ICHIROYAのブログ

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短編小説18 『Aリスト』

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                       Photo by sisssouBy: sisssou  

 「はい、では、大手広告代理店に入れるなら入りたいと思っている人、手を挙げてみてください」
 『一回生から始める就活セミナー』の講師はそう言って、50人はいるであろう学生たちを見渡した。こんな機会でも積極的である姿勢を見せたほうがいいかもしれないと思っていた賢治は、前から三番目の席に座っていた。
――― 大手広告代理店!クリエイティブな仕事で、高給で、社名を言う度に、誇りで満たされるに違いない。
  一瞬考えてからであったが、賢治はさっと手を挙げた。
―― ほかの人は?
 賢治は肩越しに後ろを見た。ひとり、またひとりと手を挙げ、やがて三分のニぐらいの手が挙がった。
「はい、ありがとう。やっぱり、人気ですね。では、まったく別の質問をします」
 講師はにこやかに微笑みながら、こう訊ねた。
「原発については、どうでしょう。反対の人。まず、即時に、すべての原発を廃炉にすべきと思う人は?」
 質問の意図がわからず、学生たちの顔に不審そうな表情が広がった。

 『一回生から始める就活セミナー』は就活分野では最近メキメキ頭角を現したある会社が、就職活動に不安を持つ大学生を対象に、一回生という早い時期から、有利な就職を目指した学生生活を送るためのノウハウを提供するセミナーである。
 賢治は第一志望の国立大学の受験に失敗し、いわゆるマーチと言われる関東の私立大学のうちのひとつに入学した。
 なにがなんでも、世間から認められ、裕福になり、魅力的な女性と結婚するんだ、そう思っていた賢治に、受験の失敗は大きな痛手となった。自分なりに傾向と対策を練り、一生懸命努力したつもりであったが、結果は不合格であった。
 就活でも、おなじ目に合うのではないか、第二志望の私学に落ち着いた賢治の心にそんな恐怖心が芽生え、そのセミナーのチラシを学生課の掲示板にみつけた時に、すぐに申し込みをしたのだった。
 学生なら誰もが知っている会社のセミナーであり、アンケートに答えさえすれば参加料も2000円とリーズナブルである。
 実際、駅のそばの地銀のビルの上層階の会場に来てみると、高校の教室ほどの部屋は、一回生で満員であった。そこに知った顔はなかったが、おそらくみんな、近辺の2,3の大学の一回生であろうと思われた。
 就活コンサルタントを名乗るセミナーの講師は、四十代前半の笑顔の魅力的な男性であった。
 大学生になったばかりの賢治にすれば、その年代の男性は、ほとんどが『ただのおっさん』で、そうでない『ダンディなおやじ』、あるいは『憧れの存在』はブラウン管やネットの向こうにわずかな数存在しているだけであった。だが、話を聞くうちに、賢治には、その講師が『だだのおっさん』ではないように見え始めていた。
 真剣に話しているかと思えば、時にはジョークで笑いを取り、また、時にはオフレコだよと断って、企業名を出したりして、参加している学生たちの注意を一瞬もそらさなかった。
 まずは、勉強を頑張って、よい成績を取ること。そのうえで、無計画なアルバイトではなく、知りたい業界、入りたい業界のインターンを探して、潜り込むこと。さらに、経済や会社の仕組みを知って、3回生までに、志望企業をリストアップして、調べあげること。一部上場企業だからといって、ブラック企業でない保証はない。
 その話は、賢治にとっても、とても納得のいく話であった。
 ネットやマスコミで聞く就活の厳しさとは実際にどんなものなのかかなり明確にわかったような気がしたし、また、ほかの就活生より早く、3年かけて準備をすれば、自分でもなんとか乗り越えられそうな気になってきたのである。
 そして、最後の30分。
 もっとも大切なこと、一流大学の成績優秀者でも、案外わかっていないことをお伝えする、と言って、講師は冒頭の質問を言ったのである。
 
――― 原発か・・・
 数人が手を挙げた。
「はい、ありがとう。即時廃炉を望む人は、少数派ですね。では、すぐにではなくても、中長期で原発依存度を減らして、ゆくゆくは原発をゼロにすべきだと思う人は?」
 賢治は手を挙げた。周囲を見渡すと、半分ぐらいの学生が手を挙げていた。
「おおよそ、半分ぐらいですね。残りの方は、原発やむなしというお考えということですね」講師はそう言いながらゆっくりと歩き、賢治の前あたりにやってきた。
「そこの男性の方」
 突然指名されて賢治は驚いた。僕ですか、というように顔を上げると、
「そう、あなた。大学と学部と、お名前とは?」
「XX大、経済学部、宮崎賢治です」
「ツィッターか、フェイスブックやってますか?」
「はい、ツイッターを」
「原発に関する、あなたのその意見を書いたことは?」 
 賢治の母は、息子を評して正義感の強い子だとよく言ったものだ。賢治も、多くの良識派の人たちと同じように、福島の原発事故には心を痛め、原発の将来について、そういう考えを高校生らしくまっすぐに書いたことはある。
 賢治は正直に答えた。
「あります」
 講師は机の間を前に進んで賢治のすぐそばに立った。そして、見下ろして、言った。
「でも、あなた、大手の広告代理店に入りたいっていう質問にも手を挙げておられましたよね」
 賢治は眉を潜めて頷いた。
「言うまでもなく、大手広告代理店は、電力会社を大口のお客様にしていますし、原発推進を推し進める側の仕事をしてますね。かりに、あなたがその会社に入れたとして、電力会社の担当になったらどうしますか?」
――― どうすると言われても・・・
 その立場になってみなければわからない。賢治は返答に窮した。
「まあ、それはその時に考えてもらうことにして・・・立場を変えて考えましょう」
 講師は賢治の側を離れて前に戻った。
「あなたがたがその会社の人事採用担当者だとします。最終候補に残った人たちから、何人か落とさなければならない。面接や筆記試験の結果も、学歴や成績も甲乙つけがたい。当然、当然ですよ」そこで講師はいったん言葉を切って溜息をついて続けた。「SNSでどんなことを書いているか、チェックします。そこに、もし、原発の即時廃炉を主張する発言があったら、あるいは、『将来的に必ず原発はやめなければならない』というような強い主張が書かれていたら、あなたはどうしますか。採用担当者としては、会社の大口顧客との関係を良好に保つことになんの心配もない人材を選びたいですよね。実際のところ、その候補者の心情は、『即時廃炉』と『消極的脱原発』という一般的な考えの間で揺れているのだとしても、目にしたのがそういう発言だったら・・・採用担当は限られた情報から、判断を迫られます。で、結果は想像できますね」
 
 会場は静まり返った。
 そこまでの話は、競争社会の厳しさを痛感させるものだったが、社会は突然、その理不尽な姿を学生の前に現したのである。
「そういうことになる可能性のある会社は、広告代理店だけじゃありませんよ。電力会社はもちろんですし、大手電気やゼネコンをはじめ、多くの会社が原発に関わっています。そもそも、あなたたちだって、原発の電力に依存して、こうやって豊かな生活の中で育てられてきたんです。でも、おかしいですよね。あなたたちが習ってきた先生たちは、そんなこと言いましたか? どこかに絶対的な正しい道や、『正義』があるかのようでしたね。でも、絶対的な『正義』なんてないんです。『正義』は、人間の知性によって保たれているけれど、その骨組みの土台には、『ある種の力』があるんです。ビジネスの世界に入るなら、会社という組織に入るなら、そういうことを、就活以前に、肝に命じておいたほういい」
 講師は厳しい表情で会場を見渡し、さらに続けた。
「みなさんは、戦争は嫌ですよね。それに、戦争で誰かを殺す武器だって、作ったり、売ったりしたくないんじゃないでしょうか」
 会場は依然、湾内の凪の海のように不自然に静まり返っている。
「ご存知かどうか知りませんが、武器輸出が解禁されました。いろいろと制限はあるにしても、日本の会社も、銃や爆弾や無人爆撃機を作って、輸出することもできるようになりました。さすがに、日本の大手企業は、消費者から『死の商人』の烙印を押されるのは嫌でしょうから、無人爆撃機をつくりはしないでしょうけど、無人爆撃機に必要な電子部品を開発して輸出したりすることは出てくるでしょう。さあ、あなたが入った会社が、そういう部品を輸出して、それが、中東で使わることがわかっているとしたらどうでしょう。もちろん、そういう会社は就職の時に避けたいところです。でも、主力商品が寿命を迎えて、売るものがどんどん変わっていくというのは、よくあることです。あなたの入った会社が、いつの間にか、武器部品の輸出が大きな割合になっていた、なんてことはありうるでしょう。また、逆の立場で考えましょう。自分はそんな会社の採用担当者だ。また、最終選考の時に、あなたはSNSを見る。その発言から、潔癖な道徳観、強い正義感を感じさせる人を見つける。そこで、あなたは、その人たちが、自分の担当が武器部品だとわかっても、販売に躊躇しないだろうか、それを一生懸命に売ってくれるだろうかと心配になります。で、どうしますかね」
「僕が言いたいのは、原発とか、武器輸出の是非ではありません。つまり、僕らが住んでいるこの社会は、隅々まで潔癖でもなければ、力を後ろ盾にしない正義などはないということ。そして、社会に出るということは、自分も、濃淡はあれそれを担っていくということであるということをしっかりと認識しておいて欲しいのです。就活というのは、その覚悟を問う、いわば登竜門のようなものなのです。もし、あなた方が、『就活に勝つ』、そのための準備を今からするということは、取りも直さず、その覚悟を固めるということでもあります」
「SNSで自分の意見を発信することはたやすくなりました。SNSには悪い面もありますが、同様に良い面もあります。多くの企業に、生活者からの意見を反映させることが容易になりました。かつてないほど、企業は生活者の顔色を伺っている時代だと言ってよいでしょう。でも、採用にあたっては、企業は、候補者のプロフィールや生活スタイルを簡単に知ることもできるようになったのです。面接では本心を隠せても、2年も3年も、SNS上での発言に注意を払い続けることは簡単ではありません。強い自制心が必要です。不用意は発言はしない。そのために、社会の仕組みをよく知る。そしてーーー」
 講師は再び一呼吸を置いた。
「逆に考えましょう。SNSでの発信で失敗しそうなら、やめてしまえばいいのです。でも、やめてしまうのはあまり良い印象を与えないかもしれません。今時、まったくSNSも使いこなせないのか、と思われることは、減点の対象となるかもしれません。結局は、のちのち問題にならないような発言を避けて、ほどほどにお付き合いをする、というのがもっとも現実的です。さらに言うと、採用担当者に読まれる前提で、書く。企業から必要とされそうな自分をそこに演出して、逆に、積極的に利用するということも可能です―――」
 
 後の方の席から、「先生」と言う女性の声が聞こえた。茶色っぽいふんわりとカールした髪をセミロングの美しい女子学生が、すでに立ち上がっていた。
「はい、どうぞ」
「すみません。◯◯大学の山口と言います。就活のノウハウを興味深く聞かせていただきました。ありがとうございます。でも、先生の最後のお話は、酷いと思います」
「どういたしまして。で、『酷い』って?」
「先生のおっしゃっていることは、『社会の雰囲気を読め、SNSでは自分の意見よりも、社会に迎合するような意見を書け』というようなことですね」
 講師は頷いた。
「みんながそんなことをするから、日本の社会や、企業は、坂道を転げ落ちるように、悪い方へ悪い方へと進んでしまうんじゃないでしょうか。戦前の日本人が無謀な戦争に突入したのも、福島の津波被害への対策ができなかったことも、多くの有名一流企業が長年信じられないような不正を続けたりするのは、まさに、そういう心情のせいではないでしょうか。悪いことは悪い、手を出すべきではないことには手を出さない、そう勇気をもって発言することの方が、よっぽど社会も会社も良くするし、これからの時代、求められる人材像だと思います。とくに、私たちのような若い世代、いまから勉強して、社会を良くしていこうとしている学生に、社会の既存の枠組みを良いものとして尊重する必要なんて、まったくないんではないでしょうか」
「そうです。もちろん、そうです。よく調べて、自分の意見を持つ、それを発信していくことでしか、世の中は変わっていかないでしょう。ただ・・・」
 講師はその女性の方向に2、3歩踏み出して続けた。
「このセミナーの目的は、『就活に勝つ』ことですね。社会を良くするためのシンポジウムでも、政治集会でもありません。『就活に勝つ』ためには、多くの企業から来て欲しいと思われる人材になる必要があります。つまりですね、右手で殴っておいて、左手で何かをねだることはできないっていうことです。えっと、山口さん、学部は?」
「法学部です」
「そもそも、あなたには、『就活』を選ばないという方法だってありますよね。右手どころか、社会派の弁護士になって、両手で社会の不正義を叩くという道だってありますし、ジャーナリストとか、NGOを始めるという道もあります。一部上場企業に入るという選択とは、両極端ですが、その間にさまざまな道もあるでしょう。このセミナーの目的からは外れますが、敢えて申し上げると、そういう道を選ぶ方を、私は心底から尊敬しています。たいていの場合、そういう人たちの道は、苦難の連続で、経済的にも恵まれないことの方が多いと言ってよいでしょう。でも、そういう方は、胸の奥から湧き上がってくる衝動を抑えきれず、勇気をもって、そういう生き方に踏み出すのです。実際に、そういう方のうちのわずかな方が時代の英雄となり、残りの多くの方は経済的には恵まれぬまま人生を終えるのでしょう。山口さんには、そういう『就活で勝つ』以外の生き方のほうが良いのかもしれませんね」
 山口は顔にかかるカールした前髪の間から、講師を睨みつけたままであった。表情に納得の色はない。だが、山口の口調はあくまで冷静であった。賢治は振り返って山口の話しぶりを惚れぼれと見つめた。
「先生のお話は極端です。社会を変えるためには、そういう一部の人達ではなくて、普通に会社に勤めている人たちすべてが、しっかりした良識をもつことが必要なんです。でなければ、社会は変わらないし、そもそも、私たちが頑張って仕事をして、社会をよい方向に変えていこうとする努力は無駄っていうことになってしまいます。まだ考えは青いかもしれません。ですが、正義感に溢れた学生が、自分たちの未来を自分たちが望むものに変えていこうとしてする発言することは、悪いことでしょうか。それに、そういったことを企業が嫌がるかのようにおっしゃいますが、ほんとうにそうでしょうか?たとえば、電力会社や広告代理店や電機設備の会社に就職したすべての大人たちは、原発推進派だったんでしょうか。私はそうは思いません。きっと、若い時は、理想や正義感に溢れていたのだと思います。そんな大人たちが、自分の若い頃を棚に上げて、同じような考えを表明する若者を、採用の時に避けたりするものでしょうか。会社って、会社の人たちって、そこまで、不寛容で、だめになってしまっているんでしょうか。失礼かもしれませんが、先生―――」
 いったん言葉を切って、山口は静かに続けた。
「先生には、大学に入ったばかりの私たちに、こうやって何かを語る資格はないんじゃないでしょうか。まさに、先生がそんな話をして就活生を脅すことで、私達の社会を、未来を、そして、会社や、就活をも、酷いものにすることの片棒を担いでいるんです。」
 去年まで高校生だったとは思えない、抑制の訊いた立派な語り口であった。
 だが、講師の表情に焦りや驚きはなく、静かな口調で言い返した。
「それはどうかな。ちょっと、言い過ぎだと思うが」

「先生!」 
 そう声を上げたのは、賢治であった。
「先生の話はよくわかりました。でも、僕も納得はいきません」
「おや、援軍ですか。さっきの方ですね。どうぞ」
「僕らはもちろん、『就活に勝つ』ために、ここに来ました。でも、心を売り渡したくもないんです。もちろん、自分の生活を良くするために働きたいですけど、社会を良くするための汗だって流したいんです。先生は一か八かみたいにおっしゃいますけど、たとえば、SNSは、匿名で活動すればいいじゃないですか。先生は、そこまで、否定されますか?」
「匿名・・そうですね。匿名」講師は賢治から目を離して窓に向かって歩いた。
「匿名がいつまで担保されますかね。スマホからSNSに投稿した時点で、完全な匿名ではないですよね。それに、あなたがたが就職活動をするのは、3年先です。3年先に、いまとおなじような匿名の隠れ蓑が、求職者のプライバシーに通用しているか、心もとないところがありますね。たとえば、匿名アカウントでも、間違えて実名アカウントの方の発言をしてしまったりすることだってあるでしょう。間違いによる発言とか、ほかのSNSとの連動の様子などから、実名アカウントとのひも付けできるシステムが開発されているかもしれませんよ・・・個人的には、この社会を良い方向に向かわせるのもSNSで、そのためには、なにがなんでも匿名を守るべきと思いますがね。それは、僕の希望的観測なので、『就活に勝つ』こととは関係がありませんし、セミナーの目的からは、『匿名アカウントでの発言にもリスクがあるので気をつけるように』としか言えませんね。ところで、さっきはあえて聞きませんでしたが、宮崎くんはどうされるんでしょうかね。原発はやめるべきだと思っておられるが、もしやっと入れた有名一部上場企業で、原発の広報活動をせよと命じられたら?」
 賢治は立ち上がって叫んだ。
「わかりません!」
「わからないって、あなた、面接官にもそう言うおつもりですか?」
「わかりません。社会は、先生がおっしゃる通りになっているのかもしれません。でも、わかりません。自分で、この世界が、先生がおっしゃるとおりになっているのか、たしかめて見るまで、僕は信じません。社会も会社も、先生がおっしゃるほど、酷いところじゃないと思います。たとえ、そうであったとしても、自分でそこに飛び込んで、あがいてみたいんです。なにか道がないか、自分は本当にそれを受け入れることができるのか。ぎりぎりまで、這いずりまわってみたいんです。だから、そんな仮定の質問に、応えることはできませんし、先生に言われたからって、いますぐに、社会に対する考えを変える気はありません」
「いや、そうするのも、君の選択だ。僕は、ぜんせん反対はしないよ。君は『就活に勝つ』セミナーに来て、僕のアドバイスが欲しいのだと思っていたので、現実を話しただけだ。ただ・・・君が、そのままの考えで、条件の良い一部上場企業から、内定をもらえる可能性は低いと思うがね」
 山口が遠くから言った。
「先生のセミナーは、まるで洗脳です。就活に失敗するのではという心配を、ナイフみたいに背中に突きつけて、こんな話。ひどすぎます」
 山口はかばんの中にノートや筆記具を入れると、机の間の通路に出て、ヒールをコツコツと響かせて、部屋から出て行った。 
 山口の一挙手一投足に視線を貼り付けていた賢治も、「失礼します」と言って、山口の後を追った。
 ふたりは部屋から出て行った。
 ふたりが去った部屋は、沈黙に包まれた。
 講師の静かな声がその沈黙をやぶり、セミナーの閉幕を宣言した。 
「ふたりのおかげで、今日は充実したセミナーになりましたね。まあ、ここに残られているかたも、いろいろな思いがあるでしょう。じっくり考えてみてください。企業への就職活動を選ぶつもりなら、なるべく早くに、就活をスタートされた方が良いでしょう。そして、就活に勝ちたいなら、今日の話を思い出していただければ、幸いです。ご苦労さまでした。それでは、お配りしているペーパーに感想を書いて、終わりにしてください。ありがとうございました」

「ご苦労さまでした。また収穫がありましたね」
 参加者の去ったがらんとした部屋でセミナーを主催した若い社員が講師に言った。
 講師は集めたアンケートに目を落としたまま答えた。
 アンケートの最後には、小さな文字で、アンケートで得た個人情報を第三者に提供することがあると書かれていたが、学生たちの中にそれを気にする人はほとんどいかなったらしく、アンケートには丁寧に個人情報とセミナーの感想が書き込まれていた。
「ええ、あのふたりは、良かった。彼らをAリストに入れよう。これでAリストは、何人になりました?」
「300人を突破しました」 
「彼らが就活に入るまでにあと、2年半。2000程度の規模に、なんとかもっていきたいところですな」 
「しかし、先生のビジネスセンスには舌を巻きます」
「君のところの社長には負けるよ。Aリストの売値はひとりあたり2千円ぐらいでいきたい。そこまで行ければ、400万円か」
「それを100社に売れば、4億ですね」
「たいした規模じゃないがね。このセミナー事業の副産物としては、十分だろう。何度も言うが、その売上は、僕と君の会社の折半だからな」
「わかってますよ。セミナー本体と、名簿の活用じゃ、そんなにうちに利益は落ちないんですけどね」
「わかったわかった。ともかく、Aリストの方は、秘密裏に何年続けることができるかが、勝負だな」
「いや、大丈夫でしょう。『Aリスト』っていう良い名前がついてますしね。まさか、『A』の『A』が、『AクラスのA』ではなく、『Avoid(避ける)』の『A』だとは、説明を受けた担当者以外、誰も思わないでしょう」
「名称はともかく、採用では、Aリストが役に立つ。箸にも棒にもかからんヤツは簡単にふるい落とせる。難しいのは、仕事はできて仲間からの評判もいいのに、硬直した正義感にとらわれて、組織人になりきれないヤツだ。真面目で、成績も人当たりもいいから、面接では満点に見える。が、将来、内部告発をしたり、会社の方針に反対して組織にブレーキをかけたりするのは、きまってそういうヤツだ。そういう人間をリストアップしておいて、最終候補者にそんな人間が混じっていないか簡単に調べることができたら、企業にとって、どれだけありがたいか。Aリストは絶対に売れる。まあ、売り込みには、君たちの会社の看板も、大いに利用させてもらうがね」
 ふたりはニコリともせずにアンケートの集計を続けた。 

 それより、何分か前のこと。
 山口に追いついた賢治が、しばらくの躊躇のあと、背後から声をかけた。
「山口さん」
 彼女は立ち止まって振り向いた。
「山口さんは、勇気あるね。感動した」
「あの話は、やっと受験の試練をくぐり抜けた18歳の春に聞くべき話じゃないわ」
「うん、僕も腹が立った・・・・」
 賢治は、呼び止めたものの、何を話したら良いのかわからない。言葉に詰まった。
「じゃあ」
 山口はそう言って、茶色に輝くセミロングの髪をなびかせて歩きかけた。
 薄ピンクの膝よりすこし短い丈のドレスに、純白のカーディガン。ヒールの高い靴。
 エレガントないでたちの普通の女子大生が、あの場で、正々堂々と意見を述べたのである。
――― らしくない。
 追いすがって賢治が、さらに訊ねた。
「ねえ、山口さんは、◯◯大なんでしょ。もう会えないかもしれないから、ちょっと、話さない?」
 山口は立ち止まらず、まっすぐに前を向いて歩きながら言った。
「なにを? 私急いでいるのよ」
「なにをって・・・」
「今からうちの学校の学生課へ行くの。で、学生課の掲示板にも貼ってあったあのセミナーがどんなダメな内容だったか、伝えてくる」
 山口は急に立ち止まり、賢治の前に立ちはだかった。 
「そんなに腹が立ったのなら、あなたも、自分の学校に、言いに行ったら? じゃあ、行くわね」
 賢治は、山口の背中が小さくなっていくのを、呆然と見送った。
 これから自分が入っていこうとする社会や会社というところは、ひょっとしたら、あの講師が言っていたような、ひどい場所なのかもしれなかった。だけど、山口のように、目を輝かせてまっすぐに生きていこうという人もいるのだ。
―――きっと、この世界は、捨てたもんじゃない。
 賢治はいつまでも山口の背中を見送っていた。