of them, and this is what I'd like to introduce you today. (Sorry, but Series 'How to know the materials of Kimono' will be skipped. Please look forward to next writer!)

The Gion Matsuri is a famous summer festival held throughout July in Kyoto, Japan. It is also a traditional festival which has a long history more than 1000 years. The highlight of the festival is Yamahoko Junko which is a parade of 33 Yamahoko floats towed through the street of Kyoto. These floats are decorated gorgeously, so they are described as 'mobile art museum'.

 

Naginata Hoko is in the front float of the parade every year. And this year, it was decorated with brand-new 'Miokuri' (just like tapestry).

Here is the photo and article of the new Miokuri:

mainichi.jp

The Miokuri is based on the 'Asahi Houou Zu' by Jakuchu Ito, one of the famous Japanese painter in Edo period. It has an auspicious design of 'Asahi' (the rising sun) and 'houou' (phoenix), which is woven with silk and gold foil threads. It was woven by Kawashima Selkon Textiles Co., one of the most famous Obi weavers in Kyoto. It took them more than 3 years to weave it. Also, Jakuchu Ito is the latest trend in Japan. Jakuchu's exhibition is held at Tokyo, Japan last spring. People were standing in a long line to see the exhibition. The waiting time went up to 5 hours! wow!

www.gionmatsuri.or.jp

 

www.gionmatsuri.or.jp

You can see the Miokuri for several years at Gion Matsuri. How about visiting Japan someday!
Everyone enjoy festivals in Yukata in Japan. And we have some Yukata.

Charming Flower On Stream Pattern Shibori Yukata

www.ichiroya.com

Enchanting Kiku & Kikko Pattern Shibori Yukata

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Charming Iris Pattern Yukata

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Vitamin Color! Lily Bell Pattern Shibori Yukata

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Vibrant Iris Pattern Shibori Yukata (lined)

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Enjoy your summer in Yukata! Then, why don't you go to festivals?

●ICHIROYAニュースレター 第34号●直線裁ちのワンピース


 

短編小説18 『Aリスト』

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                       Photo by sisssouBy: sisssou  

 「はい、では、大手広告代理店に入れるなら入りたいと思っている人、手を挙げてみてください」
 『一回生から始める就活セミナー』の講師はそう言って、50人はいるであろう学生たちを見渡した。こんな機会でも積極的である姿勢を見せたほうがいいかもしれないと思っていた賢治は、前から三番目の席に座っていた。
――― 大手広告代理店!クリエイティブな仕事で、高給で、社名を言う度に、誇りで満たされるに違いない。
  一瞬考えてからであったが、賢治はさっと手を挙げた。
―― ほかの人は?
 賢治は肩越しに後ろを見た。ひとり、またひとりと手を挙げ、やがて三分のニぐらいの手が挙がった。
「はい、ありがとう。やっぱり、人気ですね。では、まったく別の質問をします」
 講師はにこやかに微笑みながら、こう訊ねた。
「原発については、どうでしょう。反対の人。まず、即時に、すべての原発を廃炉にすべきと思う人は?」
 質問の意図がわからず、学生たちの顔に不審そうな表情が広がった。

 『一回生から始める就活セミナー』は就活分野では最近メキメキ頭角を現したある会社が、就職活動に不安を持つ大学生を対象に、一回生という早い時期から、有利な就職を目指した学生生活を送るためのノウハウを提供するセミナーである。
 賢治は第一志望の国立大学の受験に失敗し、いわゆるマーチと言われる関東の私立大学のうちのひとつに入学した。
 なにがなんでも、世間から認められ、裕福になり、魅力的な女性と結婚するんだ、そう思っていた賢治に、受験の失敗は大きな痛手となった。自分なりに傾向と対策を練り、一生懸命努力したつもりであったが、結果は不合格であった。
 就活でも、おなじ目に合うのではないか、第二志望の私学に落ち着いた賢治の心にそんな恐怖心が芽生え、そのセミナーのチラシを学生課の掲示板にみつけた時に、すぐに申し込みをしたのだった。
 学生なら誰もが知っている会社のセミナーであり、アンケートに答えさえすれば参加料も2000円とリーズナブルである。
 実際、駅のそばの地銀のビルの上層階の会場に来てみると、高校の教室ほどの部屋は、一回生で満員であった。そこに知った顔はなかったが、おそらくみんな、近辺の2,3の大学の一回生であろうと思われた。
 就活コンサルタントを名乗るセミナーの講師は、四十代前半の笑顔の魅力的な男性であった。
 大学生になったばかりの賢治にすれば、その年代の男性は、ほとんどが『ただのおっさん』で、そうでない『ダンディなおやじ』、あるいは『憧れの存在』はブラウン管やネットの向こうにわずかな数存在しているだけであった。だが、話を聞くうちに、賢治には、その講師が『だだのおっさん』ではないように見え始めていた。
 真剣に話しているかと思えば、時にはジョークで笑いを取り、また、時にはオフレコだよと断って、企業名を出したりして、参加している学生たちの注意を一瞬もそらさなかった。
 まずは、勉強を頑張って、よい成績を取ること。そのうえで、無計画なアルバイトではなく、知りたい業界、入りたい業界のインターンを探して、潜り込むこと。さらに、経済や会社の仕組みを知って、3回生までに、志望企業をリストアップして、調べあげること。一部上場企業だからといって、ブラック企業でない保証はない。
 その話は、賢治にとっても、とても納得のいく話であった。
 ネットやマスコミで聞く就活の厳しさとは実際にどんなものなのかかなり明確にわかったような気がしたし、また、ほかの就活生より早く、3年かけて準備をすれば、自分でもなんとか乗り越えられそうな気になってきたのである。
 そして、最後の30分。
 もっとも大切なこと、一流大学の成績優秀者でも、案外わかっていないことをお伝えする、と言って、講師は冒頭の質問を言ったのである。
 
――― 原発か・・・
 数人が手を挙げた。
「はい、ありがとう。即時廃炉を望む人は、少数派ですね。では、すぐにではなくても、中長期で原発依存度を減らして、ゆくゆくは原発をゼロにすべきだと思う人は?」
 賢治は手を挙げた。周囲を見渡すと、半分ぐらいの学生が手を挙げていた。
「おおよそ、半分ぐらいですね。残りの方は、原発やむなしというお考えということですね」講師はそう言いながらゆっくりと歩き、賢治の前あたりにやってきた。
「そこの男性の方」
 突然指名されて賢治は驚いた。僕ですか、というように顔を上げると、
「そう、あなた。大学と学部と、お名前とは?」
「XX大、経済学部、宮崎賢治です」
「ツィッターか、フェイスブックやってますか?」
「はい、ツイッターを」
「原発に関する、あなたのその意見を書いたことは?」 
 賢治の母は、息子を評して正義感の強い子だとよく言ったものだ。賢治も、多くの良識派の人たちと同じように、福島の原発事故には心を痛め、原発の将来について、そういう考えを高校生らしくまっすぐに書いたことはある。
 賢治は正直に答えた。
「あります」
 講師は机の間を前に進んで賢治のすぐそばに立った。そして、見下ろして、言った。
「でも、あなた、大手の広告代理店に入りたいっていう質問にも手を挙げておられましたよね」
 賢治は眉を潜めて頷いた。
「言うまでもなく、大手広告代理店は、電力会社を大口のお客様にしていますし、原発推進を推し進める側の仕事をしてますね。かりに、あなたがその会社に入れたとして、電力会社の担当になったらどうしますか?」
――― どうすると言われても・・・
 その立場になってみなければわからない。賢治は返答に窮した。
「まあ、それはその時に考えてもらうことにして・・・立場を変えて考えましょう」
 講師は賢治の側を離れて前に戻った。
「あなたがたがその会社の人事採用担当者だとします。最終候補に残った人たちから、何人か落とさなければならない。面接や筆記試験の結果も、学歴や成績も甲乙つけがたい。当然、当然ですよ」そこで講師はいったん言葉を切って溜息をついて続けた。「SNSでどんなことを書いているか、チェックします。そこに、もし、原発の即時廃炉を主張する発言があったら、あるいは、『将来的に必ず原発はやめなければならない』というような強い主張が書かれていたら、あなたはどうしますか。採用担当者としては、会社の大口顧客との関係を良好に保つことになんの心配もない人材を選びたいですよね。実際のところ、その候補者の心情は、『即時廃炉』と『消極的脱原発』という一般的な考えの間で揺れているのだとしても、目にしたのがそういう発言だったら・・・採用担当は限られた情報から、判断を迫られます。で、結果は想像できますね」
 
 会場は静まり返った。
 そこまでの話は、競争社会の厳しさを痛感させるものだったが、社会は突然、その理不尽な姿を学生の前に現したのである。
「そういうことになる可能性のある会社は、広告代理店だけじゃありませんよ。電力会社はもちろんですし、大手電気やゼネコンをはじめ、多くの会社が原発に関わっています。そもそも、あなたたちだって、原発の電力に依存して、こうやって豊かな生活の中で育てられてきたんです。でも、おかしいですよね。あなたたちが習ってきた先生たちは、そんなこと言いましたか? どこかに絶対的な正しい道や、『正義』があるかのようでしたね。でも、絶対的な『正義』なんてないんです。『正義』は、人間の知性によって保たれているけれど、その骨組みの土台には、『ある種の力』があるんです。ビジネスの世界に入るなら、会社という組織に入るなら、そういうことを、就活以前に、肝に命じておいたほういい」
 講師は厳しい表情で会場を見渡し、さらに続けた。
「みなさんは、戦争は嫌ですよね。それに、戦争で誰かを殺す武器だって、作ったり、売ったりしたくないんじゃないでしょうか」
 会場は依然、湾内の凪の海のように不自然に静まり返っている。
「ご存知かどうか知りませんが、武器輸出が解禁されました。いろいろと制限はあるにしても、日本の会社も、銃や爆弾や無人爆撃機を作って、輸出することもできるようになりました。さすがに、日本の大手企業は、消費者から『死の商人』の烙印を押されるのは嫌でしょうから、無人爆撃機をつくりはしないでしょうけど、無人爆撃機に必要な電子部品を開発して輸出したりすることは出てくるでしょう。さあ、あなたが入った会社が、そういう部品を輸出して、それが、中東で使わることがわかっているとしたらどうでしょう。もちろん、そういう会社は就職の時に避けたいところです。でも、主力商品が寿命を迎えて、売るものがどんどん変わっていくというのは、よくあることです。あなたの入った会社が、いつの間にか、武器部品の輸出が大きな割合になっていた、なんてことはありうるでしょう。また、逆の立場で考えましょう。自分はそんな会社の採用担当者だ。また、最終選考の時に、あなたはSNSを見る。その発言から、潔癖な道徳観、強い正義感を感じさせる人を見つける。そこで、あなたは、その人たちが、自分の担当が武器部品だとわかっても、販売に躊躇しないだろうか、それを一生懸命に売ってくれるだろうかと心配になります。で、どうしますかね」
「僕が言いたいのは、原発とか、武器輸出の是非ではありません。つまり、僕らが住んでいるこの社会は、隅々まで潔癖でもなければ、力を後ろ盾にしない正義などはないということ。そして、社会に出るということは、自分も、濃淡はあれそれを担っていくということであるということをしっかりと認識しておいて欲しいのです。就活というのは、その覚悟を問う、いわば登竜門のようなものなのです。もし、あなた方が、『就活に勝つ』、そのための準備を今からするということは、取りも直さず、その覚悟を固めるということでもあります」
「SNSで自分の意見を発信することはたやすくなりました。SNSには悪い面もありますが、同様に良い面もあります。多くの企業に、生活者からの意見を反映させることが容易になりました。かつてないほど、企業は生活者の顔色を伺っている時代だと言ってよいでしょう。でも、採用にあたっては、企業は、候補者のプロフィールや生活スタイルを簡単に知ることもできるようになったのです。面接では本心を隠せても、2年も3年も、SNS上での発言に注意を払い続けることは簡単ではありません。強い自制心が必要です。不用意は発言はしない。そのために、社会の仕組みをよく知る。そしてーーー」
 講師は再び一呼吸を置いた。
「逆に考えましょう。SNSでの発信で失敗しそうなら、やめてしまえばいいのです。でも、やめてしまうのはあまり良い印象を与えないかもしれません。今時、まったくSNSも使いこなせないのか、と思われることは、減点の対象となるかもしれません。結局は、のちのち問題にならないような発言を避けて、ほどほどにお付き合いをする、というのがもっとも現実的です。さらに言うと、採用担当者に読まれる前提で、書く。企業から必要とされそうな自分をそこに演出して、逆に、積極的に利用するということも可能です―――」
 
 後の方の席から、「先生」と言う女性の声が聞こえた。茶色っぽいふんわりとカールした髪をセミロングの美しい女子学生が、すでに立ち上がっていた。
「はい、どうぞ」
「すみません。◯◯大学の山口と言います。就活のノウハウを興味深く聞かせていただきました。ありがとうございます。でも、先生の最後のお話は、酷いと思います」
「どういたしまして。で、『酷い』って?」
「先生のおっしゃっていることは、『社会の雰囲気を読め、SNSでは自分の意見よりも、社会に迎合するような意見を書け』というようなことですね」
 講師は頷いた。
「みんながそんなことをするから、日本の社会や、企業は、坂道を転げ落ちるように、悪い方へ悪い方へと進んでしまうんじゃないでしょうか。戦前の日本人が無謀な戦争に突入したのも、福島の津波被害への対策ができなかったことも、多くの有名一流企業が長年信じられないような不正を続けたりするのは、まさに、そういう心情のせいではないでしょうか。悪いことは悪い、手を出すべきではないことには手を出さない、そう勇気をもって発言することの方が、よっぽど社会も会社も良くするし、これからの時代、求められる人材像だと思います。とくに、私たちのような若い世代、いまから勉強して、社会を良くしていこうとしている学生に、社会の既存の枠組みを良いものとして尊重する必要なんて、まったくないんではないでしょうか」
「そうです。もちろん、そうです。よく調べて、自分の意見を持つ、それを発信していくことでしか、世の中は変わっていかないでしょう。ただ・・・」
 講師はその女性の方向に2、3歩踏み出して続けた。
「このセミナーの目的は、『就活に勝つ』ことですね。社会を良くするためのシンポジウムでも、政治集会でもありません。『就活に勝つ』ためには、多くの企業から来て欲しいと思われる人材になる必要があります。つまりですね、右手で殴っておいて、左手で何かをねだることはできないっていうことです。えっと、山口さん、学部は?」
「法学部です」
「そもそも、あなたには、『就活』を選ばないという方法だってありますよね。右手どころか、社会派の弁護士になって、両手で社会の不正義を叩くという道だってありますし、ジャーナリストとか、NGOを始めるという道もあります。一部上場企業に入るという選択とは、両極端ですが、その間にさまざまな道もあるでしょう。このセミナーの目的からは外れますが、敢えて申し上げると、そういう道を選ぶ方を、私は心底から尊敬しています。たいていの場合、そういう人たちの道は、苦難の連続で、経済的にも恵まれないことの方が多いと言ってよいでしょう。でも、そういう方は、胸の奥から湧き上がってくる衝動を抑えきれず、勇気をもって、そういう生き方に踏み出すのです。実際に、そういう方のうちのわずかな方が時代の英雄となり、残りの多くの方は経済的には恵まれぬまま人生を終えるのでしょう。山口さんには、そういう『就活で勝つ』以外の生き方のほうが良いのかもしれませんね」
 山口は顔にかかるカールした前髪の間から、講師を睨みつけたままであった。表情に納得の色はない。だが、山口の口調はあくまで冷静であった。賢治は振り返って山口の話しぶりを惚れぼれと見つめた。
「先生のお話は極端です。社会を変えるためには、そういう一部の人達ではなくて、普通に会社に勤めている人たちすべてが、しっかりした良識をもつことが必要なんです。でなければ、社会は変わらないし、そもそも、私たちが頑張って仕事をして、社会をよい方向に変えていこうとする努力は無駄っていうことになってしまいます。まだ考えは青いかもしれません。ですが、正義感に溢れた学生が、自分たちの未来を自分たちが望むものに変えていこうとしてする発言することは、悪いことでしょうか。それに、そういったことを企業が嫌がるかのようにおっしゃいますが、ほんとうにそうでしょうか?たとえば、電力会社や広告代理店や電機設備の会社に就職したすべての大人たちは、原発推進派だったんでしょうか。私はそうは思いません。きっと、若い時は、理想や正義感に溢れていたのだと思います。そんな大人たちが、自分の若い頃を棚に上げて、同じような考えを表明する若者を、採用の時に避けたりするものでしょうか。会社って、会社の人たちって、そこまで、不寛容で、だめになってしまっているんでしょうか。失礼かもしれませんが、先生―――」
 いったん言葉を切って、山口は静かに続けた。
「先生には、大学に入ったばかりの私たちに、こうやって何かを語る資格はないんじゃないでしょうか。まさに、先生がそんな話をして就活生を脅すことで、私達の社会を、未来を、そして、会社や、就活をも、酷いものにすることの片棒を担いでいるんです。」
 去年まで高校生だったとは思えない、抑制の訊いた立派な語り口であった。
 だが、講師の表情に焦りや驚きはなく、静かな口調で言い返した。
「それはどうかな。ちょっと、言い過ぎだと思うが」

「先生!」 
 そう声を上げたのは、賢治であった。
「先生の話はよくわかりました。でも、僕も納得はいきません」
「おや、援軍ですか。さっきの方ですね。どうぞ」
「僕らはもちろん、『就活に勝つ』ために、ここに来ました。でも、心を売り渡したくもないんです。もちろん、自分の生活を良くするために働きたいですけど、社会を良くするための汗だって流したいんです。先生は一か八かみたいにおっしゃいますけど、たとえば、SNSは、匿名で活動すればいいじゃないですか。先生は、そこまで、否定されますか?」
「匿名・・そうですね。匿名」講師は賢治から目を離して窓に向かって歩いた。
「匿名がいつまで担保されますかね。スマホからSNSに投稿した時点で、完全な匿名ではないですよね。それに、あなたがたが就職活動をするのは、3年先です。3年先に、いまとおなじような匿名の隠れ蓑が、求職者のプライバシーに通用しているか、心もとないところがありますね。たとえば、匿名アカウントでも、間違えて実名アカウントの方の発言をしてしまったりすることだってあるでしょう。間違いによる発言とか、ほかのSNSとの連動の様子などから、実名アカウントとのひも付けできるシステムが開発されているかもしれませんよ・・・個人的には、この社会を良い方向に向かわせるのもSNSで、そのためには、なにがなんでも匿名を守るべきと思いますがね。それは、僕の希望的観測なので、『就活に勝つ』こととは関係がありませんし、セミナーの目的からは、『匿名アカウントでの発言にもリスクがあるので気をつけるように』としか言えませんね。ところで、さっきはあえて聞きませんでしたが、宮崎くんはどうされるんでしょうかね。原発はやめるべきだと思っておられるが、もしやっと入れた有名一部上場企業で、原発の広報活動をせよと命じられたら?」
 賢治は立ち上がって叫んだ。
「わかりません!」
「わからないって、あなた、面接官にもそう言うおつもりですか?」
「わかりません。社会は、先生がおっしゃる通りになっているのかもしれません。でも、わかりません。自分で、この世界が、先生がおっしゃるとおりになっているのか、たしかめて見るまで、僕は信じません。社会も会社も、先生がおっしゃるほど、酷いところじゃないと思います。たとえ、そうであったとしても、自分でそこに飛び込んで、あがいてみたいんです。なにか道がないか、自分は本当にそれを受け入れることができるのか。ぎりぎりまで、這いずりまわってみたいんです。だから、そんな仮定の質問に、応えることはできませんし、先生に言われたからって、いますぐに、社会に対する考えを変える気はありません」
「いや、そうするのも、君の選択だ。僕は、ぜんせん反対はしないよ。君は『就活に勝つ』セミナーに来て、僕のアドバイスが欲しいのだと思っていたので、現実を話しただけだ。ただ・・・君が、そのままの考えで、条件の良い一部上場企業から、内定をもらえる可能性は低いと思うがね」
 山口が遠くから言った。
「先生のセミナーは、まるで洗脳です。就活に失敗するのではという心配を、ナイフみたいに背中に突きつけて、こんな話。ひどすぎます」
 山口はかばんの中にノートや筆記具を入れると、机の間の通路に出て、ヒールをコツコツと響かせて、部屋から出て行った。 
 山口の一挙手一投足に視線を貼り付けていた賢治も、「失礼します」と言って、山口の後を追った。
 ふたりは部屋から出て行った。
 ふたりが去った部屋は、沈黙に包まれた。
 講師の静かな声がその沈黙をやぶり、セミナーの閉幕を宣言した。 
「ふたりのおかげで、今日は充実したセミナーになりましたね。まあ、ここに残られているかたも、いろいろな思いがあるでしょう。じっくり考えてみてください。企業への就職活動を選ぶつもりなら、なるべく早くに、就活をスタートされた方が良いでしょう。そして、就活に勝ちたいなら、今日の話を思い出していただければ、幸いです。ご苦労さまでした。それでは、お配りしているペーパーに感想を書いて、終わりにしてください。ありがとうございました」

「ご苦労さまでした。また収穫がありましたね」
 参加者の去ったがらんとした部屋でセミナーを主催した若い社員が講師に言った。
 講師は集めたアンケートに目を落としたまま答えた。
 アンケートの最後には、小さな文字で、アンケートで得た個人情報を第三者に提供することがあると書かれていたが、学生たちの中にそれを気にする人はほとんどいかなったらしく、アンケートには丁寧に個人情報とセミナーの感想が書き込まれていた。
「ええ、あのふたりは、良かった。彼らをAリストに入れよう。これでAリストは、何人になりました?」
「300人を突破しました」 
「彼らが就活に入るまでにあと、2年半。2000程度の規模に、なんとかもっていきたいところですな」 
「しかし、先生のビジネスセンスには舌を巻きます」
「君のところの社長には負けるよ。Aリストの売値はひとりあたり2千円ぐらいでいきたい。そこまで行ければ、400万円か」
「それを100社に売れば、4億ですね」
「たいした規模じゃないがね。このセミナー事業の副産物としては、十分だろう。何度も言うが、その売上は、僕と君の会社の折半だからな」
「わかってますよ。セミナー本体と、名簿の活用じゃ、そんなにうちに利益は落ちないんですけどね」
「わかったわかった。ともかく、Aリストの方は、秘密裏に何年続けることができるかが、勝負だな」
「いや、大丈夫でしょう。『Aリスト』っていう良い名前がついてますしね。まさか、『A』の『A』が、『AクラスのA』ではなく、『Avoid(避ける)』の『A』だとは、説明を受けた担当者以外、誰も思わないでしょう」
「名称はともかく、採用では、Aリストが役に立つ。箸にも棒にもかからんヤツは簡単にふるい落とせる。難しいのは、仕事はできて仲間からの評判もいいのに、硬直した正義感にとらわれて、組織人になりきれないヤツだ。真面目で、成績も人当たりもいいから、面接では満点に見える。が、将来、内部告発をしたり、会社の方針に反対して組織にブレーキをかけたりするのは、きまってそういうヤツだ。そういう人間をリストアップしておいて、最終候補者にそんな人間が混じっていないか簡単に調べることができたら、企業にとって、どれだけありがたいか。Aリストは絶対に売れる。まあ、売り込みには、君たちの会社の看板も、大いに利用させてもらうがね」
 ふたりはニコリともせずにアンケートの集計を続けた。 

 それより、何分か前のこと。
 山口に追いついた賢治が、しばらくの躊躇のあと、背後から声をかけた。
「山口さん」
 彼女は立ち止まって振り向いた。
「山口さんは、勇気あるね。感動した」
「あの話は、やっと受験の試練をくぐり抜けた18歳の春に聞くべき話じゃないわ」
「うん、僕も腹が立った・・・・」
 賢治は、呼び止めたものの、何を話したら良いのかわからない。言葉に詰まった。
「じゃあ」
 山口はそう言って、茶色に輝くセミロングの髪をなびかせて歩きかけた。
 薄ピンクの膝よりすこし短い丈のドレスに、純白のカーディガン。ヒールの高い靴。
 エレガントないでたちの普通の女子大生が、あの場で、正々堂々と意見を述べたのである。
――― らしくない。
 追いすがって賢治が、さらに訊ねた。
「ねえ、山口さんは、◯◯大なんでしょ。もう会えないかもしれないから、ちょっと、話さない?」
 山口は立ち止まらず、まっすぐに前を向いて歩きながら言った。
「なにを? 私急いでいるのよ」
「なにをって・・・」
「今からうちの学校の学生課へ行くの。で、学生課の掲示板にも貼ってあったあのセミナーがどんなダメな内容だったか、伝えてくる」
 山口は急に立ち止まり、賢治の前に立ちはだかった。 
「そんなに腹が立ったのなら、あなたも、自分の学校に、言いに行ったら? じゃあ、行くわね」
 賢治は、山口の背中が小さくなっていくのを、呆然と見送った。
 これから自分が入っていこうとする社会や会社というところは、ひょっとしたら、あの講師が言っていたような、ひどい場所なのかもしれなかった。だけど、山口のように、目を輝かせてまっすぐに生きていこうという人もいるのだ。
―――きっと、この世界は、捨てたもんじゃない。
 賢治はいつまでも山口の背中を見送っていた。