大人になった娘というものは、父親のパンツを一緒の洗濯機に入れて洗って欲しくはないものだろうか。
大人になった娘というものは、父親の入ったあとのお風呂に入りたくないものだろうか。
大人になった娘というものは、一本のペットボトルのお茶を父親と一緒に飲むのは嫌がるものだろうか。
そうかもしれないと思っていた。
まったくもって鼻持ちならない自慢話で恐縮だが、うちの娘たちはそんなことはない。
キレの悪くなった僕のパンツはやや汚れているし、身体は加齢臭の原因と言われるノネナールなどの脂肪酸でドロドロだし、間接キスをすると口臭の原因となっているカビがうつるかもしれないぞと、とときどき、こっちが不安になる。
だから、お父さんは、まっさきにお風呂に入る時には、身体をボディソープですっかり洗い流してからしか湯船に入らないし、パンツを洗濯機に放り込む前にはお祈りをする。
だが、申し訳ないとは思うが、パンツは君たちのものと一緒に洗ってもらわなければ、綺麗にならない理屈らしい。君たちのパンツとドラムのなかでこすれあってこそ、汚れが落ちるという。(こちら参照)。
小さいころは、ずっと守ってやらなければならなかった。
そのほとんどの部分を妻に押しつけておいて、いまさら言うなという話でもあるが、たしかに娘たちを守るという最低限の義務はあった。
家族でカラオケボックスに行ったとき、浜田省吾の『I am a father』を絶叫したら、「この歌はちょっと・・」と娘たちは顔を伏せたが、気持ちだけはたしかにそうだったんだよ。
成長する娘たちに、こうあるべき、あっちへ行けと、草原の一点を指し示した。
なんの疑いもなく、自信に満ちあふれて。
いつの間にか、娘たちは僕の指し示す方向からははずれ、自分で歩く方向を決め、好きなところを目指すようになった。
車でふたりきりになったら会話が続かず氷ついたようになり、ふたりきりになりたくないと娘が妻にぼやいた。
やがて、彼女たちの人生観や望みを、ありのままに受け入れることを学んだ。
指し示していた腕をおろした。
僕の手のうちから巣立ち、自分たちの人生へ旅だった彼女たちを見守ることが僕の役目であることに気がついた。
今では大人になった娘たちから多くを教えられている。
どんなJPOPアーティストが流行っているのか、「バックナンバー」で真っ先に買うべきアルバムはなにかとか。
70年代80年代のダンスシーンがわかる映画には、どんなものがあるのかとか。
全身タイツはどこで買ったらいいのかとか。
小さな子供に虫歯をつくらないために、同じ皿から子供に食べさせないほうが良いとか。
この着物にはどんな帯が合うかとか。
数え上げればきりがない。
そして、たぶん、あと30年ぐらい生きたら、そのどこかの時点で、娘たちが僕にこっちへ行けと、その方向を指し示すようになるのだろう。
たとえば、ブレーキとアクセルを踏み間違えてばかりだから、もういいかげんクルマの運転はしないで、とか。
家にこもってパソコンばかり見ていないで、桜を見に行くのよ、あと何回見れると思ってるんだか、とか。
ガスコンロは危ないから電磁調理器に替えるわね、とか。
汚れも、染か織りかも見えてないんだから、もう市場で飛んで買うのはやめて、とか。
きっと、ときどき、うんちで失敗して迷惑をかけていると思っている僕は、恐縮して、わかったとその指示を聞き入れることになるのだろう。
娘の父親としての最後に学ぶべきことは、娘の指示を素直に受け入れること、そういう心を育てることではないかと思ったりする。
子供の頃のように、自分は娘やほかの誰かに守られていなければ生きていけないということを学ぶこと。
娘やほかの誰かに世話をしてもらって生きるということを受け入れること。
もちろん、まだ、そうなれる自信はない。
だが、僕のバンツを一緒に洗うことを嫌がりもせず、僕のあとの風呂を嫌がりもせず、おなじペットボトルからお茶を飲むことを嫌がりもしない娘たちに、これからの僕ができることは、それだけかもしれないと、最近しみじみ思っている。
photo by chany crystal