ICHIROYAのブログ

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肝っ玉を育て、大きく生きるための10の習慣(注意:タイトルは釣り!)

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 世の中はライフハックの記事で溢れているのだから、誰かひとりぐらい、こんな記事を書いて、「肝っ玉」の小さな僕に、その秘訣を教えてくれてもいいのにと思うが、見たことはない。

 50数年生きてわかったが(←絶望的に遅いよ!)、やっぱり「大きな肝っ玉」もあれば、「小さな肝っ玉」もあるのだ。
 そして、もちろん、僕は、いつも同業のHさんに言われているように、「こんまい」肝っ玉であって、もし、どこかの研究機関が「肝っ玉」の大きさと生活習慣、思考方法、体格などとの関連を研究するということになったら、「小さな肝っ玉」の最高の被験者になるだろう。

 とは言いつつ、「肝っ玉」ってのは、なんだろうな、と思う。
 
 たとえば、怖がりな人とそうでない人がいる。
 深夜の伏見稲荷を1人で歩いてこい(入山できるかどうか知らないが)って言われたら、怖い。めっちゃ怖い。
 伏見稲荷のあの異世界感は半端じゃない。無理だ。

 でも、これってどうなんだろう。
 そういう怖さも、ある程度、経験や状況によって異なると思うのだ。
 もし僕が兵士で、ゲリラの潜む山中を夜間行軍した経験があれば、平和な日本の伏見稲荷の山中など、なんの恐怖も感じなくなるかもしれない。

 テレビを見ていても、各界の「肝っ玉」のでかそうな人が、「自分は怖がりで・・・」などと言っていることを聞くことがあるし、僕らの業界で「肝っ玉」が大きいと目されているある人は、虫が怖い。ゴキブリが飛んできたら、あいつが一番遠くまで走って逃げることは間違いない。
 
 そういえば、「肝っ玉」の小さな僕だって、42才で家族を抱えてあてなく脱サラするだけの勇気をふるい起こすことはできたのだ。
 「怖がり」であるということと、「肝っ玉」が小さいということは、もちろん重なる部分は大きかろうが、まったくイコールということではないのじゃないかと思う。
 
 たとえば、あがりやすい人とそうでない人がいる。
 言うまでもなく、僕は後者だけど、まあ、いつもいつもあがってしまうわけでもなく、ぜんぜん平気なときとマダラになっている。
 200人以上相手の講演会の講師でも気持ちいい時があるし、先輩の退職記念パーティーの司会で最後の最後まで緊張が解けなかったときもある。
 
 嫁の「肝っ玉」が大きいのか小さいのかいまだにわからないが、彼女は人前であがることはない。いつだか、大講堂の舞台で何かしゃべっているのを見たが、緊張を微塵も感じさせないしゃべりに驚愕したことがある。
 会社にいるときも、「肝っ玉」の大きな人たちが、どれだけ多くの聴衆を相手にしても、まったく緊張せずに、普通にしゃべるところを何度か見た。

 パブリックスピーキングは、経験と訓練によって、ある程度はうまくなることができるだろうから、「肝っ玉」が小さくても、あがらずにこなすことは可能だ。
 「肝っ玉」が大きいひとは、そういった経験と訓練をせずとも、人前で緊張することはないのじゃないかな、と思う。
 でも確信はない。だって、僕が知らないだけで、どこかに、あがり症だけど、「肝っ玉」はでかい、っていう人もいるかもしれないじゃないか。
 
 そもそも、「肝っ玉」ってなんだろうなあ、と思うのだ。

 「勇気」って言葉が指し示すものと重なっている部分はあるが、完全に同義ではない。
 若いころ、司馬遼太郎の時代小説が好きでたくさん読んだが、そのなかで、世の中には「肝っ玉」の大きな人間と小さな人間がいるということを何度も聞かされた。
 しかし、すでに「肝っ玉」が小さいことをかなり実感していた僕は、そんなものはない、意志の強さ勇気、そして経験の多さこそが、「大きく生きるため」のキーであって、生まれついての「肝っ玉」の大小など、幻想だ!と思おうとした。

 あれは中学1年のころだった。
 試験のときなどに腕時計が必要ということで、父が腕時計を買いにイズミヤかどこかの時計売場に連れて行ってくれた。
 まばゆいウィンドウを覗き込みながら、生まれからはじめての「大きな」買い物で、それを自分が選べるという。
 嬉しくて、嬉しくて、頭に血がのぼった。
 決めれなくて、全身から汗が吹き出した。
 「まあ、お父さん、そんなに急かさないで。ほら、お坊ちゃん、こんなに汗かいて、がんばっておられますし、おほほ」

 そう、あの体験以来、僕は自分の「肝っ玉」の小ささをはっきりと認識し、それを心の奥底に沈めて見ぬふりをして、突っ走ってきたのだった。
 しかし、やっぱり、生まれついての「肝っ玉」の大小っていうのは、どうしようもなく、あるよな、と最近しみじみと思ってしまう。

 でも、こうやって書いてみたら整理できるかなと思ったのだが、やっぱり、「肝っ玉」っていうものが何なのかよくわからない。
 孫さんの「肝っ玉」が超特大であることは議論の余地がないけれど、「肝っ玉かあさん」だっているし、女だてらに酔っ払って道の真ん中で大の字になって寝る「肝っ玉古布おばさん」だっている。
 「肝っ玉」の大きさと、社会的な影響力の大小もまた、ぜんぜんイコールではないのだ。

 「肝っ玉」ってなんだ?
 そいつは、やっぱり、生まれついてのもので、大きくすることはできないのか?
 剣の修行をするとか、修験道の行をするとかすれば、でっかくなるのか?
 誰か、肝っ玉を育て、大きく生きるために、どうしたらいいのか、知らないのか?
 あなたの「肝っ玉」はでかいですか?
  

photo by Trey Ratcliff