ICHIROYAのブログ

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短編小説19 『はうす!』 

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                                                                                          photo by  Brian Lauer

 

『ある朝、植田昭一が気がかりな夢から目覚めたとき、自分がベッドの上で一匹の犬に変ってしまっているのに気づいた』

 いや、カフカを気取っている場合ではない。

 正確に言うと、「犬に変わってしまった」のではない。我が家で飼っていたラブラドール・レトリバーのゴンの身体に、僕の心が転移したらしいのである。朝、目が覚めて何気なくベッドから降りて伸びをしたら、目の前の景色がいつもと違っていた。目の高さに妻、夏子のベッドのマットレスの側面がある。妻はどうしたのかなと確かめようとしたら、ベッドの上の様子が視覚に入ってこず、見えないのである。僕は顎をベッドの上に乗せて、くしゃくしゃになったシーツの山の間から夏子を探した。

 待て。

 そんな視線から、ベッドを見たことはない。

 ふと、手元を見たら、見慣れたゴンの手、というか、前足がフローリングの上にあった。前足を動かしてみる。前足をひねって、爪と肉球を見た。顔に近づけると、ゴンの肉球のあいだのあのすえた匂いがした。

 不思議と、嫌な匂いではない。

 いや、その時に気がついた。

 ありとあらゆる匂いが、僕の周りの空間、その部屋に満ちていた。色とりどりのカードを空間にばらまいたような、匂いの数々。ベッドに漂う妻の汗の匂いや、フローリングの床のあちこちで点々と匂いを発している僕の靴下の匂い、洗いたての枕カバーに残っている石鹸の香り、クロゼットの中に押し込まれた封を切ったドッグフードの匂い。そういった覚えのある匂いはほんの一部で、部屋は僕の知らない匂いで満ちていた。まるで匂いの万華鏡の中にいるようであった。

 全身鏡を貼ってあるクロゼットの前に行った。

 鏡の向こうに現れたのは、やはり、ラブラドール・レトリバーのゴンであった。

 もちろん、僕は動転した。

 だが、カフカの『変身』の主人公のグレゴリーのように、立ち上がるにも、多すぎる足にどうしたらよいかわからないという状況ではない。幸い、身体は軽く、何キロでも走れそうであるし、筋肉には力が満ちている。

 ともかく、妻と長女に事情を話さなければと思い、僕はリビングに通じるドアを開けようとした。

 ドアの取手を見上げる、そいつを押し下げて、ドアを引っ張れば、ドアは開く。床を蹴って、前足をドアについて立ち上がる。右前足を取手にかけるが、滑りやすく、肉球でこんもりした掌は、取手をつかむことができない。それに、やっとの思いで取っ手を押し下げてみても、左前足に体重をのせてドアにもたれかかっているので、ドアを手前に引くことができないのである。

 何度かトライしてみて、今の自分にはドアを開けるができないことを思い知った。

 

 僕はそこに寝そべって、右前足に顎を乗せ、大きな溜息をついた。

 世の中は不条理と不思議に満ちている。

 が、よくよく考えてみると、自分の心がゴンの身体に転移したということにも、一筋の条理が通っているような気もするのである。

 

 数年前、大きな犬を飼いたいと、妻と娘が言い出した時、僕は保護施設からゴンを引き取ってきた。ラブラドールの子犬なら引き取り手も多かろうと思ったのだが、ゴンはすでに子犬の姿はしておらず、すでに中型犬の成犬の大きさで、僕が選ばなければ、やがて処分される運命だったように思われた。ラブラドールなら、黒かブラウンで、できればメスというのが、我が家の希望ではあったので、ゴンはまったくそんな条件を満たしていなかった。家に連れ帰った後の家族の反応が不安であった。 

 それでも、ゴンの一途な瞳に見上げられた僕は、ゴンを引き取ることに決めた。

 ともかく、ゴンを見殺しにすることはできない、と強く思ったのであった。

 そうやって僕に選ばれて、命をもらったことに、ゴンは大層感謝しているようであった。

 ラブラドールという犬種は人懐っこく、家族どころか、優しくしてくれる人すべてに、ぶんぶん風を切って尻尾を振り愛想をふりまく。ある程度個体差もあるだろうけど、柴犬などのように飼い主だけに忠誠を誓う犬種ではなく、ともかく、誰かれ構わず、人間一般が大好きである。

 しかし、ゴンは「僕の犬」となった。家族の誰よりも、僕の側にいることを好み、僕の命令をよく聞いた。ラブラドールのくせに、忠犬ハチ公を彷彿とさせる犬に育ったのである。

 ゴンはソファに座る僕の横に上がってきて、太ももに顎を乗せてくつろいで、溜息をついたものだ。

「お前はいいな、幸せで・・・」

 長年連れ添った多くの他の夫婦同様、信頼の糸は繋いだまま、妻と時々激しい口論になる。そんな時、ゴンを横に座らせて、僕はよくぼやいた。

「俺はお前と入れ替わりたいよ。ゴンはいいよな。夏子にガミガミ言われたり、聞きたくない話を延々と聞かされずに済む。それに、お前がつきあう人間は、お前のことを、『打たれ弱いやつ』とか、『君は”兵の将たる器”だけど”将の将たる器”ではないな』とか、言わないだろう? 会社に行かずに、寝て暮らしても、ちゃんと食べるものも出てくるし。お前はわかっているのか、自分がどれだけ幸せか」

 ゴンは目の下に白目を見せて僕を見上げて、同情心に満ちたような表情をする。

 

 さて、僕は、50代の自営業者なのだが、いつごろからか、慢性的な頭痛や吐き気に悩まされることになった。働き過ぎて疲れているのかと軽く考えていたのだが、ある日、右手に持ったペンを落とし、力が入らなくなっていることに気がついた。嫌な予感がして、精密検査をしたら、脳腫瘍、しかも、やっかいな、『神経膠芽腫』というものであることがわかった。

 もって、一年。それが医師の見立てであった。

 歳も歳だし、そんなこともあろうかと、中小企業経営者向けの保険に入っていたので、僕が死んでも、妻には十分な財産が残るようにしてある。会社はたたまなければならないので、社員には申し訳ないが、これも運命だから仕方があるまい。

 僕は、妻と会社を整理縮小しながら、闘病生活に入った。

 達観したような台詞を口にはしても、やはり、まだ生きたい。

「俺はまだ、生きたいんだよ、ゴン」

 ゴンにだけはしみじみと弱音を吐いた。

 

 きっと、そのせいだ。

 ゴンは僕のために、その身体をくれたのだ。

 奇妙奇天烈であるには違いないが、それなら、少なくとも条理の糸はつながる。

 余命一年の僕に、命を救ってもらったゴンは、そのお礼に自分の身体をくれたのだ。

 ゴンはまだ6才である。ラブラドール・レトリバーの平均寿命は12年程度と言われているので、6年分の命をくれたことになる。

 余命1年を人間・植田昭一として生きるのが良いのか、余命6年をラブラドール・レトリバーのゴンとして生きるのが良いのか。

 なんだか、ありがた迷惑のような気もする。

が、つらつら考えてみるが、簡単には答えはでない。

 ただ、たしかに、僕は何度も、ゴンの生活を羨んで、入れ替わりたいと話していたのだ。

 恩返しをしたいゴンが、犬にしては賢くても、人間としてはたいぶん足りない、その頭で懸命に考えて、その話を真に受けたとしても、なんら不思議ではない。

―――ふう。そういうことか。ゴンめ、粋なことしやがって。

 「くぅ」

 僕は泣いた。

 泣いたと思ったが、もちろん、犬の僕の目から、涙は出ない。

 

 その日、昼過ぎに足音がして、夏子と大きなおなかをした長女が帰ってきた。

 ようやく寝室のドアが開けられ、僕は無意識に尻尾を振りながら、ダイニングルームにはいって、妻と長女の身体に寄り添った。

 飛びついちゃいけない。そう思ったので、なるべく妻の顔に近づけ、差し出された指を舐めた。

 妻はその場でしゃがみこんで、僕の身体を抱いた。

 僕は妻にキスをしようと、いや、口を舐めようとしたが、妻は顔をそむけた。

――― おいっ

 立腹したが、すぐに自分が犬であることに気がついた。

 仕方がないところである。

 かつての僕も、家族も、ゴンの口には細菌がいっぱいいるからと、口を舐めさせることはやめていたのである。僕はやむなく、妻の指の間を舐めた。僕の舌は長く、妻の指にからみつくように動いた。ここは茶化して話す部分ではないとわかっているのだが、妻の指を舐めたことがあっただろうかと考えて、すこし興奮したことを白状せねばなるまい。僕の尻尾は、昭和の扇風機のようにぶんぶんと風を切っていたに違いない。

「パパ、もう駄目かもしれない。あの発作から、なにも喋れなくなった・・・きっと、腫瘍が大きくなって・・・もうだめなんだわ」

 夏子の目が透明の膜で盛り上がり、涙となって頬を伝った。

「身体は元気だかって、ベッドに縛りつけられてるのよ・・・」

 僕は涙を舐めた。

 僕の長い舌から逃れるようと嫌々しながら、夏子は泣き続けた。

 そうか、いよいよ、僕は、人間としての僕、植田昭一は、意識もなくなり、拘束されたまま、死ぬのか・・・

  

 しかし、発作に襲われた人間の僕を、早朝から救急車で病院に届けてきたために、僕、つまり、ラブラドール・レトリバーのゴンの身体を持った僕の、朝食と散歩が忘れられている。

 そういえば、僕は猛烈に空腹だったし、排便排尿がしたかった。

 夏子の涙は、僕の喉をちょっと潤したが、いかんせんしょっぱすぎたし、化粧品の変な味と匂いがした。

 自分の感情を僕にぶつけて満足したらしい夏子は、立ち上がり、ダイニングテーブルの椅子に大きなお腹をさすりながら腰を下ろした長女に、声をかけた。

「お昼まだだったわね。なにか食べられそう? 素麺でいい?」

「うん、いいよ。昨日のおかずの残りもあるしね」と長女。

 なんでもいいが、僕のご飯を思い出してくれ。

 喋りたいが、もちろん、人間の言葉は出ない。どうしてよいかわからず、ふたりの間で行ったり来たりして、顔を見上げた。

 妻と長女は素麺と冷蔵庫から出してきた昨夜の残りの揚げ物とナスのおひたしをはさんで、テーブルで向かい合った。

「途方に暮れるわ。いったい、どうしたらいいのかしら。会社のことも、なにからなにまでわからないし・・・」と妻。

「税理士の田端先生が、全部ご存知なんでしょ。田端先生は信頼できるの?」と長女。

「それは大丈夫だけど・・・お葬式とかも、どうしたらいいんでしょ。業界の人、たくさん来るのかしらね。そこで、私、挨拶とか、しないといけないのかしら。ぞっとするわ」

「そりゃ、仕方ないでしょ。でも、そういうことは、葬儀社の人が全部やってくれるから、心配しなくていいんじゃない。ねえ、ほんとうに、借金とかないのよね」

「さあ、ないとは思うけど、わからないわ」

「どこかから、変なオンナが出てきて、養育費払えって言われたり」

「馬鹿なこと言わないで。そんな甲斐性のある人なら、私の人生も、もうちょっと、わくわくしたに違いないわ」

「わん!」

 つい、口をはさんだ。

 僕が聞いているんだぞ。

 甲斐性がなくて悪かったな。

わくわくする人生でなくて、すまなかったな。

 僕が死にかけているというのに、甲斐性がないたら、葬式の挨拶が嫌だとか、よくもそんなつまらないことばかり言えるな。

 ゴンは、僕のために、自分を犠牲にして、身体まで差し出してくれたんだぞ。

 それに比べてお前たちはどうだ。

 妻は一瞬僕に振り向いて、僕の頭を撫でた。

 そして、すぐに話に戻り、

「あんたの出産と、お葬式が重なったら、最悪ね・・・」

「そんなこと言ったって、仕方がないでしょ」長女が諌めた。

――― 出産と重ならないように、早く死ねと言うのか?

 腹が立った僕は、キッチンの隅に行き、座って、我慢していた放尿を開始した。

「あっ!ママ!ゴンが、あんなとこでオシッコしてる!」

 長女が叫んだ。

 

 もちろん、それから数日というもの、「ゴンの中にいるのは僕だ」と妻と長女に伝えようとした。

 僕はベッドの枕元に充電のために置かれたアイフォンに、メッセージを書いてみようとした。ロック解除のための妻の暗証番号は覚えていたが、爪でも肉球でも番号を押すのは難しかったし、いらついて歯を使うのだが、それも狙いどおりにはいかず、アイフォンはよだれだらけとなった。妻はびしょ濡れのアイフォンをみつけ、ひどく立腹した。

 僕を座らせて、目の前にアイフォンを突きつけて、「やったの!?やったの!?」とがなりたてる。僕はただ首をすくめて嵐が過ぎるのを待った。犯人は僕であると確信した妻は、今度は「ダメでしょ!」という言葉に変えて、金切り声を20回も30回も浴びせた。

 幸い、我が家では、体罰はない。

 体罰でしつけると、よい性格に育たないと教えられてきたからだ。その替りに、こうやって、何十回も耳のそばで叱責を聞かされなければならないのである。

 アイフォンを諦めた僕は、与えられている水に鼻を突っ込み、その水で、床に文字を書いてみた。文字は大きくなる。水には色はついておらず、僕の意図を理解しない妻は、すぐに拭きとってしまう。また、あの金切り声である。「ダメでしょ!」「ダメでしょ!」。妻や長女が目を離したすきに、文字を書いて、メッセージに気づいてもらおうとしたのだが、そこに文字があるという想像力を働かせることができないふたりには、ただの水である。  僕はまた、こっぴどく叱られた。

 ちょうど、季節は春。隣の公園に散歩に行った時、桜の花びらが芝生一面にそのピンクの花弁を敷き詰めたことがあった。

 妻は石のベンチに座り、物思いにふけっている。

 おそらく、僕との結婚が正解だったのかどうか、かりに不正解だったとしても、今から取り返せるだろうかと考えているに違いない。

 桜の木にリードの端をつながれた僕に、最高のチャンスが来た。

 僕は、花びらを鼻先でのけて文字にしようとした。

「ゴンは昭一」

 20分もかかっただろうか。やっと出来た文字、桜の花びらの黒板に書いた文字。犬の僕にもちゃんと読めた。僕は、めったに声を上げて鳴かないのだが、その時は、文字のそばで、鳴いてみた。

 その声に妻はなにか異常を感じたらしく、はっと我に帰り、僕の方を見た。

 その時、上空に漂っていた春の嵐の気まぐれか、一陣の突風が吹き降りて、花びらでつくった文字を消し飛ばしてしまった。

 妻の夏子が歩み寄って来た時には、苦労してつくった文字は、すでになかった。

「なによ、花に桜の花びらがついていわよ」

「くぅ」

 妻は僕の花についていたピンクの花弁をつまみあげて、口をすぼめて雲行きの怪しくなった空に吹き飛ばした。

 

 残念だったが、突風に桜の花びらの文字を吹き飛ばされた時、僕はしみじみと思ったのだ。

 ゴンの中にいるのは僕だと、家族に知らせないほうがいい。

 こんなありえない話を、もし、知らせることができたら、家族親族関係者だけでなく、医学会やマスコミや、2ちゃんねるやはてなブックマークやツィターや、要は、世界中を巻き込んだ大騒動になるだろう。犬に人間の心が転移した。その真偽を巡って、僕はマスコミや世間の好奇に追い回され、検査機関に閉じ込められて、動物実験に使われるだろう。いや、それならましなほうで、記者会見を開けとか、とにかく世間を騒がせたことを謝罪せよなどと突き上げられるに違いない。

 せっかく、ゴンがくれた6年の命を、そんなことで費やしてしまいたくはない。

 ゴンに言ったように、家でのんびりと、家族の周りで暮すことができるのだから、それをありがたく楽しむほうが、ずっとマシだ。

 ゴンにしても、そのつもりだったから、どうやってか、僕に身体をくれたに違いないのだ。

 桜の花びらの件があって以降、僕は、言葉によるコミュニケーションを取ろうとすることはやめたのだ。  

 

 ところが、いよいよ終わりかと思われた人間としての僕、植田昭一は、医師の言うところでは、「奇跡の回復」を遂げて、家に帰ってきたのである。

 大きくなる一方だった腫瘍が、発作を起こして担ぎ込まれた時を境にいつの間にか縮小に転じ、いまでは、ほとんどその形はCTには映らないと言う。

 いったん、意味不明のことを唸るだけだった人間、植田昭一は、少しずつ、言葉と記憶を取り戻しており、すでにある程度喋ることができるらしい。

 入院中、僕はもちろん、見舞いに連れて行ってもらったことはない。

 だから、ふたりがそんな話をしているところを小耳、いや、人間のときよりも大きくて、よく聴こえる耳だが、ともかく、聞いた時、僕は動揺した。僕の抜け殻が退院して、家に帰ってきた時、どんな顔をして対面すれば良いのだろう。 

 そして、人間、植田昭一は、たしかに帰ってきた。

 自分の足でしっかりと歩いて。

 たしかに、僕である。

 いや、少なくとも、僕の身体がそこに立って、ラブラドール・レトリバーの僕を見て、微笑んでいる。脳の障害を負った人は、表情を失うこともあるのだろうが、僕の抜け殻は、表情も普通で、その笑顔に違和感はない。

 鏡の中や写真でしか見たことがない僕の姿が動くところを見るのは、とても新鮮であった。違和感は拭えないが、間違いなく、僕の身体だったものではある。

 僕は恐る恐る近づいた。

 僕の抜け殻はその場にしゃがんで、小さな声で、妻や長女には届かない声で「パパ!」と言った。

 そいつは僕を覚えていた。

 僕は「わん」と答えた。

 

 そして、その時、人間、植田昭一に強く抱きしめられて、僕は突然、理解したのだ。

 人間、植田昭一の身体の中にいるのは、ゴンの魂だ。

 犬時代のゴンが、僕のことをなんと呼んでいたのかは知らないが、ふたりの会話から、僕を『パパ』と呼ぶと学んだのであろう。

 ゴンは、どうやってか、自分の身体を僕に与えて、自分は、余命一年と宣告された僕の身体とともに死ぬつもりだったのである。

 ところが、なんの因果か、人間、植田昭一の身体は医学の常識を覆して、奇跡の回復を遂げてしまった。それはひょっとすると、僕の魂があまりにもストレスに弱く、さまざまな悩み事に満身創痍になっていたからで、深く考えず、素直で、衝動のままに「今」を生きてきたゴンの魂が、病気の原因を取り除いてしまったのかもしれなかった。

 僕は人間、植田昭一の身体、つまりゴンに身を預けて泣いた。

 くぅ、くぅ、くぅ。

 しゃくりあげて号泣しているつもりだったが、涙は出ない。

 ゴンの無私の愛が嬉しかった。

 そして、そうならば、それがゴンの恩返しの行動なのだとしたら、僕は救われる。

 きっと、また、ゴンは、僕を人間、植田昭一に戻してくれるに違いない。

 流れない涙は、安堵の、流れない涙でもあったのである。

 

 低い視点のせいであまり見えないのだが、テーブルの上には、焼きたての大きなステーキが3枚並べられているのが、匂いでわかった。

 僕は、ゴンがいつもしていたように、テーブルの側に座り、右前足をテーブルの橋にかけ、鼻をテーブルの端に押しつけた。肉の芳しい匂いに、クラクラとし、よだれが止めどもなく出てきて、前足の前に水たまりを作った。

 よだれを垂らすなんてはしたないが、出てくるものは仕方がない。

「奇跡の生還、おめでとう!」長女がそう言って、ワイングラスに入れたシャンパンを高く掲げた。

「ほんとうに!」妻が言って、グラスを合わせた。

 植田昭一の身体の中にいるゴンは、ワイングラスで乾杯などしたことがないのだろう。妻にワイングラスを持たされて、戸惑っている。その目は、湯気を立てるステーキに向けられており、いまにも口からかぶりつきそうであった。

「だめよ、乾杯してから」と妻。

「これはシャンパン。言ってみて」

「シャン・・パン」

「これは、ステーキ」

「すすすすテーキ」

「ママ、焦らなくてもいいんじゃない」と長女。「なんせ、生きて帰ってきたんだから。それだけでも儲けモンだわ。言葉もゆっくり、焦らずに、思い出してもらえれば、思い出といっしょに、いつか全部思い出すわよ。子どもが生まれるころには、きっとなにもかも普通に戻っているわ」

「すすすすテーキ」

 そう繰り返す僕の人間の身体の口は半開きのままで、端からよだれが垂れていた。妻がティッシュを一枚引き抜いて、よだれをふきとった。

 乾杯!

 3人はグラスを合わせて、シャンパンを飲んだ。

「だめよ!お酒だから、一気に飲んじゃ!」

 長女が、ゴンの身体の腕を制した。

 話の途中だが、主語が混乱して困る。今後、僕が「ゴン」と言った時は、それは「僕の人間の身体と、その心の主体であるゴンと呼ばれた元ラブラドール・レトリバー」のことであるので、了解して続きを聞いていただきたい。

「さあ、お肉はどうでしょうね」と妻。

 僕の身体はにぎらされたフォークを不器用に肉に突き立てて、口に運び放り込んだ。

 くちゃくちゃ。

「美味しい?でも、口は閉じて」と妻。

 『口を閉じる』の意味がわかったのか、ゴンは口を閉じて、肉を咀嚼している。

 その表情には至福の色がある。

「おいしい、おい、しい」とゴンは言った。

「自分から、言ったわよ!おいしいって!」と妻。

「ほんとうだ、家にいたら、いろんなこと思い出すの、早いかもね」と長女。

 おいしいに決まっている。

 僕の生還がよほど嬉しかったのか、匂いや形から判断するに、それはいままでほとんど家で食べたことがない、最高級のサーロインステーキであった。たまの祝い事には、熊本県から、草で育てた美味しい肉を直送してもらうのだが、締まり屋の妻は、いつも最高級のものは避けて、ふたつめのランクのものを選んでいたのだ。だが、今日はよほど嬉しかったらしく、ついに、あこがれの最高級品を発注したらしい。

 食いたい。

「うーぅー、わん!」

 つい口に出た。

 ゴンは、僕に目を向けた。

 その表情には、怒りが浮かんでいた。

――― どうした?

 僕は戸惑って、右前足を床に下ろした。

 そして、ゴンは、僕に信じられない言葉を投げつけたのである。

「はうす!」

  

 「また言葉を思い出した!」、

 長女と妻は、すごーい、と言ってはしゃいでいる。  

 僕はその場にいたたまれなくなって、ダイニングの角においてあるドッグハウスに入って、寝そべった。

 どうやら、僕は、残りの人生で、あんな旨い肉を食べることはできないことになったらしい。

 人間だった僕がゴンに与えていたのは、せいぜい安物の硬い肉の脂身であって、どうせ味もわかるまいと、人間様がデイナーに食べるようなまともな肉は与えなかった。きっと、妻も長女も、ゴンも、僕に、美味しい肉は与えてくれまい。

 どうしても食べたければ、妻が料理中に隙をみせた時に、さっと奪い取るしかない。

 ゴンめ。

 人間様でいることの旨味、あんな最高級の肉を食える幸せを知ってしまって、金輪際、身体を元に交換する気などなくなってしまったのではないか。

 僕に向かって、「ハウス」とはなにごとか。

 どうやったら、元に戻ることができるだろう。

 どうやったら、ゴンがその気になってくれるのだろう。

 しかし、ここ何日か、複雑なことや、将来を考えることが、なんだか、とっても面倒くさくなってきていた。

 それは、僕がラブラドール・レトリバーの身体に慣れてきた証拠なのかもしれなかった。

「くぅ」

 とにかく、あの肉が食えれば、それでいいのだが・・・