あなたはどちらですか? 一日に100の記事の10%を読む、10の記事の100%を読む?
最近後ろめたく思っていることがある。
読むべきものが多くて、ちゃんと読めないのだ。
好きなものを、好きな時間だけ、楽しんで読んだらよいはずなのに、いつの間にかあれも読まなきゃこれも読まなきゃという状態になっている。
そのため、「あとで読もう」というリンクがどんどん増えていく。
あるいは、「ざっと読んで」、「ちゃんと読んだ」気になっているものが、ずっと増えている。
どうやらそれは僕だけの事情でもないようで、今朝はこういう記事をみかけたし( Actually Reading(ちゃんと読むこと))、僕のブログのブクマ-クなどのコメントを見ていても、「ちゃんと読まずにコメント書いているな」と思われるものに、かなりの確率で出くわす。
上記の記事にもこんな質問が読者に投げかけられている。
Is your day composed of reading 10% of 100 articles or 100% of 10 articles?
あなたはどちらですか? 一日に100の記事の10%を読む、10の記事の100%を読む
そういえば、Medium(新しいブログのプラットフォームになりつつあるメディア)には、読了まで何分かかるかという時間が、自動的に計算されて表示されるのだが、記事の一覧のページには、その記事が書かれた日付はないのに、読了時間は表示されている。
じつは僕もMediumで記事を探すことが多いのだが、この仕組はとても役に立っており、タイトルとサブタイトルで興味のひかれた記事を見たあと、必ずその時間を見て、該当ページを開くかどうか決めている。
英語圏でも、いったい一日にいくつの記事を読むのか、そして、それにはどれほどの時間がかかるのか、ということに注目されつつあるように思える。
そもそも、普通の長さのブログの記事をちゃんと読むためには、5分ぐらいはかかるだろう。10個読めば、50分かかる。
忙しい現代の生活のなかで、50分というのはかなりまとまった時間である。
昔話をすればまた笑われるに違いないが、20年前までは、僕らは「文章」に飢えていたのだ。
たしかに、本はたくさんあったが、本を読むにはお金を出して買うか図書館から借りるしか方法がなかった。
だから、本は大切に選んで買って、休みの日にはよく図書館に行って、貸出冊数ギリギリまでの本を抱えて家に持って帰ってきていた。
毎朝、講読している新聞は電車の中でも丁寧に読み(なるべく興味のひかれそうなものを探して読み)、帰りの電車では夕刊フジかゲンダイを買って、それも丁寧に隅々まで読んだ(競馬をしない僕は、競馬欄は読まなかったが)。
つまり、僕や多くの読書好きの人間には、「読むものがない」という恐怖の時間がないようにするためには、それなりの努力が必要だったし、だからこそ、ページの終わりを惜しむように読んだし、あまり興味をそそられないものも読んでみようかという気にもなっていたのだ。
今では、スマホがあれば、電源さえ切らさなければ、文章に飢えるという機会はなくなった。
いつでも浴びるほどあれば、その中で、「自分にとって」最高に楽しいものだけ、楽しめる時間だけつまみ食いできるようになる。
しかも、様々な「読まなくちゃ」ならない様々な理由が発生してしまっているために、「100の記事を走りに走って10%だけ読む」という状況になってしまっているのではないだろうか。
上記の記事にも書かれていたのだが、それは活字に対する飢えが満たされたということ以外に、「自分が何を読んでいるかを人に見せる」「そのことで自分のキャラクターを表現したい」というようなSNS特有の事情が強く影響しているせいもあるだろう。
もちろん、僕にも答えはない。
こんなブログを書いていて、自分の記事は読んで欲しいくせに、ほかのひとの記事はちゃんと読みもしないのかよ、と言われたら、ちゃんと立ち止まって読んでいる記事もありますが、ざっとしか読まなかった記事もあります、すみません、と言うしかない。
昔から、「話を聞いたようなふりをして、考え事をしていて、実際には何も聞いていない」という技術があるが、今では「読んだふりをして、なんとなく義理のようなものを果たして、実際はその記事が一番言いたいことを理解していない」ということもあちこちで起きていそうだ。
答えはないんだけど、立ち止まって、何をいつ、どれだけ読むかについて、整理するときだなと感じてはいるのだ。
たぶん、あなたと同じように。
photo from New Old Stock