ICHIROYAのブログ

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もう、「夢」なんて、要らない!




「夢」ってなんだろうか。

tom-wさんの記事

将来の夢って何でしたか? 

を読んで、「夢」という言葉が、久しぶりに、頭から離れなくなった。

いつのころまでか、僕も、人間は、「夢」をもって、それを実現するためにこそ生きるべき、という風に思っていた。
だけど、ある時から、それも人によって違うかも、と考え始めた。

そもそも、「夢」をもって生きなければならない、というのは、誰が決めたことなのか。
ひょっとして、「夢」は、「感動」と同じく、教師や世の中を流布・席巻する物語が僕らに突きつける脅迫観念のようなもので、もうちょっと、距離を置いて考えたほうが良いのではないか、とも思うのだ。

いったい、「夢」ってなんだろう。
「生きる目標」と言い換えても良いものなのだろうか。
たとえば、

「火星に行って、街をつくる!」

っていうのが、僕の夢です、っていう人に会ったら、早々に話を切り上げたくなるだろう。
当人にとっては、「夢」かもしれないけど、実現すれば大いに意義のあることだけど、とても実現しそうにない。

「夢は、来年の春、れんげ畑に出て、花輪をつくることよ!」

という女の子がいたら、普通の人には簡単なことだけど、それを「夢」と言わなければならない彼女には、特別の事情があるのだろうな、と思うに違いない。

人によって、時と状況によって、いろいろな「夢」がある。
「夢」とは、「ひょっとしたら到達できるかもしれない、自分が望む最高の地点」のことで、「生きる目標」とは同意ではなさそうだ。

もちろん、生物学的には、「子孫を残すこと」もしくは「寿命がつきるまで生きること」が人間という生物の生きる目標で、それ以外の「生きる意味」や「生きる目的」は、悩まなくてもよいことを悩む我らが、グダグダ考える付け足しに過ぎない、とも言える。


だから、それ以外のことを、「夢」と言おうが、「人生の目的」と言おうが、勝手だけれど、「夢」というレッテルは、かなり危険かもしれないと思うのだ。

望むべき最高の地点に「夢」というレッテルを貼って固定化してしまえば、多くのひとは「夢」破れ、「人生は無為だった、失敗だった」と思わざるをえなくなる。
ほとんどの「夢」は破れるので、「夢が破れたときに、どういう心持ちで生きるのか」ということが大問題になる。

たとえば、演奏家として身を立てる「夢」を抱く人がいる。
子供のころからその「夢」を目指して、多くのものを犠牲にして、長い年月を、練習に明け暮れる。
そして、もし、その「夢」に破れてしまったら、その後の人生を、どう生きれば良いのか。
そういう人たちの心のケアはたいへんだ、と聞いたことがある。

tom-wさんがおっしゃるように、「夢」が破れそうなときには、「夢」のレベルを下げて、新たな目標とする、ということもひとつの解決方法だろう。
たとえば、「子どもたちに演奏を教える教師となって、一流の演奏家を育てる」と言う風に、「夢」のレベルを下げるのだ。

しかし、そこまで下げた目標を、今度は、「夢」と言えるのか、という問題、自分の納得性に疑問は残る。

そもそも、「一流の演奏家になる」という目標に、「夢」というレッテルを貼り、「夢を実現するために自分の人生を捧げる」という考え方自体が、不幸を招いているのではないか、とも思える。

望むべきあり方というのは、「夢の到達地点に達したかどうか」で自分の人生をはかるのではなく、「自分が最高に望むべき地点」を目指して歩いた道程そのものが、自分の人生であり、到達地点はどこであれ、楽しく満足のいく一生だった、と思えることだろう。
だから、達成できるかどうか、一か八かの「夢」を目標に生きるのではなく、早くから、いろいろなレベルの到達地点で終わることを想像して、それで良しと覚悟を決め、それでもその人生を楽しめるような心の持ち方が必要だと思うのだ。

やっぱり、安易な、「夢」というレッテルは、自分に貼らないほうが良い。
「夢」とは違う、なにか、別の言葉があれば良いのに、と思う。
そうなれば、「夢」破れて、不幸を感じる人は格段に減るのではないだろうか。



ところで、もうひとつ、別次元の話があって、「夢」もしくは、「上に書いたような適当な言葉のない目標」をもたなくても、人生は生きることそれ自体で、十分有意義で幸せだ、という考え方もある。

たとえば、うちの嫁は、そんな人間だ。
とってもじゃないが、「世界を変えたい」とか、「事業をおこしたい」とか、「お金をもっと儲けたい」とか、まったく考えない。
孫の成長や、友達や、教会や周囲の人達のことばかり考えて、毎日毎日、楽しそうに生きている。
もちろん、親の介護のことなど、悩みもあるけれど、はっきりしているのは、僕のように、なにかワクワクする目標がないと生きていけない人間とは、まったく、人間が異なっているということだ。

こういう生き方だって、めちゃくちゃ素敵だと思うのだ。
「夢」は言うにおよばず、「目標」だってなしに、真に充実した人生だって送ることができる。
それほど、人間って、異なっている。

もう、「夢」なんて、要らない。


PS 上に貼った動画。彼はバングラディッシュのリクシャーの運転手。子供のころ、父親を病院に連れていけずに亡くした。自分の村に病院がない。みんなは、病院がないのは貧乏だからで、貧乏人がそうして死ぬのも運命だと言う。怒った彼は、自分の村に病院を建てる「夢」を抱く。30年間もの間、リクシャーの給与から、貯金し、約40万円を貯めて、ついに、自分の村にクリニックを開いた。当初、医学会から反発もあったが、ボランティアの医師も現れ、寄付も集まって、うまく回りだしている。あいかわらず、彼はリクシャーの運転手をし、稼いだお金の半額を、そのクリニックに注ぎ込んでいるらしい。彼のこのココロザシを、「夢」と呼ぶべきだろうか・・・