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「良い文章」と「才能のある文章」はどこが違うのか?

About Writing: Seven Essays, Four Letters, & Five Interviews

About Writing: Seven Essays, Four Letters, & Five Interviews

 

 
 ブログやエッセイを読んでいて、その文章には様々な印象を抱く。
 読みやすい文章と読みにくい文章がある。
 シンプルで論理的な文章が、淡々と積み上げられた文章は読みやすい。
 それはわかっていながら、敢えて長文にし、衒学的な単語を埋め込んで、より複雑な考えを伝えようとしている文章もある。

 そして、思う。
 ある文章には胸に短刀を突き刺されるような衝撃を受け、ある文章には突然嗚咽させられる。
 もちろん、どんな文章で語られようと、書かれている事実、考え方が陳腐なら、感動させられることはない。
 しかし、ある文章には、普段、僕らが薄々感じていることをえぐりだして、僕らの芯を震えさすチカラがあるのだ。
 そういったココロに刺さる文章というのは、どうすれば書けるのだろうか。
 内容さえあれば、あくまで論理的に、明晰に、余分なことをそぎ落として書けばいいのか。
 ちょうど、そんなことを考えていたら、

Good Writing vs. Talented Writing ( 良い文章 vs  才能のある文章  )

 

  とういう記事に出会った。
 この記事は、サミュエル・R・ディレイニーというアメリカの小説家の書いた本「About Writing: Seven Essays, Four Letters, and Five Interviews」の要約である。
 僕はこの要約記事をざっと読んだだけだけど、なるほど、と思わせられた。
 ディレニー氏は書いている。

 

 「良い文章」と「才能のある(書き手による)文章」(以下、「才能ある文章」と書く)は、けっして同じではない。85%から95%の小説は、シンプルに、論理的に、明晰に、「良い文章」で書かれているという大きな失敗に陥っており、平凡で退屈なものになっている。

 「良い文章」は、明快で曖昧さがない。
 「才能のある文章」は、エネルギッシュである。
 「良い文章」は、誤りを避ける。
 「才能のある(書き手による)文章」は、読者のココロに何かを起こす、鮮やかに、力強く。
 「良い文章」は、その明晰さと論理性ゆえに、そのチカラをもたない。

 
 「才能のある文章」は一般的論を避け、具体的な事象を対象とする。
 「良い文章」は一般論を主張(state)し、「才能のある文章」は、具体的な事象を述べることで、一般論を提案(suggest)する。


 「才能のある文章」は、修辞学的に面白い言葉、音楽的な、詩的な表現をする。
 「良い文章」が書くことと同じ内容を、そうやって端的に表現する。
 「才能のある文章」は、「良い文章」とおなじ単語数、文節数を使っていても、より多くの情報を伝えている。
 「才能のある文章」は、読者のこころに、心地良い音やリズムを生み、より多くのことをほのめかす。
 
 
 上記の記事が紹介している本の文章のなかから、気になる部分を抜き出して意訳してみた。
 当たり前といえば当たり前のことが書いてあるのだけど、最近、「内容」x「良い文章」がすべてと考えがちだった僕には、新鮮な内容だった。
 つまり、ネタはなくとも、「才能のある書き手」になることを目指せば、もっともっと言いたいことを伝えることができる書き手になれるかもしれない、ということだ。

 では、どうしたら、そうなれるのか。
 たぶん、彼のこの本を買えば、その秘密を教えてくれるのだろう。
 たぶん・・・