木工品、たとえば、椅子を自作するとする。
設計図をつくり、板に必要なパーツの形を描いて、それを切り出す。
慣れていないと、のこぎりを挽くのも大変だ。気がつくと線からずれてしまって、切断面が太くなってしまったり、だいぶん切れたと思うと、垂直にではなく片側に傾いて切ってしまっていたことに気がつく。
しかし、なんとか部品を切り出して、組み立てる。
きれいに切れていないから、組み合わせる部分に隙間ができたり、直角につけることができなかったりする。
釘を打てば、釘は曲がったり、傾いて表面から先が飛び出してきたりする。接着剤だってつけすぎて溢れてきたり、圧着している時間が短すぎて外れてしまったりする。
もちろん、色を塗るのは、さらに大変だ。
塗るべき範囲にきっちりと収めることができないし、塗りすぎると垂れてきてしまう。
そして、椅子ができる。
とにかく、椅子ではある。
座るとがたつくし、接合部分には隙間があったり、色にはムラがある。
でも、それは椅子だし、誰かに座ってもらうこともできる。
一生懸命作った。
一心不乱にのこぎりを挽いた。
その満足感はある。
しかし、嬉しいような、悲しいようなである。
想像していた出来上がりとは、それはかなり違う。
たしかに、椅子ではあるけれど、不格好極まりない。
さて、僕の仕事とは、たとえば、18年の会社員時代にやってきた仕事とは、そんな椅子づくりのようなものだったように思う。
不格好な椅子。
それが不格好であることを自分でも知っていたし、品評会でもらった点数は、僕の意気を砕くに充分なほど低かった。
しかし、18年そうやって椅子をつくり、完成した椅子を残して13年経った今、ひとつのことに気がついた。
そういえば、一心不乱に椅子を作っていた時、おがくずが出た。
かんなで表面を削った時、不要な部品を取り除いたとき、そして、のこぎりを挽いている時に。
おがくずは手についたり、塗装の妨げになったりする。
なんの役にも立たない。
なんの役にも立たないくせに、思えば、たくさんのおがくずが出た。
そのおがくずを、今になって掃き集めてみた。
そうしたら、そのおがくずが面白いじゃないか、という人が現れた。
たくさんの人に共有された。
そして、それが本になった。
そうか、と僕は思った。
その出来栄えがどうであろうと、人は一生懸命に何かを作っているとき、一心不乱に仕事をしている時、無意識におがくずもつくっている。
作っている時は、おがくずは、単にゴミで、邪魔なものですらある。
だけど、じつは、そのおがくずにこそ、価値があるのではないかと。
それを掃き集めて見れば、そこには大切なものが出来ているのに、みんなそれに気づいていないんじゃないか、と。
あなたは自分がつくった椅子そのものばかりに気をとられていないだろうか。
あなたがつくったおがくずに眼をむけたことはあるだろうか。
PS 昨日翻訳して紹介したイアンさんの記事の1項目を僕なりに書き直したものです。その記事がとても面白いので、ぜひ。
photo by George Armstrong