ICHIROYAのブログ

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短編小説10 『閉所恐怖症』

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                                                                                                   photo by  Mateusz R

 

 はじめて麗子を紹介された時、圭一はあやうくしどろもどろになるところであった。
 三十才前後と思われる麗子は、それほどの美人だった。
 どこにも欠点がないということではない。おそらく、鼻梁は細すぎるし、全体にやや尖った印象の顔である。だが、にっこりと笑って、よろしくお願いしますと圭一に言った時のその笑顔は、熱帯の孤島のジャングルに咲く花が、突然目の前で開いたような印象であった。
 だが、待て。
 圭一は麗子が自分の前を去ってからも、その姿を目の端で追いながら考えた。
 もうすでに、お手つきを二回している。一般的には、結婚に至らない社内恋愛は一回は許されても、二回目は許されないと言われている。が、圭一はすでに、2回、社内で付き合った彼女と別れてしまっている。
 ハンサムで仕事もでき、頭も良ければ人当たりも良い圭一のことだ。今のところ、2回目の破局を問題視する声は上がっていないようだが、さすがに3回目は許されないだろう。自分でもそれはわかっている。
 進学校から一流大学に入り、180センチ近い恵まれた身体をいかしてアメリカンフットボールのスター選手として鳴らし、卒業後は誰もが羨む有名商社に入って、まさに順風満帆な人生だ。色恋に溺れて、すべてを台無しにするなんて馬鹿げている。
 派遣社員として自分の部署の事務をするためにやってきた麗子が、いくら自分好みの美人だからといって、そんなリスクをとるつもりはない。
 
 すべてにおいて恵まれて、神様があえて人間を不平等につくりたもうたことの証明にでもなりそうな圭一にも、じつはひとつだけ弱点があった。
 閉所恐怖症であった。
 32歳の圭一が、自分が閉所恐怖症であるということを知ったのは、ごく最近のことであった。
 ベトナム、ホーチミンを仕事で訪れた時、郊外のクチという村を観光で訪れた。クチにはベトナム戦争当時、アメリカ軍と戦った人たちが掘ったトンネルがある。地下に、まるでアリの巣のような狭いトンネルが延々と掘り巡らせてあり、広く掘られた部屋には、病院や学校や兵器工場まで作られていた。
 ベトナム兵と戦うアメリカ人兵士は、イノシシでも捕獲するかのような刃物を立てた落とし穴を避け、このトンネルに篭って神出鬼没に現れるベトナム兵と戦わなければならなかった。
 圭一はおおいに興味を惹かれて、案内に従ってその狭いトンネルに入った。狭いトンネルを、大柄な圭一は身を屈めて前に進んだ。だが、だんだんと息苦しくなってきた。途中でトンネルは分岐しているが、案内に従って見学している人たちは、一列につながって順路になっているトンネルだけを進む。
 かなり進んだ頃、突然、列が止まって動かなくなった。圭一はその場で屈んで列が再び動き出すのを待った。だが、列は動かない。前にいるのは若いベトナム人の男性数人で、後は白人のカップルである。なにが起きているのか不安が高まった頃、遠くから人が叫ぶ声が聞こえてきた。ベトナム語なのか、意味はまったくわからない。だが、ひとりの声ではなく、ほかの声もそこにかぶさり、トンネルのどこかでなにか騒動が起きているように思える。
 圭一はそこでパニックに陥った。早くその場を離れたくても、前も後も人の行列は続いており、すれ違うスペースもない。
 ひょっとしたら、自分たちは観光用の順路をはずれてしまって、先頭がどこにいるかわからなくなっているのではないか。息も苦しい。こんな密閉されたトンネルでは充分な空気もないのではないか。ひょっとすると、自分はもうここから出られないのではないか、そんな不安に押しつぶされそうになった。
 狂ってしまうのではないか、パニックに襲われた圭一は、その場で脂汗を流し震えた。
 ギリギリのところで、なんとか列は再び動き出し、圭一は無事にトンネルの外に出た。
 そんなことがあったのだが、まだ、その時は、自分のその病に気がついてはいなかった。
 ここ数年、時折、差しこむような頭痛がするので、医師に勧められて脳のMRIを撮った時のことだ。
 肩が動かないようにおさえられて、狭い洞窟のような機械に頭を突っ込まれる。工事中のような変な音が脳内を叩いた。
 圭一は、突然、そこから逃げ出したくなった。肩がおさえられているので、頭をその機械から引き抜くことができない。
 なぜそんな強迫観念にとりつかれるのかわからないが、ともかく、その機械に頭を覆われて、そこから自分では出ることができないのではないかという不安感に、胸が締めつけられる。
 自由になっている両手両足で暴れて、医師に検査を止めてもらおう。
 いや、それも変だ。あと、ちょっと、あと、ちょっとだけ、我慢してみよう・・・
 圭一はなんとか検査を最後まですませた。
 医師によるとMRIによる脳の異常はみつからなかった。
 だが、圭一は、自分が閉所恐怖症であることを知ったのだった。
 
「麗子さんって、お子さんおられるってほんと?」
 席に配布書類を持ってきてくれた麗子を呼び止めて、圭一は訊ねた。
「ええ、いますよ」
「そうは見えないなあ」
「矢澤さんは?」
「まだ、独身ですよ」
「あら、矢澤さんこそ、そうは見えないわ。なぜ、美人揃いのこんな職場で、みんな放おっておくのかしらね」
「僕なんか、人気ないですよ」
「そうかしら。まだまだ、遊びたいだけじゃなくって?」
 いやいや、図星を突かれた圭一は笑って言った。
「僕って、欠点だらけですもん」
「えー」と麗子は言って、圭一のスーツを着た上腕に手を置いた。職場にふさわしい、薄いピンクのマニキュアが塗られた、綺麗な手であった。肌と肌が触れ合ったわけではないが、麗子との予想外の距離に圭一は胸が高鳴った。
「たとえば?」
「閉所恐怖症」
 麗子は圭一の目をのぞきこんだ。どこまで同情したらいいのか測りでもするように。 そして、言った。
「だとしても、ふだん、そんなにお困りじゃないんじゃなくって?」
「そうですね。でも、たとえば、LCCの飛行機とか、怖くて乗れません。窓際に座らせてもらって1時間ぐらいならなんとか耐えることができるかもしれないけど、そうじゃなければ、気が狂いそうになります。満員の商業施設で、身動きがとれなくて、パニックになったこともあるし、手術の時とかも、カテーテルとか点滴を繋がれてベッドから動けないと思ったら、それだけで耐えられないほど苦しいんです。それに、MRI検査じゃ、死にそうになるんです」
「そうなの・・・」
「わかってもらえないと思いますけど、身動きが取れない状況に追い込まれた時のパニック状態は、ひどいもんです」
「ひとはそれぞれ、見ただけではわからない悩みを持っているものね」
「麗子さんもなにか?」
「もちろんよ」
 麗子はそう言うと圭一の腕に置いた手を離し、資料の配布に戻っていった。
 後ろで小さく纏められた艶やかな髪。ほどけば、どんな素敵なロングヘアーになるんだろう。
 圭一は麗子の後ろ姿を目で追っている自分に気がついて、頭を振った。
――― しっかりしろ。人妻で、マザー。手の届かない人なんだ。それにしても、麗子さんの見かけではわからない悩みとはなんだろう。

 圭一が麗子の「悩み」を知ったのは、しばらくのち、所属する食品流通部1課の星田課長と会社の最寄り駅そばのバーで話をしている時のことであった。
 配慮の行き届いた星田課長が配下の部下のプライバシーを噂話に持ち出すようなことはないのだが、圭一に目をかけてくれているので、圭一が麗子に好意を持ち始めていることを察して、あえて知らせてくれたのだと思われた。
 麗子は離婚協議中であるという。
 夫はDVが酷く、麗子にも娘のユキにも暴力を振るう。
 麗子はユキを連れて家を出て夫から身を隠している。夫のDVを証明しない限り、娘の親権をとることができそうもないので、困っていると。
 派遣会社から身元を問い合わせるような電話があっても取り合わないでくれという依頼があり、また、職場では仮名で通してくれということだったので、不審に思った人事部に問い合わせたところ、そういった事情を聞かされたのだと言う。
 圭一はふと思った。
 なぜ、美しい女性は、かくも自分で不幸を招き寄せるのだろうか、と。
 人並みはずれて美しいということは、スタート時点で大きな下駄を履かせてもらっているに等しいと思うのだが、どうやらその「高い下駄」は、普通の幸せに続く道には、向かないらしい。
「わざわざ、お前に知らせた理由は、わかってるな」
 星田課長の強い口調に圭一は我に帰った。
 頷いた。
――― 麗子が欲しければ、人生をかけて、すべてを受け入れる覚悟をせよ。さもなきゃ、手を触れるな、ということだな。

 星田課長は第一選抜で課長になり、最速で部長になるのではないかと噂されていた。
 圭一にとって、星田課長は、直属上司のその上の上司であったが、自分に目をかけてくれているのが痛いほどわかっていた。
 星田課長についていきたければ、麗子のことは忘れてしまうのがベストだ。
 ここで自制心を発揮できなければ、仕事はできても、自制心がなく、将来オンナで問題を起こすヤツという失格の烙印を押されかねない。
 だが、麗子が、ことあるごとに、触れてくるのだった。
 ふたりで話す時、その距離が短く、ときどき、麗子の吐息が圭一の頬を撫でたりする。
 圭一にはわかっている。
 女性の中には、麗子のように、男と接する距離が普通より短い人がいるのだ。そういう女性には、とくになにかの意図があるわけではなく、よほど嫌いな男性でない限り、同じような距離で接している。だが、そうされる側にとっては、とくに麗子のような美しい女性であればなおさら、どっきりする。ひょっとして、この人は、自分に気があるのではないか、と思ってしまうのだ。
 麗子もそういった女性のひとりであるに違いない。
 圭一はそう思うのだが、やはり、冷静ではいられない。
 とくに、シャツをまくり上げた前腕に、直接、その冷ややかな手をそっと置かれた時などは。
「麗子さんの手って、綺麗ですね」
 ある日、圭一は自分の上腕に置かれた霊子の手を褒めた。もちろん、綺麗と思っているのは、手だけではないのだが、さすがにそこまで思わせぶりなことは言えなかった。
 麗子は男を蕩かす笑顔を見せて、言った。
「ありがとう。でも、案外、たくましいのよ、この手」
 その手を圭一から離して、手のひらを自分の方に向けた。
「そうですかね」
「叩くの」
「なにを?」
「オトコとか」
「?」
「嘘、嘘。太鼓とか、シンバルとかよ」
「ドラムやるんですか?」
「ええ」
 意外であった。ピアノやキーボードならなんの印象もなく聞き流していただろう。
 だが、ドラムとは。
 圭一はロングヘアーを振り乱しながらドラムを叩く麗子の姿を想像した。
 なんだか、ぞくっとした。
「へえ!いまも、バンド活動してるんですか?」
「いえ、バンドは、さすがに無理。でも、家で叩いてるよ、毎日のように。矢澤さんは、楽器は?」
「ギター弾きます。僕のほうは、就職してからは全然だけど」
 圭一は立ち上がって、ギターソロを弾く真似をした。
 圭一のエア・ギターに合わせて、麗子もドラムを叩く振りをした。
「おい、なにしてんだ?」
 係長の叱責が飛んできた。
 ふたりは赤くした顔を見合わせて首をすくめ、それぞれの席に戻った。
 圭一は麗子のドラムをバックに強烈なリフを「かます」ところを想像して熱くなった。
――― いつか、麗子と演奏できれば・・・
 自制心は残っていた。
 だが、圭一にとって、麗子はまた、特別な魅力を放つ存在になったのである。

 夜の8時を過ぎようとする頃、圭一の所属する食品流通部一課の外線電話が鳴った。
 一般営業の、顧客向けの外線ではなく、内部連絡用の外線であった。
 定時を2時間も過ぎているにもかかわらず、一課ではいつものように多くの社員が仕事をしていたが、ざっと見渡した圭一は自分が最も年下であることに気がついて電話をとった。
「はい、流通一課、矢澤です」
「山口です、山口麗子です」
「あれ、どうしました?」
「怖いんです」
 麗子の声は小さく、震えていた。圭一は受話器を握りしめたまま、ボタンを操作して音量を上げた。
「シュッショした主人に住所がバレました。今夜、遅くに来るって」
 シュッショ? 出所?
 暴力を振るうという離婚協議中の麗子の夫は、なんらかの犯罪を犯して服役中だったと言うのか。
 刑務所に出入りする人間と圭一は、まるで別の世界に住んでいる。麗子も、いかに美しくても、いや、あまりに美しいからこそ、そういう世界の住人になってしまっているのかもしれない。
 圭一は、体力には自信がある。180センチの長身に、アメリカンフットボールで鍛えた筋肉がまだたっぷりと残っている。
――― この俺が、「出所」という言葉に怯えているのか?
 頭のなかを様々な思いが巡り、圭一は答えあぐねていた。
 ふたたび、麗子の声がした。
「すみません。なんのことかわかりませんね。怖くて、混乱して・・・実は―――」
 麗子は、星田課長から聞いた内容とほぼ同じことを話した。  
 さらに、服役中であった夫は先週に出所してきたが、ついに麗子の住所を突き止めて、今夜、何時間も車を飛ばして、娘のユキを奪いにやって来そうなのだと言う。
「警察に連絡しましたか?」
「まだ、なにもされていないので、警察を呼ぶ理由がありません・・・でも、もし主人が力づくでユキを連れて行ってしまったらと思うと、怖くて怖くて」
「家を出て、どこかのホテルに避難されたらどうです?」
「はい・・でも、ずっとホテル暮らしをするわけにもいかないので、いつかは対決しなければ・・・」
――― 女子供に暴力を振るう、ムショ帰りの腐った男に、俺は怯えているのだろうか? いや、こんな時間に、麗子の家に行くことが面倒なのだ。
 星田課長に念を押されたように、変に勘ぐられたら、離婚を待って子持ちの麗子と結婚するか、この会社での出世を諦めるしか道がなくなってしまう。
 麗子のことが気になって仕方がないのはたしかだが、すべてを受け入れて結婚したいほど、愛しているはずがない。
 しかし、いま、麗子はほんとうに怯えている。わざわざ会社に電話をしてきて、会社の仲間に助けを求めているのである。やはり、放っておくことはできない。
「わかりました。僕が今から行きましょうか?」
「ありがとうございます。いいんですか?」
 星田課長はすでに帰ったか外出中で席にいない。直属の上司は席にいるが、麗子の境遇を知らされていないはずである。
 仕方がない、圭一は覚悟を決めた。
「住所、教えてもらえますか?」

 タクシーを飛ばした圭一が麗子のマンションの前に到着したのは、9時を少しまわった頃であった。
 ドアを少し開けて、チェーンの向こうから圭一であることを確かめると、麗子はドアを開けた。
 黄色っぽい花がらのワンピースを着て、真っ赤なカーディガンを羽織っていた。いつもはコンパクトにまとめていあげているロングヘアを、ざっくりとポニーテールに結んで背中に降ろしていた。これほど長い髪だったのか、圭一は麗子のエレガントな出立ちに惚れ惚れとした。だが、麗子の表情には濃い不安の色が浮かんでいた。
 部屋のインテリアは、木と生成りの白でまとめられたシンプルなものであった。
 壁にはいくつもの写真が貼ってあり、その多くは女の子のものであった。人形や女の子用の玩具がところどころに置かれていて、部屋の主に、インテリアの統一感よりも大切にしているものがあることがわかった。
「ユキちゃんは?」
「もう寝かせました」
 ソファに腰を下ろした圭一に、麗子はお茶を入れて持ってきた。
「ほんとうに、こんな時間に、こんなことに巻き込んですみません」
「いいんですよ」
 麗子は圭一の隣に腰を降ろし、肩を向けて、圭一をまっすぐに見た。
「主人が来た時に、男性がいたっていうことになると、変な疑いを抱かれるかもしれません。そうなると、親権の問題でさらに不利になるので、主人が暴力をふるったり、ユキを無理やり連れて行こうとしない限り、別の部屋に隠れていてくれますか」
「わかりました」
 圭一も麗子の不安げな大きな瞳をまっすぐに見返した。
「ほんとうに、ごめんなさい」
 また、麗子の手が圭一の前腕に置かれる。麗子との距離は、いつもより、さらに短い。
 圭一は思わず目をそらして前を向いた。
 麗子の顔がさらに近づいた気配を感じた圭一は、頬に柔らかで暖かなものを感じた。
 麗子の唇であった。
 圭一は慌てて立ち上がった。
「そんなつもりじゃ・・・」
「ごめんなさい」
 麗子はうつむいて小さな声で言った。赤いカーディガンが胸で膨らんで、見事なカーブを描いている。
「怖くて、怖くて・・・私、どうかしてるんだわ」
「いや、いいんです」
 夫がやってきて、とくに問題を起こすことなく帰っていったとすれば、その後、自分はさっさと帰ることができるだろうか。
 圭一は頬に残る麗子の唇の感触をいとおしみながら考えた。
 麗子がオトコとの距離が短いのはわかっているし、なにかと思わせぶりな態度をとることが習いとなっていることは理解していた。
 とはいえ、それだけで、頬にキスまでするものだろうか・・・

 来客を知らせるチャイムが鳴った。
 インタフォンに駆け寄った麗子は映像を見て、圭一を振り向いた。
 やはり、来たのだ。
 暴力をふるい、麗子からユキを取り上げようとするムショ帰りの男が。
「来て―――」
 慌てた麗子は、ひとつの部屋の前に圭一を導いて、言った。
「ここに隠れてて―――」
 圭一はその部屋に飛び込んだ。
 背後でドアが閉められた。
 一般のマンションにしては分厚いドアが閉められると、部屋は完全な暗闇であった。
 麗子は部屋の電灯をつける余裕もなく、夫が待つ玄関に向かったようであった。
 圭一は仕方なく、スマホを取り出し、懐中電灯のボタンを押した。 
  スマホの弱い光に、ドラムセットが浮かび上がった。麗子はいつも叩いていると言っていた。だが、マンションの一室である。この部屋そのものが、防音室になっているに違いない。だから、音を漏らさないように、ドアの扉も厚く、閉じた時には吸い付くようにぴっちりと閉まったのだ。
 そして、その奥に、なにかがいた。
 ライトを向けて一歩近づいくと、ふたつの小さな光が煌めいた。
―――あっ
 圭一の背筋を悪寒が走った。
 が、その不気味なものは、三角座りをしている小さな女の子とわかった。
「だれ?」
 圭一はさらに近づいた。
「だれ? ユキちゃん?」
 三つ編みにした少女は頷いた。
「ここでなにしてるの?」
「パパが来るから、ここにいるの」
――― ユキは先に寝かせたと麗子は言っていたはずだ。こんなに小さな子供を、真っ暗なこんな小部屋に押し込んで、いったい、どういうつもりだ?
「いつもここで隠れてるの?」
「うん。あと、ユキが悪いことをした時も」
「えっ・・」
 これは虐待の一種ではないのか。こんなに小さな子供を真っ暗な空間に押し込めておく。そんなことをすれば、心の傷となって、きっと、将来、この子は僕のように閉所恐怖症になる。
 圭一はスマホを壁に向けて、ライトのスイッチを探した。ともかく、ライトをつけよう。
 防音材を裏にしこんであるのかふっくらと柔らかそうな白い壁にスマホのライトの光をあてて、スイッチを探した。
「パパは怖いかい?」
「ううん。パパのところへ行きたい」
「なんだって?」
「ママが怖い」
「?」
 圭一は混乱した。
 この子はムショ帰りの暴力を振るう父ではなく、その父から自分を守ってくれているはずの母の麗子が、怖いと言っているのである。
 木製のドアのすぐそばの壁にふたつならんだスイッチがあった。
 圭一はそのスイッチをオンにした。
 なにも起きなかった。ぱちぱちと数度繰り返した。やはりなにも起きない。
「そのスイッチはだめなの。ママが外からやらないと、デンキはつかないよ」
 ユキは三角座りをしたまま、そう言った。
 圭一はそれを聞くと、ドアの取手に手をかけて回そうとした。
 が、びくともしない。
 両手で掴んで全力で動かそうとするが、それでも動かない。
 取っ手の下の鍵を回そうとしたら、それは簡単にくるりと回ったが、フックを噛んでいないのは明らかであった。
「鍵も、ママが、外から開けてくれないと、開かない」
 圭一は自分の置かれた状況を、ようやく、はっきりと理解した。
 もし、この娘、ユキが誰かかから虐待されているとしたら、それは母親である麗子にほかならない。 
 そんな麗子に、力いっぱいドラムを叩いても外に音が漏れない防音室に閉じ込められたのである。
 圭一と小さな女の子に与えられた空間はせいぜい数平米で、ドラムセットの周囲に人が通れる程度の空間があるだけである。
 閉所恐怖症のスイッチが入った。
 圭一はパニックに陥った。
 もう、誰が来ていようが関係なかった。ドアを力任せに叩いた。しかし、重いドアはびくともせず、大きな音もしなかった。
 いままで経験したことのないどす黒い不安が、圭一の中で破裂した。

 どうやら気を失っていたらしい。
 頬に冷たいものが触れる。
 気がつくと、床にうつ伏せに倒れ、床に置いた頬を何かが濡らしていた。
 自分の唾液だろうか、圭一は暗闇の中でかろうじて身を起こした。
 そして、自分の置かれていた状況を、徐々に認識し始めた。
 慌ててドアを探り、取っ手に手をかける。
 びくともしなかった取っ手は、静かに回った。重たいドアを押し開くと一瞬すべてが真っ白になるような光を感じた。。
 座ったまま、圭一は身体を廊下の外に投げ出した。
 助かった、圭一は安堵の息を吐いたのだが、すぐそばに見えたものに、驚愕した。
 男が仰向けに倒れていた。
 目が天井に向かって見開かれている。
 腹のあたりが血で真っ赤に染まっており、血溜まりがべっとりと広がって、圭一のいるところまで続いていた。
 圭一は自分の掌を見て、頬を濡らして圭一を起こしたのは、この男の血であることに気がついた。
 ふと、人の気配に気がついて、圭一は反対方向に振り返った。
 麗子が立っていた。
 長い髪を乱し、ワンピースのスカートを血で染めて、焦点の合わない目をしていた。
 手に血のついた包丁を持っている。
 圭一は麗子の手首をつかみ、その包丁をもぎ取った。
 玄関で騒々しい音がしたと思うと、大きな足音を立てて入って男が雪崩れ込んできた。警官たちであった。
 その警官のひとりに向かって、麗子は飛びかからんばかりに歩み寄り、身体を預けた。
 そして、圭一を指さして言った。
「この人が、主人を刺しました・・・」 
――― 俺が、この男を、刺した?

 圭一が目覚めた時、まっさきに飛び込んできたのは、星田課長の心配そうな顔であった。
 周囲を見回すと、麗子とユキちゃんもいた。
 しばらくして、やっと、自分が病室のベッドに寝かされていることに気がついた。
 麗子の表情に暗さはなく、意識の戻った圭一を見て、底抜けの愛情を表すかのような微笑みを向けた。
「よかった・・・わたし、うっかり、矢澤さんを防音室に閉じ込めてしまって。閉所恐怖症だったんですね。聞いたことがあったような気がするけど、すっかり忘れていました。すみません」
 圭一の意識に立ち込めていた霧はようやく薄れ、すべてがはっきりと見えてきた。
 あの血を流して倒れていた男と警官、血まみれの包丁を持っていた麗子の姿は、夢か幻想だったのだ。
 たしかに、そんなことがあるはずがない。
 そうか、防音室に閉じ込められた後、暴力を振るうという触れ込みだった夫は、ユキを強引に連れて帰ることも、暴力をふるうことなく帰ったのだ。
 圭一はようやくそのことをはっきりと理解して、高まりつつあった不安な気持ちを拭いさった。
 助かった。あれが現実なら、麗子の裏切りにあった自分は、あやうく殺人犯とされるところであった。
 それにしても、あの暗く頑丈に密封された防音室の閉鎖空間の恐怖は、凄まじいものがあった。パニックに陥った自分は、気を失い、こうして病院に運び込まれたのだろう。
 手足を動かしてみるが、どこにも怪我はないようである。
 ようやく圭一は気づいた。
――― 早く星田課長に麗子の部屋へ行った経緯を説明しないと。変なことになってしまう。
 が、ちょうどその時、麗子が星田課長に話していた。
「主人が来るかもしれないので、ときどき、矢澤さんはうちに来てくれていたんです」
――― ときどき、来てくれていた? ちょっと、待て。昨夜がはじめてだぞ。
「夜中に?」と星田課長の怪訝そうな声。
「主人が遅くに来るっていうもんですから・・・」
「しかし、そういうことは、警察の仕事でしょう」
「警察は実際に暴力でも振るわれない限り、動いてはくれませんわ。とにかく、矢澤さんは、不安なときには助けに来てくれました。ユキも、矢澤さんになついてますし」
――― なぜそんな嘘を?
 あまりのことに呆然として、口をはさむタイミングを逸していた圭一が叫んだ。
「待ってください!」
 圭一はベッドから起き上がって叫んだ。
「きのう、はじめて麗子さんの部屋に行ったんです。ユキちゃんだって、きのうはじめて・・・」
 星田課長は圭一に振り向いたが、黙ったままで、その目には深い猜疑の色があった。
 その時、黙って麗子に手を繋がれていたユキが、麗子の手を離れて圭一のベッドに近づき、圭一の太もものあたりに身体を投げ出した。
 そして、信じられないことを言った。
「ねえ、約束どおり、パパになってくれるんでしょ?」
 圭一は目を見開いて、麗子の顔を見た。
 麗子はあいかわらず、あの美しすぎる微笑みを圭一に向けていた。

 圭一は人生最大の閉所恐怖症のパニックに襲われた。
 それは、MRIの装置よりも、満員のLCCの真ん中の座席よりも、クチの洞窟陣地よりも、麗子の家の防音室よりも、いままで経験したどんな閉塞状態よりも抜き差しならない、最悪の閉塞空間に囚われたてしまったことを、圭一が悟ったからであった。