若いころ、百貨店の売場で働いていたのだが、毎日のように問題がおきた。
そのうちのひとつは売場のミスでお客さまに迷惑をかけてしまい、お詫びに行って対処することであった。
いまでも覚えている一件がある。
商品を間違えて渡してしまい、お詫びとお取り替えに行くことになった。
スタッフの報告によると先方の方はかなり立腹されているようである。売場責任者としてまだ経験の浅い僕は、その報告を受けてからずっと気が気ではない。どんなお客様で、どんなことを要求されるのか。
しかし、電話をかけても先方は出られない。
僕にはその宙ぶらりんの状態が耐えがたかった。どんなことが起きるにしても、早く先方にお伺いして解決にかかりたくて仕方がなかった。
まだ携帯電話も普及する前のことで、何度もご自宅に電話をしたように覚えている。
仔細は忘れてしまったが、やっと電話が繋がったお客様を僕はさらに怒らせてしまい、話している途中で切られてしまった。
眠れぬ夜を過ごした翌日、正しい品物と菓子折りを持ってお客様宅に出向いた。
お客様はちょうど今の僕ぐらいの歳の男性で、会社を経営しておられる方だった。
すでに怒ってはおられなかった。
優しい笑顔を見せて、ただ、昨日は出張帰りで疲れていたんだ、と言われた。
そのときに、「待つ」ことには強い自制心がいるのだということを痛感した。
その日、声のニュアンスやさまざまな状況から、お客様が自分たちの言いたいことを聞いてやろうという気持ちにないことを、僕は察するべきだった。
お客様の側では、自分にとってオタクにかけられた迷惑の解決は最優先の事項ではないと、やんわりと匂わせておられたはずである。
だが、とにかく、心に刺さっている刺のようなその問題を早く解決したい一心の僕は、そういうニュアンスを読みとろうとはせず、お客様が話を聞いてやろうかという状態になるまで、まったく待てなかったのである。
その頃、仕事は毎日滝のように降りかかってきていた。
仕事が早い先輩は、降り掛かってくる仕事のうちの何割かは、いったん机の上におかず、そのまま担当者に割り振るなどしてとんでもないスピードで片付けておられた。
僕もそれを見習って、なるべく早くに仕事を終わらせるように心がけたのだが、やがて、仕事の中には、あえてすぐに片付けずに、放置して待つほうが良いものもあるということに気がついた。
待っている間に、問題そのものが解決するものがあるのである。
その場合、解決しなければならない問題がこころにひっかかったままになり、また、マネージャーは頼んでもやってくれないと思われるリスクもあるのだが、そう思われたとしてもあえて「待つ」ことで、綺麗さっぱり問題が解決したり、より根本的な問題に気がついてそれはどうでもよくなったりする。
もちろん、「待つ」ことには、揺るぎない信頼が必要な時もある。
誰かに頼んだことがちゃんと欲しいタイミングでできてくるのか心配になって、ついついそれを確認することがある。
部下に頼んだ仕事なら基本的に途中で確認を入れて進捗を見守ることが必要だろう。だが、相手によっては、確認することで、信頼関係を疑っていることになる場合もある。
たとえば、100%信じている相手で、しかもお互いにそういう仲であると認め合っている相手なら、確認の言葉を口にするのは、相手に対する絶対の信頼が揺らいでいるということを相手に知らせてしまうことになる。
ともかく、「待つ」ということには、相当な力がいるのである。
最後に、僕が和食器のマネージャーをしていた頃に聞いた壮絶な話。
ある陶器の人気作家さんが、そば店を開業したいので、店で使う器を作ってくれと頼まれた。
作家さんにすれば見知らぬ人であるし、まだ開業もしていない、海のものとも山のものともつかないそば店に、自分の作品をつくって買ってもらわなければならない切羽詰まった理由もない。
どんなふうな成り行きになったのか細かい点は知らないが、断られた。おそらく、作家の奥さまが、丁寧な言葉遣いで婉曲に断られたのではないかと思う。
が、半年後、そのそば店からまた手紙をもらった。
陶器の作家さんも人気商売のひとつであるし、無下にも出来ないと思った奥さまは、今度こそはっきり断るつもりで、その人のそば店を訪ねてみた。
すると、真新しいそのそば店で、その人がそばを打っていたという。
しかも、その準備万端と思えるそば店は、まだ開店していなかった。
そのそば店の店主は、その作家さんの作品を店に用意してもらえるまで開店できないので、こうして、待っています、と奥さんにおっしゃったそうだ。
もちろん、奥さんも作家さんも感動して、急いで器をつくりその店におさめ、店主はすべてにおいて自分が思い描いていた店を開店されたということである。
photo by greg